居場所
第18話
セリス歴2024年。
命芽吹く春。
淡いピンク色に染まった森を朝の柔らかな太陽が照らし、小鳥たちは静かに憩っている。
静寂の桜の海をそよ風が優しく揺らし、花びらが舞い上がる。
そこへ一陣の風が吹き抜け、地面に積もった花びらを長く引きずり、小さな渦を描いた。
風は重力から解放されたかのようにジャンプを繰り返しながら、木々の間を駆け抜けていく。
青い上着の裾を翻し、少年は低い姿勢で駆けながら足にバネを溜め、一気に長距離を飛ぶ。
才気も鋭く、以前よりずいぶん顔つきも頼もしいエイシオである。
3年という歳月が、彼をたくましく成長させていた。
「ちょっと待って!…待ってよ、エイシオ!」
その後を追うのはナルミ。
俊足の少女ですら、今ではエイシオに追いつけない。
彼が地に足を着くたび、その足の下に現れる水面の波紋にも似た風の渦が少年の体を押し上げ、軽々と大ジャンプを可能にする。
この村に来て学習しはじめた風のエネルギー操術も、今ではずいぶん様になってきた。
「エネルギーのコントロール法は教えてやっただろう?」
まだまだ未熟者のくせに、もうすっかりナルミの師匠きどりだ。
ナルミはといえば、エイシオに師事し、見様見真似でようやくエネルギーを体の外へ放つ段階まできている。
ただし、彼女のエレメントは水蒸気。
風のような瞬発性には欠けるようだ。
「そんなこと言ったって、あなたと私のエレメントは違うのよ!
あなたのようにはいかないわ…!」
ナルミは必死でエイシオを追いながら、泣き言を言い出した。
「フローリアンは、属性が違っても、エネルギーを放出する根本的な原理は同じって言ってたよ!
それにオレみたいな腕のいい先生が教えてあげてるんだ!
ほら、もっと頑張れよ!」
「そんなこと言ったって…」
そんな戯言をかわしながら、さらに森の奥深くへと向かって行く。
途中、休憩を兼ね、小高い丘の地面から大きく突きでた岩の上に座り、ピンクに染まる風景を楽しんだ。
「で、目的地はどっち?」
エイシオが尋ねると
「あの崖の先。
崖は深いから、あっちをグルっと回らなくちゃ。」
ナルミが大きな身振りで行き先を示す。
「う~ん、結構遠いな。
むこうから回ってたら、とんでもなく時間がかかっちゃうよ。」
「うん…、日暮れまでに帰らなきゃ、またママに叱られちゃう。」
ナルミが困ったように眉根を上げてエイシオの顔を見た。
「アイコさん、怒ると怖いもんね。」
エイシオがニカっと白い歯を見せて笑う。
「エイシオはいいな。
フローリアンさんは優しくって。」
「優しい!?」
ナルミの何気ない言葉に、素っ頓狂な声をあげる。
「とんでもない!
この前だって、帰りが遅くなったとき、どうなったと思う?
こうだぜ?
“帰ってくるのが嫌なら、ずっと外にいればいい。”」
全く似ていないフローリアンの真似をしてナルミを笑わせる。
「それから一晩中、磯で食料を採らされたんだから。
地獄だよ、全く。」
苦虫をかみつぶした顔をそむけて、ぼやいた。
「とにかく、早く行って早く帰らなきゃだね。」
そう言うとナルミは立ち上がり、崖の周りにめぐらされた小路までエイシオを先導する。
「ここを道なりに、ぐるっとあっちまで…」
そう言って歩き始めようとした少女の腕をエイシオが掴んだ。
「待って。やっぱり時間がかかりすぎる。」
珍しく真剣な表情の少年を不安そうに見つめるナルミ。
「そんなこと言ったって…。じゃあどうするの?」
「ここから飛び降りる。」
ナルミは悪い冗談、と言うように、大きな目をしばたかせた。
「やだ。こんなところから落ちたら死んじゃうわよ。」
と笑うナルミの腰に手を巡らせ、
「掴まってて。」
と崖に一歩近づく。
「無理よ!無理だって!ぜったい無理―!」
ナルミは少年を説得しようともがいている。
「フローリアンが前に見せてくれたんだ。
高いところから飛び降りて、空気の力で着地の衝撃を和らげる風の力。」
「そんなの、フローリアンさんだからできたんでしょう!?
