エイシオの誕生
第6話
西の空が白みかけている。
間もなく夜が明けようとしていた。
まだ暗い森の中で、小さな焚火の火が揺れている。
その火の温もりの中、ふわりと体にかけられた毛布を感じて、シロは姉の名を囁いた。
返事はない。
頭がひどく痛み、体は思うように動かない。
苦痛に身をよじりながら、もう一度大きな声で姉の名を呼んだ。
「…お姉ちゃん…」
「彼女はここにはいない。」
鉛のような重い声に、シロは一瞬で夢から現実へ引き戻された。
焚火の前に座る男の背を目にしたとたん、シロの精神を恐怖が支配する。
「なっ…」
背後の木にぶつかるまで、尻を地面に付いたまま後ずさり、ただ混乱し、怯え身を縮こませた。
「心配するな。もうお前を傷つけるつもりはない。」
フローリアンは火に枯れ枝を放り込みながら、静かな口調でそう言った。
しばらく男の背中から目を離さずじっと凝視していたが、徐々に体中の傷がうずき始め、ついには耐えられないほどの痛みとなり、苦しそうにうずくまってしまった。
その気配を背後に察した男は、おもむろに立ち上がって少年のすぐ脇にしゃがみ込むと、手に持っていた金属製のカップを差し出した。
「ほら、飲め。これで痛みが和らぐ。」
シロは体を地面に横たえたまま、さらに怯えて身を丸くする。
男はカップを少年の頭のそばに置くと、静かに火の近くへと戻って座った。
―逃げなきゃ…。―
置かれた状況を徐々に理解しはじめたシロは、痛みをこらえて駆け出した。
が、2メートルも進まないうちに、体に強い衝撃を受けて、その場にひっくり返ってしまった。
大きな木の幹に結えつけられている頑丈そうなロープが、シロの腰に繋がっている。
慌ててロープをほどこうとするも、震える手は言うことをきかない。
「それだけの体力があるなら心配なさそうだな。
だが痛みを抱えたままでは、そのうちその体力も奪われる。」
焚火に枯れ枝を放りこみながら、フローリアンが背中で語る。
シロは、一向にに解けないロープを掻きむしっていた。
一刻も早くこの場から逃げ出したかった。
「無理だ、小僧。お前の力じゃ切れない。
それにそのロープは特殊な植物でできている。
力を加えれば、なお固く締め付けられるだけだ。」
ロープで擦れた手がヒリヒリと痛む
体内のアドレナリンが切れるとともに、再び体中に猛烈な痛みが襲ってきた。
しばらく痛みと戦っていたが、ついには抗いきれなくなり、大木の根元まで這って戻った。
この男を信用してはいけないと思っている。しかし、この苦痛から脱したい一心で、置いてあったカップに口を付けた。
「…甘い」
優しい甘みに思わず声を漏らす。
銀のカップになみなみと注がれたミルクの上には、薄紫色の小さな植物の花が浮いている。
「それは薬草の味だ。
この辺りでは珍しくない植物でね。
我々、傭兵の間では重宝されてる。」
それだけ言って、男は口を閉ざした。
そのあとは何も語らず、ただ火に手をかざし、静かに目を閉じると炎のはぜる音だけに耳を傾けている。
カップが空になるころには、シロの痛みはずいぶん治まっていた。
やがて、心地よい炎の音が眠りへと誘う。
うとうとしながらも、男の姿を視界から外さないよう努力していた。
自分の身を守るため、小さな少年は今、必死に眠気と戦っていた。
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森は深い霧に覆われていた。
朝だと言うのに、鳥のさえずりは聞こえず、葉のざわめきすら聞こえない。
辺りはシンと静まり返っていた。
濃霧に太陽光が降りそそぎ、幻想的な情景を生み出している。
生臭い風を頬に感じ、シロはハッと目を覚ました。
見上げた先には、大きな2本の結晶状の角と、同じくゴツゴツした結晶体が首から背にかけて生えた、耳の長い馬型ゴーレムが1頭立っていた。
そいつが、シロの顔をクンクンと嗅いでいる。
「うわっ!」
シロは飛び起きた。
消えかけの焚火のそばで、フローリアンは昨晩と変わらず同じ場所に座っていた。
シロは極力馬から離れ、男の背に向かって叫んだ。
「ぼ…僕を殺すつのりなのか!?」
声が震える。
「殺すつもりなら、とうに殺ってる。」
「なら、どうするつもりだ!?」
「言っただろう。
お前を一人前の守護者にする。」
フローリアンは座ったまま振り返り、少年の目を真っ直ぐ見つめた。
「そんなの嫌だ!
