シロの死
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第5話
人の中にある”善”と”悪”の2項対立は、人類が知りうる最も古い戦いである。
ときに道徳という名の天秤は制御不能なほど揺れ動き、”正”と”誤”の境界線すら、ひどく曖昧になる。
ゆえに人は、目的達成のために”自身を正当化する”という手段を使い、自分自身を説得する。
その時点において”全てを犠牲にする価値があるのか”という疑念は置き去りになるのだ。
13号室の扉の前に立つバルトロは、今まさに、その戦いのさなかにいた。
ドアノブに手をかけたまま、彼は未だ固まっている。
額から流れる汗は建物内の熱気のせいか、恐怖のためか。
この扉は狂気の入口である。
腕に軽く力をこめ、一押しするだけ…、ただそれだけで、禍々しい何かにまみれた栄光への未来が拓く。
彼の筋肉が、そして精神が少しずつ麻痺していくのが分かった。
数秒の空白ののち、虫に食われて小さな穴がポツポツと空いた薄気味悪い扉が、ギィと大きな軋みを立てて開いた。
バルトロには、あたかもそれがひとりでに開いたように思えた。
部屋は暗い。
格子がはめ込まれた窓から、わずかな月明りが忍び込み、部屋の奥のベッドだけがぼんやりと見える。
マットレスのへこみが、今しがたまでそこに人のいたことを示していた。
だが、室内に一切の気配は感じない。
「誰かいるか?」
緊張で声がうわずる。
返事はなく、そこは沈黙に包まれていた。
バルトロは注意深く部屋に足を踏み入れた。
耳障りな床の軋みが、なお恐怖を煽る。
入口から見えたベッドの脇までたどり着き、この部屋にいた者の痕跡を見つけ出そうとしたその時、背後の扉が勢いよく閉まった。
慌てて出口に向かってきびすを返した瞬間、眉間に突き立てられた2本の指を感じ、戦慄する。
暗闇に男のシルエットがあり、まっすぐ伸ばされた腕にはスカイブルーのサーキットが浮かんでいる。
額に押し当てられた指が何を意味するかを、バルトロは瞬時に悟った。
「動けば気弾がお前の頭を吹き飛ばす。」
そうささやいた声は、地を這うように低い。
蛇に睨まれたネズミのように体が言うことをきかず、狼狽しつつもバルトロは乾いた喉から声を振り絞った。
「待て…仕事の依頼に来ただけだ…。」
「仕事?」
「人を1人、始末してほしい…」
「ほう…いったい誰を消す?」
指がさらに押し付けられる感覚に、バルトロはなお体を強張らせた。
首筋に汗が流れる。
「メルカン家の一人息子だ…。」
「フン…。ずいぶん大それた依頼だな。
それには相当の対価が必要だ。
だが、お前にその報酬を支払う能力があるとは思えん。」
相手が話に食いついたと悟ったバルトロは、すかさず言葉を続けた。
「金ならある!いくら要求してくれてもいい。」
闇の中の男は黙った。男からは呼吸すら感じられない。
「…なぜ始末してほしい?
たかがガキ1人を消すために、お前は大金を払うと言う。
ならば、それなりの理由があるんだろう?」
「そんなことはどうでもいい!
私はただ、この仕事を引き受けるかどうかを聞いているんだ。」
一刻も早く、この話を終わらせたいバルトロは声を荒げた。
「…」
男は無言のまま腕に力を込めた。
その圧に耐え兼ねたバルトロが一歩後ずさり、ベッドサイドに追い詰められる形となった。
「理由もなく、いたいけな子供を殺せと?
そんな仕事を引き受けるとでも思ったか?
そもそも子供を殺るのは俺の流儀じゃない。
お前のようなクズは、生きる価値もないと知れ。」
男の腕のサーキットが発光し、指先にエネルギーがチャージされているのが分かる。
「…待て!待て、私はこの依頼を受けるか否かを尋ねただけだ!
