イッキ
第14話
エーヘイデンで、カノウはヒロからの連絡を待っていた。
だが、カイヘイワの酒場で会ってから1か月が経とうというのに、彼からの音信が途絶えている。
―まさか、失敗したのか…。―
不安がよぎる。
計画通りなら、もうずいぶん前にヒロはここに到着しているはず。
―ヒロの行方が分からないことが大教区のイッキ卿の耳に入ると厄介だ。―
そこから、イッキを追い落とし、“先触”の位を簒奪するという、大それた計画が露見してしまうのでは…。
カノウは、それを案じていた。
―ならば、こちらからヤマガに出向いて、ヒロが行き先も告げず消えた。と報告する方が、怪しまれずに済むかもしれない。―
カノウは、もはや戻って来る望みのないヒロに、全ての責任を負わせようと考えた。
エーヘイデンからヤマガまでは馬を飛ばして約半日。
到着したころは、空が赤く焼けていた。
市の外れに建つ年季の入ったレンガ造りの建物には聖堂が併設されており、表向きは慈善団体の運営する更生保護施設として登録されているが、実状は火王朝帝国内におけるトレディシムの最も重要な拠点である。
この施設を預かるイッキは、トレディシム修道会の“先触”たる人物。
先触とは、トレディシムが崇拝する十三宮との直接対話が許される側近であり、忠実な僕。
修道会においては、神たる十三宮に次ぐ地位を与えられる者たちである。
それゆえ教団の一員といえど、簡単にお目にかかることはできない。
カノウは1階のフロントで待たされていた。
間もなくして、イッキの側近が現れ、謁見の理由を細かく尋問された。
カノウは適当なウソを並べ立てた。
裏切りがバレないように。
ただ、「無断でヒロが消えた。」という趣旨の内容を伝えた。
カノウの証言は即座に先触に伝えられ、やがて側近は「イッキとの面会が許された」という返事を持ってきた。
カノウは施設最奥手前、聖堂の控えの間に通された。
古い石組の壁にはところどころ苔が生え、陰鬱な湿気のために青臭い匂いが充満している。
ハナミ大教区を治めるイッキという男は、癇壁の強いことで知られており、苛烈なまでの暴圧で教団員を支配している。
その一方で、非常に信仰に篤く、潔癖なほど教義に忠実であった。
二十数年前、彼がこの大教区を預かって以降、反逆者は容赦なく処刑され、疑わしき者は申し開きの場を与えられることなく断罪されてきた。
いわば恐怖で支配する独裁的な指導者であり、それはトレディシムの崇拝する十三宮のあるべき姿である。
修道会にとって理想的な導師ではあるものの、その圧制に反感を抱く教団員も少なからず存在しているのが事実だ。
聖堂の扉がわずかに開き、イッキの補佐役が姿を現した。
「これから聖堂で教戒が執り行われます。どうぞ中へお入りください。」
カノウを中へ通す。
扉が閉ざされ、外からかんぬきをかける音が聞こえた。
がらんとした広い聖堂には灯りもなく、ただうっすらと壇上に立つ人影が見えるのみ。
「カノウ。
君からの報告は聞かせてもらった。
だが、私には腑に落ちない点が多すぎるのだよ。」
重く威厳ある声が堂内に反響する。
壇上の男の腕に赤いサーキットが輝くのが遠目にも見えた。
その瞬間、男の足元からサーキットが放射状に伝導し、無機質な床を回路が赤く染めていく。
それを追うように炎が走り、床や柱に据えられたロウソクに触れるたびに、つつましやかな灯りをともしていく。
内から外へと広がる灯りの波は、やがて荘厳な聖堂内を明るく照らし出した。
「だから君から直接話を聞かせてもらおうと思ってね。」
壇上の男が振り向く。
遠目から兜の下の表情をうかがい知ることはできない。
しかし、その下で鈍く光る冷たい眼光は、カノウを怯えさせるのにじゅうぶんだった。
赤で統一された甲冑の下の、たくましい筋肉の隆起が、ロウソクの炎に照らされている。
トップの長いフェードカットの髪は後ろで結い上げられ、角の生えた兜を装着した姿は悪魔を連想させた。
「エーヘイデン教区から、教徒が1人消えたそうだな。」
「は…はい。私は直接の知り合いではありませんので、なぜ姿を消したのか、理由は存じませんが。」
「ほう。
だが、我が伝令からの報告では、ひと月前、君はカイヘイワの村で、その教徒と会っていたそうではないか。」
イッキは手を後ろで組んだ姿勢で、壇上から静かに見下ろしている。
カノウは膝まづいて畏まった。
「イッキ卿。
そのような事実はありません。
誰かと見間違えたのでしょう。
さもなければ、あなたの伝令は虚偽を申し上げている。
私は決してそのような…」
「たしか消えた教徒の名はヒロ…だったか?