誰もそんなことなんか頼んでない!
僕は家に帰りたい!パパやママのところに!」
「お前にはもう帰る家がないんだよ。」
再び男は視線を焚火の火に移した。
「嫌だ!帰るんだ!
僕はシロ・メルカンだ!
お前の指図なんか受けないんだ!」
シロは癇癪を起して大声で叫んだ。
それに呼応したかのように、森に風が吹き抜け、鳥の群れが飛び立った。
フローリアンは立ち上がると、恐怖で固まるシロの目の前まで歩み寄った。
反射的に腕で頭を防御する格好になった少年に向かい、
「お前はもはやメルカンではない。
あの館も家族も、お前にとって思い出でしかない。
そしてその思い出も、いずれ捨てろ。」
と告げる。
囁きにも似たその声はあくまで冷静であった。
見上げたその表情に暗殺者の恐ろしさはなく、むしろわずかな悲しみをたたえていた。
シロは、この男に”怒り”以外の感情があることを初めて知った。
それでも、彼は目の前の男を信頼などしていない。
「ウソだ!ウソをついてる!」
目に涙をいっぱいに溜めながらも、必死に抵抗してくる少年を見て、男はやや躊躇したものの、ゴーレムの背に載せたカバンからある物を取り出し、シロに見せた。
正六角形をした厚みのある真鍮製のフレームの小さなオブジェクト。
中央のくぼみ部分に3層のわずかに色の違う薄い結晶石がはめ込まれている。
「エレメント・レコーダーだ。
知っているか?」
手のひらにそれを乗せて少年の前に差し出す。
「パパの会社の…。
どうやって動いてるかは知らない…。」
シロは男の顔をチラリと見上げて、すぐまた視線を外した。
「導電性結晶を使った録音機器さ。
3層の結晶層からなる媒体で、音を振動として受信する風の結晶層と、それを伝導する中性結晶層、そしてそれを音声再生させるもう一方の風の結晶層に…」
「そんなのどうでもいいよ。どうせ分からないし…。」
少年は大嫌いな科学の授業を思い出して、ふくれっ面をそむけた。
「まあ、そう言うな。
とにかく、この3層になった風の結晶石が録音再生を担っているのさ。
…これを聞け。」
フローリアンは指先に微細な風のエネルギーを発生させて、レコーダーを作動させた。
ガザガザという雑音に混じり、人の話し声が聞こえる。
やがてそれは、よりクリアな音声となった。
『人を1人、始末してほしい…』
『メルカン家の一人息子だ…。』
『そのガキは十三宮だ!だから抹殺しなくてはならない!』
“じふそ”の意味は分からない。
だが、その執念にも似た殺意は、幼いシロにも理解できた。
「これが誰の声か分かるな…?」
フローリアンの問いにシロは目を見開いたまま黙って、ゆっくりとうなずいた。
それは年端もいかぬ少年の心が抱えきれるキャパシティを遥かに超えた残酷な事実だった。
シロは泣き崩れた。
母の冷たい視線、父の不自然な態度、どこか引っかかっていた、小さな疑念のピースが符合していく。
「僕は、いらない子だった…。」
そうつぶやいた少年を、フローリアンは無言で見つめている。
「お姉ちゃんに会いたい…。
…そうだ、お姉ちゃんなら、僕を守ってくれる!」
「残念だが、それも無理だ。
十三宮の守護者は、その存在を見つけ次第処刑される。
この法はどこの国も同じ。
もし、十三宮をかくまう者があれば、それも同じく処刑される。
お前は大切な姉を危険に晒したくないだろう?」
哀れみにも似た声は、静かに低くシロの心に浸透した。
長い沈黙を破ったのはシロの悲痛な叫びだった。
「全部…、全部この模様のせいだ!