あなたは彼ほど強くないじゃない!」
エイシオは一瞬崖の淵に立たされたナルミは、反射的にエイシオの首に腕を回し、しがみつく。
エイシオは深呼吸を1つして、おもむろに前方に重心をかけた。
2人の体がゆっくりと崖に向かって倒れ込んでいく。
「うそ!!?うそうそ!待って…!」
ナルミの頭は真っ白になった。
目に映る全てがスローモーションに見えた。
風の音も鳥の声も、もう彼女には聞こえない。
エイシオの落ち着き払った声だけが少女の耳に届いた。
「いいかい?
オレを信じて、何があっても手を離しちゃダメだからね。」
「…!!」
とたん、猛烈な勢いで自由落下を始める2つの体。
ナルミはただ固く目を閉じてエイシオにしがみついているしかない。
そんな彼女の耳に入った信じられない言葉。
「あ…マズイ!
…ナルミ、お前、ちょっと太った?
ちょ…ヤバっ…重すぎて…もう…ダメかも…」
ただ事ではない事態にハッと我に返り、目を開いたナルミが見たのは、ものすごい勢いで近づいてくる地面だった。
「いやぁああああ!!」
ナルミの悲鳴が崖に反響する。
その反応を見て、エイシオはニヤリと笑い、腕と腿にエネルギーを充填させ、軽く宙を蹴る。
すると空気が渦を巻き、落下速度が弱まった。
それを冷静に確認し、手のひらから風のエネルギー派を放って、落下方向と逆の力を発生させる。
スピードは制御され、2人の体は、やや安定は欠いたものの、無事地面に着地した。
ナルミは顔面蒼白のまま
「生…きてる…。」
と、魂が抜けたような細い声を震わせている。
「あれ?ひょっとして死ぬと思った?」
人を食ったようなエイシオの軽い口調に我に返ると、ナルミはキッと睨みつける。
その少女の大きな目からは、涙がとめどなく溢れ始めた。
「バカ!」
「え?」
「あなたって、ほんと馬鹿!!」
そう言って駆けだすナルミの後ろ姿を見て、
「“馬鹿”はないだろう?
なんだよ、マジで死ぬと思ったわけ?」
そう言って、愉快そうにケラケラ笑い始めた。
が、ナルミの姿が見えなくなったことに不安を覚えたエイシオは、消えた少女を追って、背の高い草むらへと分け入った。
ナルミは桜の木の下で膝を抱えて泣いていた。
「お前が“フローリアンほど強くない”っていうから…。」
エイシオは少女の隣に腰を下ろし、そっぽを向いてバツが悪そうに吐き捨てる。
ナルミは一向に泣き止む気配はない。
不器用な少年は、ただ無言のまま足元の小石を蹴ったり草をむしったりしていたが、耳まで真っ赤にして、恐怖と憤りに震えながら泣くナルミを見ているうちに、だんだん冗談が過ぎたことに気づき始めた。
「悪かったよ。ごめんな、ナルミ。
もう泣かないでよ。」
「バカ…」
嗚咽混じりの少女の声に、ただただ困惑していた。
エイシオはこういう場合、どうすることが正解なのかを知らなかったのだ。
「そうだよな。
フローリアンにもよく言われる。
オレは調子に乗りすぎるって。
でもね、あの技、もう何度も実践してるけど、これまで、失敗したことはないんだよ。
もっと高いところから飛び降りたことだってある。
もっと重いものを抱えて飛んだこともある。
でも、オレはこのとおり無事。
そもそも100%の自信がなきゃ、お前を巻き込もうなんて考えないよ。」
それを聞いて、ナルミが涙と鼻水でグチャグチャになった顔を上げる。
「それ、ほんとう?」
「うん。」
エイシオはそう答えて立ち上がると、
「お前やフローリアンから見れば、オレはまだまだ頼りないかもしれないけどさ、でも、オレはお前が思う以上に力をつけたと思ってる。
いつかオレはフローリアンより、いや、世界中の誰よりも強くなって、村を守りたい。
お前も守る。オレが、絶対に。」
優しく微笑みナルミに手を差し出した。
黙って彼を見つめていたナルミは、弾かれたように立ち上がり、エイシオに抱きついた。
「私も、いつか必ず強くなって、あなたを手伝う。」
小さく呟いた声を、春の柔らかな風がさらっていった。
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暗い森の先に、それはあった。
そこだけポッカリと空が開け、幾重もの光のカーテンが揺れている。
雑草はきれいに刈られ、緑のじゅうたんが広がり、数十本の桜の古木が静かに来訪者を待つ美しい光景。
他の桜とは違い、ここのは花の色がより純白に近い。
それが太陽の光を浴びて、キラキラと輝いている。
木の幹には、それぞれリボンが結び付けられており、風が抜けるたび、いっせいにヒラヒラとなびく様は、少年の目にとても神秘的に映った。
「これがオレに見せたかったものなんだね…。
すごいよ。信じられないな…。」
穏やかな光に満ちた風景に魅せられ、エイシオが感嘆をもらした。
「静かできれいなところでしょう?