請け負えないというなら帰るよ…。」
バルトロは、これ以上状況が悪化しないよう祈った。
その額に指を押し当てたまま、男が一歩前に歩み寄る。
青白い月の光が彼の顔を照らした。
褐色に短い髪と顎鬚を生やした姿が明らかになる。
左の眉の上から真っ直ぐ目の下へ刻まれた傷跡が、男の人相をより粗暴に見せ、鋭い眼光が刃のように冷たい輝きを放つ様は、地獄の鬼を思わせた。
さらに後ずさろうとしたバルトロは、ベッドのふちに足を取られ、よろめき倒れこんだ。
それにより暗殺者の指は額から離れたが、相変わらず照準は哀れな獲物の頭に合わされている。
いよいよ後のなくなったバルトロは半狂乱で叫んだ。
「そのガキは十三宮のパラディンだ!だから抹殺しなくてはならない!
君はトレディシム教団のアルファゼマ拠点を破壊したと聞いた。
頼めるのは君しかいないんだよ…!」
「…その情報、どこで手に入れた?」
男はようやく腕を下した。
「それは明かせない…。ただ、信頼できる情報筋だ。」
「ほう…。」
男はトレンチコートのポケットから、年代物のモノクルを取り出して右目に装着した。
そして、仰向けに情けなくひっくり返った無防備な男に、もう一歩近づき身をかがめた。
バルトロは反射的に防御姿勢をとる。
暗殺者は薄ら笑いを浮かべた。
「怯えることはない。これは古い型のバイザーさ。
守護者XIIIのエネルギーにだけ反応する結晶体でできている代物でね。
…なるほど、確かにお前からは、ほんのわずかだがソレが見える。」
「ど…どういう意味だ…。」
「あんた、こんなところに単身乗り込んで来た勇気は褒めてやるが、詰めが甘いな。
ならず者に身をやつしていても、所作や言葉遣いまでは化けきれない。
どこぞの上流階級のダンナ様ってとこかい?
それに十三宮を見つけたから殺せというのも妙だ。
憲兵なり、領主なりに知らせれば、それなりに報酬はもらえるはずだろうからな。
そしてなにより、この残留エネルギーだ…。
これは十三宮と数日間ともにいた証拠さ。
…さて、教えてもらおうか。あんた何者だ?」
これ以上黙っていては、状況は悪くなるばかりと察したバルトロは、なんとかこの場を切り抜けようと策をめぐらせた。
「わ…私は…メルカン家の使用人だ…。
たまたま見たんだ。末息子の手の印を。
憲兵に知らせれば、私がメルカンの主から罰をうけるだろうと思って…」
「ウソはもう少し上手につくもんだ。」
男はイラついたように手を伸ばし、バルトロの顔を覆っていたストールを剝ぎ取った。
そしてふいにカラカラと笑い始めた。
「おや、これはこれは。
お初お目にかかりますなぁ、メルカン家のご当主殿。
まさか、かの名家の子息が、新たな十三宮の守護者とはね。
フン…わざわざ探す手間が省けた。」
「馬鹿を言うな…私は…」
狼狽するバルトロに、暗殺者は顔を近づけ鋭い目で睨みつけた。
「出し抜こうなんて考えないことだ。
俺を欺くことはできない。」
おもむろに男は立ち上がり、モノクルを外してポケットにしまうと、腕組みをしてバルトロを見下ろした。
「俺はフローリアン。
ま、裏の世界じゃ“忍び寄る静寂の死”ってほうが通っているかも知れんがな。」
そう言って、ククッと喉の奥で笑った。
その声は地の底から湧く不吉な風の音のように聞こえた。
「さあ、ウソはやめよう、メルカン家の当主よ。」
フローリアンはドアの脇の粗末な椅子を引き押せるとそれに腰かけた。
「我々には共通の目的があるようだな。それが十三宮だ。
ならば話は早い。
さあ、リラックスして、ビジネスの話をしようじゃないか。」
と、薄ら笑いを浮かべて、おもむろに金の話をし始めた。
「まず20ゴールドスクレを要求する。