これが手に出てきてから、みんな変わった!」
小さな右手の甲を搔きむしりながら、シロは泣き叫んだ。
フローリアンは手で静かにその行為を制し、
「世の中は不公平にできている。
しかし、それを不公平として終わらせるか否かは、お前の心次第だ。
いいか。その刻印は、お前がこの時代の十三宮であることを示している。
お前はオリジン・エレメントに選ばれたのだ。
過去の狂人のために災いの数字とされているが、元来それは誇るべきもの。
時空を司る、最も偉大な守護者の1人としての証だ。」
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その日の夕方。
一日中膝を抱えて泣いていたシロは、自身の感情に反してグーグー騒ぐ腹の虫を疎ましく思っていた。
「人間というものは、どんな感情に支配されていようとも、必ずハラは減る。
それは生きようとしている証拠だ。」
男はそう言ってシロの目の前に、木の枝に刺した魚の素焼きを差し出した。
シロは相変わらず膝を抱えたままで顔をそむけたが、抗いがたい空腹にいてもたってもいられず、それをひったくった。
「小骨に気を付けろよ。喉に刺さると厄介だからな。」
フローリアンの言葉も空腹の少年の耳には届かず、彼は夢中で焼き立ての魚にかぶりつく。
身の間からジュワっと染み出した油で舌先を火傷し、のけぞるように口を放すと、シロは犬のように舌を出して悶絶した。
フローリアンが黙って水の入ったカップを渡す。
それを一気に煽る少年に向かって、今後のプランを淡々と放し始めた。
「ここでもう一晩明かしたら、北へ向かう。
国境を越え、火王朝へ入るぞ。」
シロは、まるで他人事のように、それを聞き流した。
人というものは食という欲求が満たされたとき、緊張、恐怖といったマイナスな感情から一時的ではあるが解放される。
そしてお腹がいっぱいになれば眠くなるのもまた人のサガ。
フローリアンは、うとうとし始めたシロの腰に結ばれたロープを外し、「立て。」と命じた。
手には今しがたまで煎じていた、黒くドロドロした液体の入ったすり鉢を持っている。
「それ何?」
体が自由になったシロは、臆するでもなく、逃げるでもなく、眠い目をこすりながら尋ねた。
「天然の顔料さ。心配するな。毒ではない。」
そう言って、シロの頭を下げさせると、髪にその液体を注ぎ始めた。
「ヌルヌルしてて気持ち悪いし、変な匂いがする。」
シロは嫌がったが、フローリアンは構わず続けた。
「これは一度染み込むと、半永久的に色落ちしない染料だ。
服や肌についたら、すぐに洗えよ。」
そう言って、液体がまんべんなく染みわたるよう、髪と頭皮を軽くマッサージしてやった。
それを不思議と心地よく感じながら、シロはうつむいたまま男に尋ねた。
「なんでこんなことするの?」
「お前の赤い髪は目立つ。すぐに素性がバレる。」
髪は見るまに黒く色を変えていく。
シロの髪からしたたる余分な顔料を粗布でふき取り、黒く変色してしまった手袋とともに焚火の炎へ放り込むと、フローリアンは少年の前に膝をついて目線を合わせ、|静かに、言い聞かせるようこう言った。
「シロ・メルカンは嵐の夜に死んだ。
お前はもうシロ・メルカンであってはならない。
今日からお前は”エイシオ”を名乗れ。
それがお前に新しい人生をもたらす名だ。
これからは俺の弟子であり、時空の守護者。
新しい世のパラディンだ。」
「エイシオ?」
夕日に照らされた男の顔をじっと見つめて少年は小さくつぶやいた。
「そうだ。」
「僕は、エイシオ。
…おじさんは?」
男は自分の名を問われたことに気づくまで、少し時間がかかった。
これまでの経緯、最悪のファーストインプレッションを抱いているであろう、この小さな少年が、まさか打ち解けた口調で質問してくることを想定していなかったのだ。
「フローリアン。」
「フローリアン?