ここは村の人たちにとって、一番神聖な場所なの。」
「神聖?」
ナルミは何も言わず、桜の木々の間を通り抜け、とある1本の木の元へエイシオを導く。
その木に結ばれたリボンは、ところどころ茶色く変色し、古いものだと推測できる。
「このリボンはね、木の下に眠る人の名前が書かれているの。」
木の根元に座ったナルミは、愛おしそうに幹に頬を寄せた。
墓といえば、冷たい石でできたものしか知らないエイシオにとって、この異文化のしきたりはとても美しく、そして優しいものに思えた。
亡くなった人にも、そして残された人にとっても安らぎを与える、やさしい風習。
「この木には、誰が眠ってるの?」
エイシオが静かに問うと、ナルミは温かくも悲しい眼差しを向け、
「パパよ。
私はパパの顔を知らない。
私が生まれる前に死んだの。
ママや、私を守るために悪いヤツと戦って死んだんだって、おばあちゃんが言ってた。」
それから青空に揺れる白い花を見上げ、
「夏の終わりになると、ママはパパの話を聞かせてくれるの。
ママはね、パパのことを忘れない限り、パパは私たちの心の中で生き続けているって。」
そう話終えると、少し恥ずかしそうに、はにかんで立ち上がり、
「変よね。こんなところにあなたを連れてくるなんて。」
小さく首をかしげた。
「うん。ちょっとだけね。」
エイシオも同じように首をかしげ、微笑んだ。
そうはいったが、決しておかしなことだとは思わなかった。
むしろ、未だどことなく“部外者”であることを感じていた彼にとって、“村の一員”として聖域に立ち入るのを許されたことが嬉しかった。
「ナルミ、ありがとな。」
ナルミを抱きよせ、柔らかな髪がかかる彼女の額にそっと頬を寄せた。
突然の行動にナルミは顔を赤らめたが、抗いはしなかった。
ドッと吹いた風が花びらを舞い上がらせ、あどけない2人を優しく包み込んだ。
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「ねえ、いつかフローリアンも連れて行ってもいいかな?」
「もちろんよ。」
そんな会話をしながら村へ戻ってきたのは、日暮れの少し前。
そこへ何人かの少年が転がるように駆けてきた。
「ナルミ!マズイぞ!
お前のママにバレた!」
「え?」
「コイツがチクったんだ。
ナルミは朝早くから、桜の森へ出かけたって。」
「だって、ナルミのママ、めちゃくちゃ怖いんだもん!」
少年たちは皆、バツが悪そうにヒソヒソと言い合っている。
「ウソ!なんてことしてくれたの!?
どうしよう、ママ、きっと怒ってる…。」
顔を真っ青にしてナルミが狼狽しはじめた。
「アイコさんに言わずに出てきちゃったの?」
エイシオもその場の空気に飲まれて焦り始めたが、とにかく家に帰った方がいいと提案した。
肩を落として、1人トボトボ歩いて行く少女の背中を見送っていたが、放ってはおけないと思ったのか、
「オレも一緒に行こう。
とにかくアイコさんに謝ろうよ…。」
正直、怒れるアイコは怖かったが、子供心ながら、“憐れな少女を助けたい”という自己犠牲的な精神に突き動かされたようだ。
予想どおり、家では鬼の形相のアイコが待ちかまえていた。
「だいたいのことは他の子供たちから聞いたわ。
でもね、ママに内緒で出かけるって、どういうこと!?