10は仕事の報酬、10は沈黙の報酬としてな。」
慌てて金貨を用意しようとしたバルトロの動きを後目に、男は言葉を続けた。
「面倒は少ないほうがいい。
殺るなら、この町よりさらに人目の少ない地域がいいだろう。
場所と時間はそちらに任せるが、ガキの正確な居場所はあらかじめ連絡をよこせ。
警備の人数や配置もな。
それさえ分かれば、お前の大切なガキ、シロ・メルカンをすぐにでも始末してやろう。」
「ひどい話だ…」
バルトロは目を伏せた。
我が子の殺人計画の最中、彼は頭を上げていることさえできなかった。
その正面で、暗殺者は受け取った金貨の枚数を数えながら、
「結局は大義のためだ。
あんたのガキをこの世から抹殺することで、世界がより幸せになる。
そうだろう?」
そう言って鼻で笑った。
実行までに必要な情報の伝達や、事後の隠ぺい策など、これまでの人生で最悪のミーティングを終えたあと、憔悴しきったバルトロは再び顔を覆って足早に部屋を出て行った。
フローリアンは1人、月明り差す薄暗い部屋の中にたたずんでいた。
そして格子の入った窓から空を見上げ、
「シロ・メルカン…新たな守護者。
会える日を楽しみにしている。」
そう独り言ちた。
青白い月光の中の男の表情は、とても穏やかに見えた。
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「うまくいったの?」
これが宿でバルトロの帰りを待っていたセリーナの開口一番の言葉だった。
「ああ…ああ、首尾は上々だとも。
簡単なことではなかったがな…。」
精神的に疲弊しきったバルトロは、その場にしゃがみこんだ。
「誰にもあなたの素性を明かしてはいないでしょうね?」
「ああ…いや、
隠し通すつもりではいたのだが…。」
「なんですって?」
セリーナは眉根をつり上げて座り込む夫を睨みつけた。
「仕事を任せたのは、この世に2人といない優秀な男だ。
だが、それゆえに私は彼にウソをつき通すことができなかった…。」
バルトロは深くため息をつき、乱れた髪をかき上げた。
「あなた馬鹿なの!?
とんでもない愚か者ね!
もしその男が世間に吹聴したらどうするの!?」
薄い壁を通して、会話が宿の主人に聞こえないよう注意しながら、セリーナは声を殺して夫に詰め寄った。
「私には無理だった。
あんな状況でウソをつき通すなんてできなかった。
それに相手はプロだ。外に向かって情報を垂れ流すなんてことはしない。
君は…、君は知らないから、そんなふうに言えるんだ。
あの男の目を思い出すだけでも震えがする。
一歩間違えば、私が命を失うところだったんだぞ?」
バルトロは立ち上がり、苛立つ妻に対して必死に弁明した。
夫が死に直面していた、という事実に、セリーナはヒステリックな感情を鎮めた。
そして改めて、彼が非常に危険な駆け引きを行ったこと、生きて戻ってきたことを認識した。
「ああ、あなた。
私、どうかしていたようね。
酷いことを言って、ごめんなさい。」
セリーナにとって、バルトロは、ただ“夫と”いうだけの存在ではない。
彼女に社会的地位を与え、無限の財をもたらす生命線である。
頼りなくはあれど、メルカンという名家と自分を繋ぐ唯一の糸。
セリーナの中では、夫は自身のプライドと地位を保つための道具にすぎないのかもしれない。
そんな妻の真意を介してはいないバルトロは、愛する美しい女の肩を抱き、
「いずれにせよ、事は進み始めた。
沈黙のための余分な対価を支払うはめにはなったが、あの男は本物の死神だ。
死神は余計なことをしゃべらない。
そして任務を必ず遂行してくれる。」