始めまして…。僕は…、エイシオです。」
真面目な面持ちで一礼した少年の姿を、少々面食らった様子で眺めていたが、
「その貴族のお坊ちゃん的礼節も、いずれ捨ててくれよ。」
と、フローリアンは、ため息混じりに独り言ちた。
こうして、木々の間からオレンジ色の射光が降り注ぐ静かな森の中で、師と弟子の物語が幕を開けた。
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翌朝、霧雨が降る森の中でエイシオは目覚めた。
「目が覚めたか?そろそろ出発するぞ。
だが、その前に…。」
フローリアンは少年に服を放り投げる。
ゴーレムにキャンプ道具を積み込む男に背を向け、エイシオは泥と血に汚れた寝巻を脱ぎ捨て、受け取った青いチュニックに袖を通した。
白いカプリパンツに黒のブーツ、そして青いマントは異国風で、肌触りは良くないが、これまでメイドが手伝ってくれた着替えを自分1人でできたことに、エイシオは満足していた。
「できたよ。」と言って近寄ってきた少年に
「着替えひとつにずいぶん時間がかかったな。」と皮肉を言いつつ、フローリアンはその小さな右手を取り、黒い布切れをきつく巻き付けた。
「いいか。これは十三宮の印を隠すため、しいてはお前の命を守るためのモノだ。
だから決して外すな。
人前で外せば死ぬ。そう覚悟しておけ。」
厳しい口調でそう言いながら、少年の腰でだらしなく巻かれたベルトをギュッと締め直してやる。
それからエイシオが脱ぎ捨てた、茶色く変色した血がこびりついてボロボロになった寝巻を小さなバックに詰め込むと、結晶から召喚した大鴉型ゴーレムに咥えさせ、「メルカンの本宅へ。」と命令して空へ放った。
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エイシオは人生で初めて乗る馬の背で、フローリアンの腰にしがみつき悲鳴を上げていた。
彼が育ったメルカンの家では、乗馬は禁止されていた。
落ちて怪我をしてはいけない、それが両親の考えだった。
かつて息子の怪我を恐れた両親は、皮肉にも息子の死を望んだのだが…。
「お…落ちる!落ちるよ!…落ちるってば!
もっとスピードを落としてよ!怖いよ!」
「しっかり掴まってろ。
大丈夫だ。お前ならできる。」
フローリアンは決してスピードを落とさない。
2人を乗せたゴーレムは、森を抜け、山を越え、疾走する。
やがて彼らの前に先日の雨で増水し、ドウドウと音を立てて流れる川が見えてきた。
その川の淵で、ようやく馬は止まった。
固まって震えるエイシオを抱きおろし、その頭に手を置き労ってやる。
「よく耐えた。お前ならできると言っただろう?」
まだ震えが止まらなかったが、それでもこの一言で自分が強くなった気がして、エイシオは嬉しかった。
そんな少年をよそに、フローリアンは川べりの茂みへと分け入り、丸太で組まれた筏を引きずりだしてきた。
「それで川を下るの?いつ作ったの?」
「こういう仕事をしていれば、何事も周到に準備しておくものさ。」
少年の問いに適当な返事を返しつつ、彼を筏の上に乗せると、自身もひょいと飛び乗って、軽く岸を蹴った。
ゆっくりと淵を離れ、川の流れに乗り進み始めた筏の上から、フローリアンは乗ってきたゴーレムに向かって口笛で合図を送る。
すると馬はその号令に反応し、流れの早い川に真っ直ぐ突っ込んでいく。
やがて難なく対岸へと渡りきり、そのまま霧の立ち込める雑木林に消えて行った。
「ゴーレムをどうしたの?」
「追手をまくための工作さ。
ああやって蹄の跡を地面に残し、川向こうに渡ったと思わせる。」
「追われてるの!?」
エイシオは慌てたように立ち上がった。
「馬鹿、立てるな。落ちたらどうする。」
少年のベルトを掴んで座らせた。
「この川は、そのうち”アロ川”という大河と合流する。
その川を下れば、もう火王朝帝国領内だ。
そこからは長い長い徒歩の旅になる。
馬はもうない。覚悟しとけよ。」
どれほど時間がたっただろうか。
靄がかかっていた空は晴れ、太陽は天頂にあり、明るく周囲を照らしている。
フローリアンの言葉通り、やがて急流は大河と交わり、筏は緩やかな流れに乗った。
川幅は広く、両岸が霞んで見える。
ところどころに現れる浅瀬や岩場を、フローリアンは器用な櫂さばきで避けながら進む。
しばらくして見えてきた広い砂の河川敷を指さし、「あそこから上陸する。」と告げた。
「どうして?