答えなさい!」
こうなったアイコは手に負えない。
フローリアンやヴォルコでさえ、きっと真っ青になるだろう。
エイシオはナルミの後ろで、しばらく母娘のやりとりを伺っていたが、放っておけば彼女の説教は明日の朝まで続きそうな勢いだ。
エイシオは恐る恐る口を挟む。
「ごめんなさい。
ナルミはオレに桜のお墓を見せたかっただけなんです…。
あの…、全部オレが悪いんです…。」
「エイシオは黙ってなさい!
と、いうか、あなたが一緒にいて、どうしてナルミに言ってくれなかったの?
ただ一言、“朝から出かけます。”その一言で済んだことでしょう!」
案の定、怒りが飛び火してきた。
「いや…その…、今度からは気を付けます!
ごめんなさい!」
2人は大げさなほど深々と頭を下げた。
「…全く…」
予想に反して、アイコはすんなりと怒りの矛を収めた。
「とっても心配したのよ。
それに…」
そう言って首にかけていたタオルでナルミとエイシオの顔を拭い始めた。
「こんなに泥だらけになって…。
美人もハンサムも台無しね。
…はい、これで良し、と。」
満足したように見下ろしていたが、エイシオの右手の酷く汚れた包帯を見つけ、
「それも新しいのに換えたほうがいいわね。」
そう言って、少年の手に巻かれた黒い布に手をかけようとした瞬間、
「ダメ!これはダメだ!
触らないで!」
手を引っ込めた少年は、まるで別人のように深刻な顔をして後ずさる。
そして、オドオドと、どこか挙動不審なそぶりを見せ、
「フローリアンが待ってるから、帰る…。」
呟くように告げて家を飛び出していった。
始めてみる少年の妙な態度に、親子は唖然としていた。
ナルミはついて行こうとしたが、アイコに引き止められた。
「あなたはお風呂に入ってきなさい。
お風呂がすんだら、いろいろやらなくちゃいけないことがあるんだから。」
ナルミは渋々、母の指示にしたがった。
居間に残されたアイコは、エイシオの急変した様子が気になってしかたなかった。
一方、エイシオは村の広場を抜け、集会場の前を駆け抜け、ようやく落ち着いたのか、トボトボと我が家へと向かっていた。
途中、村人から手渡された新鮮な野菜を携えている。
日頃の礼だという。
以前からは考えられないほど、皆、打ち解けて優しい。
それでもエイシオの心には、重い何かがひっかかっていた。
家にたどり着くと、庭の片隅の檻の中で、ヴォルコが嬉しそうに尻尾を振って彼を出迎える。
「…サミー、お前はいいな。
何の悩みも、隠し事もなくって。」
サミーと名付けられた小さなヴォルコの頭をなでると、クリクリとした屈託のない瞳でエイシオを見つめ返す。
この生物は、ずいぶん少年に懐いていた。
普段は木製の檻に入れているが、1日1回は必ず外に出して遊んでやるのが少年のルールになっていたが、今日はそんな気分になれなかった。
柵ごしにサミーの湿った鼻に触れ、
「ごめんな、サミー。
明日はちゃんと遊んでやるから。」
エイシオの言葉が分からない小さなヴォルコは、遊んでもらえると思ったか必死に尻尾を振ったが、少年は「またな」と、つれない言葉を残して家の正面へ駆けていった。
戸口に灯りはついていない。
「ただいまー。」
と言って戸を開いたが、案の定、返事はない。
「いない…か。だとしたら、浜辺だな…。」
長い月日を共にしただけあって、このごろはフローリアンの行動も手に取るように読めるようになってきた。
少年は丘を駆け下り、浜を目指した。
予想通り、彼は砂浜にいた。
日没直後の空は、幻想的なピンク色と濃紺のグラデーションが美しい。
ワイン色に染まった海は凪ぎ、鏡のように雲を映している。
その海に向かい、師は瞑想をしていた。
「ねえ、村の人が、野菜をくれたよ。」
「…。」
目を開けたフローリアンは、しばらく暗くなっていく海を見つめていたが、
「旅はどうだった?」
と、静かに尋ねた。
「うん。良かった。
ナルミが桜の森に連れて行ってくれたんだ。
村の神聖な場所…、お墓なんだけどね。」
「ほう。」
「とてもきれいな所だったよ。
ナルミがね、そこは村の人しか入っちゃいけない場所だって。
だから、オレも村の一員なんだって。」
「そうか。」
「フローリアンにも見せてあげていいよって。
だから明日、行ってみようよ。」
「その必要はない。」
彼の応えにエイシオは幻滅した。
せっかく村人たちから暖かく迎え入れられたというのに、また自ら拒絶するのかと思った。
しかし、そうではなかった。
「2週間前、アイコが連れて行ってくれた。」
「え?なんで?