そう言って、幼子のように妻にしがみついて震えている。
「そうね。大丈夫。もうすぐ悪夢は終わるわ…。」
夫妻はベッドで安らかな寝息を立てて眠る息子の顔を見ながら、生暖かい安堵感が全身に広がっていくのを感じていた。
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数日の後、一家はノクスの町よりさらに北、森に囲まれたカリックスという街にいた。
ヴェントゥムの貴族や富豪の別荘が建ち並ぶ保養地であるが、シーズンオフの今の季節はシンと静まり返っている。
一家はメルカンの別荘ではなく、郊外の大きな2階建てのロッジを貸し切っていた。
その日の正午前、バルトロは数十キロ離れた隣町へ、この旅の”もう1つ”の目的である商用のため、護衛を1人つけて宿を出た。
これまで何度か取引した実績のある豪商と調印を交わすだけの、簡単な仕事である。
その道すがら、ハチドリの形をした通信用ゴーレムを空に放った。
それは暗殺者に、シロの居場所、護衛の配置、建物の間取り、そして遂行日時を知らせるためのモノである。
仕事を済ませて、日が落ちる前にロッジへ戻ったバルトロは、玄関前のデッキに置かれた4枚の黒い蝶の羽根を見つけ、ギョッとした。
あの夜の戦慄の会話が蘇る。
「場所と日時が決まったら、”ハチドリ”を飛ばせ。
内容の確認ができたら、そいつは破壊する。」
「なぜ?返信はどうするんだ?」
暗殺者の言葉にバルトロが問い返した。
「この仕事の痕跡を残さないためだ。
お前がそれを望んでいるのだろう?」
「確かにそうだが…
では私は、君が情報を受け取ったことを私はどうやって知る?」
「お前たちが滞在する場所に黒蝶の羽根を4枚置いて行く。
それは俺たち裏世界流の、”首を洗って待っていろ”の合図さ。」
恐ろしい画策が確実に進行していることをバルトロは改めて実感した。
花びらを手に取ると、それは雪のように消えた。
辺りを見回しても人影はない。
「我々以外、誰かここに来たか?」
バルトロはロッジを警護していた男に尋ねた。
「いえ、誰も。
ロッジ周辺に配備している4頭の犬も、静かなものです。」
それを聞いて、鳥肌が立つのを感じた。
人間はともかく、警備を目的として作られたゴーレム犬をも欺き、どうやって目立つ玄関先まで来ることができたのか。
―静寂の死…、忍び寄る死神―
その言葉がふと脳裏に去来した。
バルトロはしばらくの間、そこから動くことすらできなかった。
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夜半を過ぎたころから、急に風が強くなり始め、森の木々がざわめいている。
やがて大粒の雨が強風に煽られ、窓を激しく叩く。
バルトロとセリーナは1階のリビングにいた。
シロは2階の寝室に寝かせている。
夫妻は弱々しいランプの火が揺らめく中、まんじりともせず、その時を待っていた。
「ねえ…本当に大丈夫なのよね?」
不安げに爪を噛みながら、室内を歩きまわるセリーナの言葉を「しっ」と手で制し、バルトロは無言でソファに座り込んだ。
「もうすぐだ。もうすぐ終わる。」
そう言って祈るように眼を閉じ、頭を垂れた。
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シロは突然、激しく軋む頸部の痛みと息苦しさに襲われ、目を覚ました。
そして暗闇の中に光る2つの目を見た。
悲鳴を上げようとしたが、喉がつぶされ声が出ない。
「残念だったな、ガキ。
お前の人生はここで終わりだ。」
暗殺者は片膝でシロの両のすねを押さえつけ、左手で素早くバイザーを装着し、少年の全身をつぶさに観察する。