もっと先まで筏で行くんじゃないの?」
怪訝そうに尋ねてくるエイシオに、
「予定変更だ。
この先の国境で、いつも以上に大掛かりな検問が敷かれているらしい。」
と、川の中の岩を櫂でついてかわしながら、フローリアンはやや緊張した声色で答えた。
エイシオは川の下流を見つめる。
「何も見えないけど…。
どうして分かるの?」
それを聞いた男は空を指さした。
上空にはトンビが4羽、輪になってぐるぐる円を描き飛んでいる。
「あれは傭兵同士のシークレットサイン。
検問注意の合図さ。」
「へえ。秘密の暗号なんだ…。
便利だね。いつでもどこでも安全に旅ができて。」
少年は空を見上げて呑気なことを言っている。
「…そうでもない。」
「え?」
「この辺はアトラス・ペーネイオスの生息域でね。」
「アトラス何?」
「バカでっかい塩蟹さ。」
「塩蟹!?」
かつて図鑑で見た気味の悪いグロテスクな生物の絵を思い出して、エイシオは叫んだ。
「しっ!静かに。
大声を出すと、ヤツらが寄ってくるぞ。」
少年は、辺りをキョロキョロ見回し、不安げにフローリアンに身を寄せた。
「でも、アイツらは海にしかいないんでしょ?僕、本で読んだよ?」
「普段はな。
ヤツらは寒い季節は川に遡上するのさ。
ここらの川の水は温かいからな。
だが心配することはない。
エサの少ないこの時期は、川底の砂の中で冬眠してる。」
「なんだよ。脅かさないでよ。」
と、口をとがらせるエイシオの様子を横目で見て、フローリアンは意地悪そうに笑った。
「まるで怯えたネズミだな。
まあ、お前のことだから、どうせそんな反応を見せると思っていたが。
さ、そこから上陸するぞ。」
そう言って、櫂を操り河川敷の砂地に筏を乗り上げた。
ようやく大地に足をつくことができ、安心したようにエイシオは深呼吸をする。
「何もなくって、良かったね。」
「心配することはないと言っただろう。」
そのフローリアンの言葉が終わらぬうちに、背後の川の水が、轟音とともに大きく盛り上がった。
突然の事態に驚いて振り向いた2人の前に、巨大な黒い影が川底から姿を現す。
「前言撤回だ。」
そう言い捨てると、男は素早くエイシオを抱きかかえ走りはじめた。
フローリアンの肩越しに見た巨体が何であるかは、もはや問うまでもなかった。
アトラス・ペーネイオス。巨大塩蟹である。
甲羅だけでも、ゆうに2メートルを超す化け物だ。
名前の通り、茶色く濁った塩の結晶が全身を覆い、前面には8つの赤い目が光っている。
そいつが2人の後を追って、蜘蛛のように飛び跳ねながら追ってきているのだ。
それを見てエイシオは大絶叫した。
「早く!早く!追いつかれちゃうよ!」
「やかましい!舌を噛まないよう黙ってろ!」
大蟹が飛び跳ねるたびに、不気味なザックザックという砂を蹴る音が鳴り、それは徐々に距離を詰めてくる。
到底、人間の走るスピードで逃げ切れるものではない。
フローリアンは足を止め、迫りくる化け物に向かい合った。
左手に素早くエネルギーをチャージして、強力な気弾を2発撃ち込む。
しかしひるむことなく化け物はツメを振り上げた。
その重い一撃をひらりと躱したが、それを待ち構えていたように、新たな結晶蟹が2匹、川底から這い出してきた。
「冬眠してるって言ったじゃないかぁ!」
肩にしがみついたエイシオは半狂乱である。
「自然ってヤツは予測不可能なんだよ!」
3匹の化け物に囲まれたフローリアンは、それらの気配を見失わないよう精神を集中させた。
蟹はじりじりと包囲を狭め、獲物へと忍び寄る。
その中心でフローリアンは低く姿勢を構えた。
そして肩で怯える子供に低く冷静な声で命令する。
「しっかり掴まってろよ、小僧!」
両足にエネルギーを溜めると、大地を蹴って一気に上空へ舞い上がった。
あまりの上昇速度に両腕の力が抜け、呼吸ができず、エイシオは叫ぶ余裕もなかった。
フローリアンはスピードがゼロになる最高到達点で、くるりと身を一回転させ、着地点を下流の川中央に定めると、今度は重力のままに、ものすごい速度で落下しはじめた。
エイシオの目に、地図を広げたような下界が映る。
曲がりくねったアロ川、川の中州、周りの森林。
全てがジオラマのように小さく見えた。
落下しながらフローリアンは下向きに体勢を変え、エイシオの体をしっかりホールドする。
それから半分気を失いかけている少年に強く言い聞かせた。
「いいか、3つ数えたら、大きく息を吸い込め!