オレには何も言わなかったじゃん。」
「アイコに口留めされていた。
ナルミがお前に見せたいと言ったそうだ。
先に知ってしまったら、感動も半分になるだろう?」
「なるほどね。」
エイシオは生意気な口をきき、フローリアンの隣に座った。
その姿をチラと見た師は、
「お前のその髪、どうにかならんのか?
ヘアピンなんぞ、女の子みたいだぞ?」
と、小言を漏らす。
「文句ならナルミに言ってよ。
アイツがこれがいいって、こんなふうにしたんだから。」
「なるほどな。」
フローリアンは鼻で笑った。
にわかに少年は澄んだ風のような笑顔を浮かべ、
「ねえ…すごいと思わない?」
と言う。
「あの森が、か?」
「ん-ん、違う。
今、オレたちがここにいて、村の一部になってるってことだよ。
なんていうか、幸せだよね。こういうのって。」
フローリアンと同じ海の彼方を見つめる少年の、まだあどけない横顔には、ヴェントゥム・テラを出て以来、見せたことのなかった安らぎが満ちている。
「たしかにな。
だが、長くは続かんと覚悟しておくべきだ。」
その言葉に、エイシオの眉がピクリと動く。
暮れなずむ空の下で仰ぎ見た師の横顔は、どことなく哀愁を帯びているように見えた。
「お前は、旅の目的を覚えているか?」
「人を守るために強くなること。」
「お前が風の力を自在に操り、ダリアが遺したコーデックスに書かれた全てを理解した時が、アエヴィテルヌスを探す旅に出る時だ。」
エイシオはうつむき、波に遊ばれる白い砂をぼんやりと見つめた。
「我々はいずれ旅立つ。
だが、ここの人々との永遠の別れではない。
お前がここを故郷と思うのなら、必ず戻ってこられる。
守護者とて、憩う場所は必要だ。
癒しをこの村や人に求めるのなら、目的を達して戻ってくればいい。」
エイシオの瞳に輝きが戻る。
「うん!」
と、素直に返事をした少年は、水平線の彼方を見つめ、ニコリと微笑んだ。
「そうだよね!
オレらの家だもの。きっと戻って来る!」
思わずしてエイシオが“オレらの”家と言ったことに、フローリアンは自分でも気づかないうちに微笑んでいた。
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良い匂いが家じゅうに漂っている。
フローリアンの作る食事は、見た目さえ我慢すれば味は良い。
旅の暮らしが長いと、ある程度の料理もできるようになるのだろうか。
今夜は村人が分けてくれた野菜を使った煮込みスープらしい。
根菜に火がとおるまで、あとはじっくり煮込んで待つだけ。
その待ち時間を、2人は庭に出て星を眺めることに充てた。
エイシオは手にした天球図をクルクル回したり頭をひねったり。
いまだ星について理解はできていないようだ。
星を読むことは、旅をするために必須。
以前、フローリアンが語った言葉だった。
しばらく星図と格闘していたが、やがて飽きたのか諦めたのか、それを地面に置いて膝を抱え、瞬く星を見つめてつぶやいた。
「ねえ、オレたちがこの村に住んでいることを、ダリアは喜んでるかな?
それとも怒ってる?」
「どちらでもない。」
「なぜ?」
「死者は、もうこの世界とは繋がっていないからだ。」
「そうかな?