その右手に鈍く輝く緑の痕跡を発見し、その小さな手を覆っている包帯をむしり取った。
そこには、まごうことなき十三宮の刻印が黒い痣となって記されていた。
「ほう…。まさか本当に、こんなガキが守護者の印を持っているとはな…。」
喉の奥でクックと含み笑い、少年をじっと見下ろした。
シロはどうにかして体の自由を得ようともがいている。
声の出ない喉から、必死で叫び声を上げようとしている。
「抵抗すれば、その分お前の苦しみが増すだけだ。おとなしくしてろ。」
刺客はバイザーを外しながら、低く唸るような声を発し、シロの首に押し当てた手に力をこめた。
―殺される…!―
未だかつて感じたことのない恐怖と絶望が少年を支配した、その瞬間、右手の刻印が激しい閃光を放った。
次いで衝撃波が同心円を描いて瞬時に広がり、あたかも小さな超新星爆発を思わせた。
暗殺者がひるんだ一瞬の隙をシロは見逃さなかった。
それは生存本能のなせる業だったのかもしれない。
シロは男の手を逃れ、転がるように廊下に出た。
フローリアンの右手の皮手袋は、少年の放った衝撃波で引き裂かれ、まだ燻っている。
その裂け目から除く地肌は爛れ、流血していた。
「フン…なかなか面白いことをしてくれるな…。」
そう言って、風のように少年の後を追った。
シロは廊下の突き当りの階段を駆け下りた。
左奥の扉からは光が漏れている。
そこには自分を庇護してくれる両親がいる。
少年は全力でその方向へと走り、飛びつくようにドアノブに手をかけた。
扉が開き、両親の姿が見えた。
「パパ!ママぁ!」
かすれる声を振り絞る。
父と母が助けてくれる。
そう信じて、その胸にすがりつこうと足を一歩踏み出した瞬間、彼の体は宙に浮いた。
暗殺者の手がシロの服を掴み、小さな体を軽々と持ち上げている。
バルトロとセリーナは想定外の展開を目の前にして、ただ固まっていた。
泣き叫ぶ我が子よりも、その後ろに立つ悪鬼の姿に戦慄した。
「パパ!ママ…!
助けてっ!怖い…」
シロの大きな瞳が両親を見つめる。
しかし、その視線の先にいたのは、両の手を差し伸べ救ってくれる優しい両親の姿ではなかった。
現実から目をそらす父と、ただ無感情に自分を見つめ返す母の姿だった。
暗殺者の手刀が、シロのうなじに叩き込まれる。
真の絶望とともに、哀れな少年は昏倒した。
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ようやく意識を取り戻したシロが横たわっていたのは、雨降りしきる荒野の、泥に濁った水たまりの中だった。
上空で雷がゴロゴロと低く不穏な音を立てる。
闇夜の、岩や枯れ木が点在するだけの殺風景な景色を、ときおり雲間でスパークする雷光が照らした。
「パパ…、ママ…?」
少年はよろめきながら立ち上がり、不安そうに声を上げた。
「お前の愛する”パパ”と”ママ”は、お前を見捨てたんだよ。」
朦朧としているシロの背後に立った暗殺者は、薄気味の悪い笑みを浮かべた。
「ウソだ…!ウソだ、ウソだ、ウソだ‼」
未だ状況が理解できないシロは、だだっ子のようにわめく。
フンと鼻で一笑し、フローリアンは唐突に少年のみぞおちに拳を撃ち込んだ。
シロは泥水の上を転がり、息ができないほどの苦痛にあえぐ。
男はその傍まで歩み寄り、冷たく見下ろしながら、とどろく雷のような声で叫んだ。
「周りを見てみろ!」
そして両手を広げ周囲を指して、あざけるように続けた。
「お前を助ける者など、どこにもいない!
ここにあるのは木と岩と泥だけだ!
叫びたければ叫べ!泣きたければ、いくらでも泣くがいい!