1…2…3!」
エイシオは途切れそうな意識の中で、必死に息を吸い込んだ。
同時にフローリアンは片腕で固く少年の体を抱えたまま、空いた手を川面にむけ強力な風の衝撃波を放つ。
風圧が水面に大きな窪みを作り、水中で衝撃派が弾けて小さな気泡を無数に湧き上がらせる。
ほんの一瞬のことであった。
2人はアロ川へ突っ込んだ。
先程の泡の層がクッションとなり、着水の衝撃は抑えられたが、反動で投げ出されたエイシオの体は、川の深みに沈んでいった。
何が起こったか理解できないエイシオの口から、大量の泡が噴き出す。
泡がクルクルとダンスを踊るように舞いながら川面へ昇っていく。
暗い奈落へ落ちながら見上げた水面は、太陽の光でキラキラと輝いている。
薄れゆく視界の彼方、光のカーテンが揺らめく水中に、自分を追ってこちらに向かってくる人影を見た気がした。
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「エイシオ…」と呼ぶ声がする。
「…誰?…エイシオ?
僕は…シロ…」
夢から覚めたように、視界が明るくなった。
「気がついたか?」
フローリアンが覗き込んでいる。
砂の上に寝かされていることに気づき、徐々に状況を理解しはじめた。
「危うく食われるところだったな。」
そう言いながら、まだぼんやりとしている少年の腕を引き、立ち上がらせる。
「大丈夫か?」と問われ、
「うん。」と小さく返事を返した。
顔は青白く、焦点が定まっていない。
すると今度はエイシオの肩を掴み、フローリアンは力強く問うた。
「お前は俺の弟子、俺はお前の師。そうだな?」
少年は、ただ黙って定まらぬ視線で見つめ返してくるだけだった。
そこで、もう一度同じ問いを投げかけた。
「俺はお前の師。そうだろう?」
「…うん。」
頼りなげな答えが戻って来た。
「では、これだけは覚えていてほしい。」
フローリアンはエイシオの目を真っ直ぐ見た。
「師たる俺の務めは、お前に技を教え、生きる術を授け、戦い、勝利するために鍛えること。
そしてお前の命を守ること。だから俺は決してお前を死なせない。
俺の側にいる限り、お前は死の影に怯える必要はない。
お前が一人前の守護者となるその日まで。
その輝かしい目的を果たすまではな。
分かったか?」
エイシオは目の前の男が言わんとする言葉の意味を理解しようと努めた。
しかし体力の消耗と精神の疲弊で、立っているのがやっとの状態である彼ができる対応は、ただ一言、
「…うん。」
と小さくつぶやくことだけだった。
「ここは安全ではない。移動するぞ。歩けるか?」
「…うん。」と答えるエイシオであったが、もはやその気力すら残されてはいない。
濡れた体から冷たい川風が容赦なく体力を奪っていく。
しかたなく、フローリアンは少年を背負って歩き始めた。
久々に感じる人の体温が、そして、かつて自分の命を危険に晒した暗殺者は、今やこの危険に満ちた世界でただ1人頼ることのできる大人であるという認識が、エイシオの警戒心に勝ったのかもしれない。
やがて少年は、絶対的安地で深い眠りに落ちた。
第6話 おわり
書きました。アブサロン
イラストはこちら ペイやん
おまけイラスト
いつも小説を応援していただき、ありがとうございます。