オレは、死んだ人はいつもオレたちのそばにいて、オレたちがしてることを見守ってくれてると思ってた。」
少年は無邪気に言った。
「そう思うのは自由だ。
だが、死んだ人間には、もはや何も聞こえないし、何も見ることはできない。
その代わり、痛みや悲しみに苦しむこともない。
休んでいるんだよ。彼らは、土の下で安らかに。」
「そうなのかなぁ…」
10歳のエイシオに、死生観の理解は、まだ難しい。
すでにここにはシサの魂は居らず、自分たちの世界と完全に分離した場所にいると思うと、単純に寂しいと感じた。
少年の思惑をよそに、フローリアンがポツリと独り言のように、こうつぶやいた。
「俺が死んだとき、…もし神が一瞬でも彼女に会うことを許してくれたなら、
…もし死者の国で彼女を見つけることができたなら、
俺は彼女に願いが叶ったことを伝えたい。」
フローリアンの言う“彼女”とは、およそダリアのことだろう。
だが、“死者は死者の国で再会できるとは限らない”というニュアンスの言葉が、少年の心に引っかかった。
そして、“願いが叶った”とは、どういう意味なのか。
「…うん…。」
エイシオは分かったような、分からないような、なんともモヤっとした思いで、あいづちをうった。
やがて、火にかけた鍋のフタが、カタカタと賑やかに音を立て始めたのを合図に、2人は家の中に戻って行った。
食卓には質素な野菜スープと大麦のパンが並べられている。
スープを口に運ぶエイシオは、もう先ほどの難題など頭にない様子で、育ち盛りの子供らしく大きなパンを頬張りながら、ふいにこう尋ねた。
「初めての時はどうだった?」
唐突に意味深な問いを投げかけられ、フローリアンはスープを噴き出す。
「な…なんだ急に!?」
慌てる彼をよそに、エイシオは淡々と問う。
「初めて人を殺しちゃったときって、どうだったの?」
テーブルの上を拭いていたフローリアンは、この問いに表情を曇らせた。
過去を思い浮かべ、苦悶に満ちた表情でしばらくの間考えこんでいるようだった。
そして重い口が開かれる。
「ずいぶん昔の話だ。
俺はヴェントゥムの王立騎士団に所属していた。」
“ヴェントゥム王立騎士団”というワードに反応したエイシオの体が、自然と前のめる。
「騎士の信条は、国に忠誠を誓い、上官の命令に忠実であり、王国民を守ること。
だが、ダリアを失った瞬間、俺の中の理性が消えた。
王国もトレディシムも、全てが俺の敵になった。
気付かぬうちに、この手は血によって穢れきっていた。
何人殺したかなんて覚えてもいない。
だんだん人の命を奪うことへの罪悪感は消えていくんだ。
恐れなどない。
やがて“殺人”という行為自体に何の抵抗もなくなった…。」
そう言って、テーブルの上の拳を握りしめた。
エイシオは、それ以上もう何も聞けなかった。
長い間、生活を共にはしているが、まだまだこの男について知らないことが多い。
“壮絶な人生を歩んできた年数”という障壁がある以上、彼を完全に理解できるとは思わなかった。
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夕食の片付けが終わるころ、尋ねてきたのはアイコとナルミだった。
2人とも、見たことのない奇妙な衣装を身に着けている。
カイヘイワで見た民族衣装に少し似ているその服を、「浴衣っていうのよ。」と、アイコが教えてくれた。
唇にうっすらと紅を引き、いつもの彼女たちとは別人のように華やいで見える。
「こんな時間にごめんなさい。
収穫祭にお招きしようと思って。」
「収穫祭?お祭り?」
エイシオが目を輝かせる。
「そうよ。村のみんなが作った野菜や果物で、お料理を作って、それをみんなに振舞うの!」
ナルミがはしゃいでいる。
「ねえ!行きたい!行こうよ!」
エイシオは、フローリアンの腕を引いた。
「気持ちは嬉しいが…」
「あなた方への日頃の感謝を込めてのお祭りよ。
主賓が来ないなんて、ありえないわ。」
アイコのにこやかな表情には勝てない。
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その夜の村は、賑やかだった。