それで状況が変わると思うのならばな!」
シロは混乱していた。
無理もない。
まだ年端もいかない少年、まして何不自由なく暮らしてきた貴公子が、一転、地獄のような状況に叩き落されたのである。
彼は声の限り叫んだ。
何を叫んでいるのか、自分自身にも分からない。
ただ、この声が、優しく、強い姉に届いてくれるよう、そして救いを差し伸べてくれるよう、わずかな希望が奇跡を起こしてくれるよう願った。
しかし、その願いは、頬にくらったフローリアンからの強烈な平手打ちで、はかなく潰えた。
「おいガキ、いいかげん理解しろ!」
打ち付ける冷たい雨に交じって、温かい涙がとめどなくシロの頬を伝う。
「お前を守れるのは、お前自身だ!
助かりたいなら戦え!
生きるために、俺を倒してみろ!」
獣の咆哮にも似た男の声は、シロの魂に”生きる”ための火を灯した。
心の中に住む姉の姿が、魂を輝かせろと言った気がした。
シロは、過ぎし日々に姉が見せてくれた戦法を脳裏に蘇らせた。
そして彼女がシロの体を借りて、共に戦ってくれると信じ、目の前の男に向かって飛び掛かった。
渾身のパンチは軽くかわされ、勢い余って男に背を向ける格好となったが、その場で体を反転させながら、後ろ回し蹴りを放つ。
だがフローリアンは、少年の動作を見切っていた。
その足を掴み上げると、地面に叩きつける。
そのとき上がった水しぶきに、シロはチャンスを見出した。
彼は地面の泥水を手で払い、暗殺者が注意をそらした一瞬に背後へと回り込む。
そして攻撃すると見せかけて、男の足の間をすり抜けると、全体重をかけて右拳を突き出した。
同時に手の甲の刻印に光がほとばしり、強烈なエネルギーが小さな拳を覆う。
これにはフローリアンも、自身のエネルギーを持って対応せざるを得なかった。
グリーンとスカイブルーの光波が拳の間で激しく衝突して消えた。
同時にフローリアンの凄まじい蹴りがシロの脇腹に入る。
少年は、その勢いで岩場に打ちつけられ、口から血を吐いた。
もはやシロに戦う気力はなかった。
刺客は戦意を喪失し、岩壁にもたれかかる少年の前に片膝をつくと、腰に挿した短刀を取り出し、大きく振りかぶった。
完全な死を覚悟したシロは、目をつぶった。
ガギンッという不快な金属音が耳のすぐ横で鳴り響く。
「思った以上にタフなガキだ。」
シロは薄目を開けて、声の主を見た。
「いいか。
お前はもう、ただのガキじゃない。
メルカン家の跡継ぎでもない。
忌まれし者、災禍の申し子。
お前は新たな守護者、十三宮のパラディンだ。」
短刀をベルトに挿した鞘に納める男のその目は、真っ直ぐシロを見据えていた。
そして真摯な表情で、こう宣言した。
「今日から俺はお前の師だ。
今後、お前に降りかかるあらゆる災いから身を守る方法、そして生きる術をお前に授ける。
お前が一人前のパラディンとなるためにな。」
その低く響く声は、地の底から湧く不吉な風の音にも似ていた。
嵐を運んできた黒雲は西の空へと流れて行く。
その中で雷鳴が低くとどろいていた。
雲を這うように幾筋もの雷光がヒュドラのように荒れ狂い、やがて1つの稲妻となって地上に落ちた。
死の恐怖から解き放たれたシロの意識は、やがて深い闇へと沈んで行った。
それは彼の人生を暗示しているかのようだった。
災厄という鎖に縛られ、惨禍という十字架を背負わされた少年は、期せずして、底の見えない奈落へと落とされていった。
運命の輪が、今、不気味な軋みを上げて回り始めた。
第5話 おわり
書きました。アブサロン
イラストはこちら ペイやん
おまけイラスト
この章では、主人公のビフォーアフターが描かれており、今後どうなっていくのかがわかります。