小さな屋台が軒を連ね、活気に満ちた声が響く。
家々はランプでライトアップされ、ここ最近、広場に設置された警鐘を吊るした櫓にも、イルミネーションが飾られている。
村の子供たちは、好きな食べ物を手に、楽しそうに駆けまわっている。
エイシオとナルミもまた、店を転々としては、はしゃいでいるようだ。
「さっき晩メシをすませたばかりなのに。
アイツの胃袋は底なしだな。」
フローリアンとアイコは、元気な子供たちの様子を少し離れた場所から見守っていた。
「朝から桜の森まで往復したというのに、あの元気はどこからくるのかしら?」
優しいまなざしで子供たちを追いながら、アイコは言う。
「子供ってのは、たいがいあんなもんだろうな。」
あきれた様子のフローリアンを見上げ、アイコは眉根を上げる。
「でも今朝、あの子がいないことに気づいたときは心臓が止まるかとおもったわ。
本当はもっと叱ってもよかったんだけど、今日はお祭りですもの…。
それにしても、エイシオの成長には感心したわ。
精神的にもね。」
「たしかに。
あいつの手綱を取るのは至難の業だが、それでも一歩ずつ成長している。」
師は弟子の成長を誇らしそうに語った。
「ねえ、私たちも見てまわりませんか?」
アイコに誘われるまま、2人は美しくライトアップされた小路を歩いた。
やがて前方から酔っぱらった陽気な爺さんがフラフラと近寄ってきて、2人の前で立ち止まり、
「フローリアンさん、ようこそ!
来てくれて嬉しいよ。
アイコさんもありがとうな。
いやぁ、それにしても、隣の婆さんが言ってたのは本当だったんだねぇ。
お似合いの、いいご夫婦だ。」
「え?」
アイコは顔を赤くして慌てている。
すると若い女性が駆け寄って来て、「おじいちゃんが失礼なことを。」と、非礼を詫びて爺さんをひっぱって人込みの中に消えて行った。
「あ…あの、酔って変なことを言う方もいるんですね…はは…あはは。」
アイコは照れ隠し必死になっているようだ。
「気にすることか?
まあ、実際、君と一緒にいる時間は長い。
エネルギーコントロールや剣術のトレーニングの間は、すっと一緒にいるわけだし。
近頃は馬術のレッスンも始めたしな。
妙な誤解が生まれるのも仕方がない。」
思わずアイコは赤く火照った顔をそむけた。
彼女はフローリアンと2人で桜の森へ行った時のことを思い出していた。
ある程度馬は乗りこなせるようになっていたにもかかわらず、彼は「後ろに乗れ。」と言って、彼女に手を差し出した。
照れる彼女に、「どうした?歩いて行くつもりか?」と言って彼は笑った。
「森で馬を操るのは難しい。起伏の多い土地ならなおさらだ。」
そう言って彼女の手を引き後ろに乗せ、「落ちないように掴まれよ。」と言った。
モジモジして、手を宙に浮かせたままのアイコの両手首を取って、自分の腰に巡らせると、馬を走らせた。
心臓が早鐘を打っていたのは、馬の速さのせいではないことを彼女は自覚していた。
広くてたくましい背中に身を寄せると、その筋肉の動きが伝わってくる。
「怖いか?」と言って振り返った彼の優しい眼差しは…
「どうした?大丈夫か?」
ふいにかけられた声に、アイコは現実世界に引き戻された。
「小さいコミュニティで、あんな噂が流れるのは別段不自然ではない。
俺個人的には、全く気にならないがね。」
それを聞いたアイコは、フローリアンの顔を一瞬直視して、また少しうつむいた。
——彼の心の中には、まだ亡くなった奥様がいらっしゃる…——
変に勘ぐってしまう。
彼女は小さな声で
「ええ、私も同じ気持ちです。」
そう言って少し寂しそうに微笑んだ。
「デートの最中、悪いんだけどさ。」
無粋な声の主はエイシオである。
どこで覚えてきたのか、最近はこのような生意気なことを言うようになった。
「これ、ほら、見て。」
エイシオとナルミの手には桜色の紙製のランタンが4つ。
「浜辺でお願いごとをしながら空に飛ばすと、願いが叶うんですって!」
ナルミはワクワクが止まらないといった様子。
「ね、エイシオ!早く火をつけてよ!」
ナルミにせっつかれ、慣れない手つきでマッチを擦ろうとしている。
「おい、バカ。ここで点けるな。
ほら、浜へ行こう。火はそれからだ。」
フローリアンが子供たちを追い立てる。
アイコは目を細めてうなずき、その後に続いた。
浜に到着したころには、たくさんのランタンが空に浮かび、その下には熱心に祈りを捧げる人々の影。
ランタンに火を灯すアイコの笑顔。
子供らしくはしゃぐエイシオとナルミ。
その姿を見ていると、フローリアンの心に微かな、どこか懐かしいうずきが走った。
この村は以前の面影さえ忘れるほど活気に満ち溢れている。
剣術、護身術を学んだ人々は、もはやダイチ兄弟の影に怯えることはなくなった。
街道も安全に行き来できるようになり、村の主要産業である農作物の交易で、生活もずいぶん豊かになってきた。
もはや貧困にあえぐ者はいない。
子供たちは村で成長し、やがて次世代を担う柱として村を支えていくだろう。
血と涙にぬれた過去は、笑顔と活力にみなぎる今へと確実に変化した。
「俺は多くの失敗、後悔、痛みを味わった。
それは俺の過去の一部であり、これからもずっと付きまとうだろう。
だが、いつまでも過去に捕らわれたままでいいのか?
重荷を下ろし、痛みを捨て、絡みつく闇を振り払うことは悪いことか?
俺は、その陰に隠れた光を見たい。
新たなステージへのゲートを開くことに躊躇はある。
不安が無いといえばウソだ。
だが、共に歩んでいける人々に出会えた。
きっと大丈夫だ…。きっと。」
独り言は人々のざわめきと波の音にかき消された。
「はい、これ。」
エイシオがランタンを差し出す。
柔らかな灯りをしばし感慨深そうに見つめた後、彼はそれを空へと放った。
桜色の光が彼の手を離れ、いくつものランタンが浮かぶ夜空へゆっくりと昇っていく。
彼が一生共にすると決めていた柵が、ランタンとともに空の彼方へと消えて行くのを感じた。
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祭りが終わったのは、深夜を回ったころだった。
普段なら、もうとうに眠っている時間にもかかわらず、子供たちは「あの木まで競争だ!」と、元気に駆けて行く。
「あ、コラ!走らないで!危ないわよ!」
アイコの声も、はしゃぐ子供たちの耳には届いていない。
「全く、もう…。」
溜息をつきながらも、優しく微笑んでいる。
そんな彼女を見つめたフローリアンが、静かにこう言った。
「皆が笑い、子供たちが怯えることなく遊ぶ。
そんな風景を見るだけで、穏やかな気持ちになれる。
美しい祭り、いい夜だった。そして心を許せる君がいる幸せ。
こんな気持ちになったのは何年ぶりだろうか…。
君には、本当に感謝している。」
彼の口からサラっと発せられた、“心を許せる君”という言葉に、アイコの足が止まる。
アイコは少し照れながら、「ありがとう。」と小さく返した。
「来年も来ようね!」
無邪気に手を振るナルミ親子と別れ、エイシオたちは真っ暗な坂道を登り、丘の家へと帰る。
「サミー、ただいま!」
軽く檻を叩いて庭を抜け、少年は未だ浮かれた様子で戸口を開けた。
明かりの灯っていない家の中は暗く、ひんやりとしている。
ふいにフローリアンがコーデックスを差し出し、
「明日からは時空エネルギーを学べ。」
それだけ告げて、自室へ引き上げる。
扉の閉まる音。
暗い居間に1人残されたエイシオは腕の中の本を見つめ、顔を曇らせた。
——全てをマスターしたら、この村を離れなければならない。——
つい今しがたまでの喜びが一瞬にして、美しい過去の思い出に変わる。
——目的を達成したら、いつでも戻って来られる。
でも…——
「今のままでいい…」
エイシオは戸口の脇に立ったまま、黒い表紙の本を抱きしめ、声を押し殺して泣いた。
夜空に一筋の星が流れ、満天の星空にサミーの悲しげな遠吠えが響いた。
第18話 おわり
書きました。アブサロン
イラストはこちら ペイやん
おまけイラスト
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