その男に君が残影と金を渡した、という報告もウソなのかね?」
カノウの顔が青ざめる。
イッキの冷酷な視線がカノウを捉える。
「私の伝令は影。常にお前たちのそばにある。
さあ、答えよ、カノウ。
私の伝令は虚偽を申し立てたのかな?」
カノウの額から汗がしたたり落ちた。
「私の忠義は、常にあなたと、そして教義とともにあります。」
震える声で訴える。
「なるほど…。
ではウソを申し立てた者を罰しなくてはならないな。
カノウ、君が隠し事をしていないというのなら、今すぐこの場を去るがよい。」
落ち着いた声が語るその言葉に、カノウは上手くやり過ごせたと安堵した。
「ははっ。」
と、一度深くひれ伏し、その場を後にしようと向きを変えた。
その瞬間、脚に強烈な痛みと熱を感じて、うめき声をあげた。
彼の両足に蛇のようにまとわりつく炎。
そして彼の行く先を塞ぐように炎のカーテンが現れた。
炎はまるで意思を持ったようにカノウを追い立て、気が付けばイッキの足元に追い詰められていた。
これが何を意味するか、カノウにはよく分かっていた。
「ああ…、イッキ卿。我らの導師よ。
私はあなたの忠実なるしもべ。
決してウソなど申してはおりません。
なにとぞ、お慈悲を!」
パニックに陥りながら、必死に命乞いをするカノウの口を炎が塞ぐ。
「ウソしか語らぬ者に舌は必要なかろう。」
炎に照らされたイッキの顔に表情はない。
熱傷の痛みで倒れ、もだえるカノウの頭を踏みつけたイッキが放った炎の鞭が、大鐘楼の13の鐘を一斉に打ち鳴らした。
それを合図に、闇の中から大勢の信徒が現れ、教壇を囲んだ。
全員無言のまま壇上のイッキを見つめている。
教団員の見守る中、イッキが高らかに演説を始めた。
「トレディシムの信者たちよ。
我ら心を同じくする者たちよ。
我らの信条に対する、いかなる裏切りも死によって浄化されなければならない。
我らは使命に生き、信仰によって耐える。
導き主たる十三宮が、この世を理想のもとに置き、この分断された世界に秩序をもたらすという神聖な任務を成し遂げるため、我々は祈り、そして耐えるのだ。
裏切りを成す者、信仰を捨てた者、そして我々の秩序を乱す者は、我々の信念と忠義を示す道となり手本となるだろう!
パラディヌス・トレディシム・インアエテルナム!」
古の言葉で、“導き主よ、永久なれ。”その言葉とともに、右手の拳を高々とかざす。
それまで沈黙のまま見守っていた教徒たちも一斉に腕を突き上げ、十三宮への崇拝の言葉を唱えた。
イッキはカノウの頭を掴み、その面を高々と信者に見せつけるように引き起こした。
カノウの背に当てられたイッキの拳にサーキットが集中し、低い共鳴音の響きと共に赤い光の環が走る。
炎を纏った拳がカノウの背から胸に突き抜けた。
握られたイッキの手から、焼かれ炭化した心臓が砂のように崩れて落ちた。
見守っていた信者たちが、現れた時と同じように、しずしずと闇に消えていく。
浄化の儀式は終わった。
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外は晴れ渡っている。
時刻は正午を少し回ったころ。
イッキは執務室の大きな窓に面した石造りの床に、1畳置かれた畳に腰を下ろし、各教区から送られてくる報告に目を通していた。
殺伐とした彼の日常とはうらはらに、窓の外では鳥が歌い、さわやかな風に木々がざわめき、低い書斎机に積まれた数冊の本の上に、木の葉が柔らかい影を落とし、ゆらゆらと揺らめいている。
彼の背後の扉が、音もなく開いた。
かすかな衣擦れの音。
「ノックも無しに入って来るとは。
何か重要な要件ですか?」
イッキはデバイスの画面を見つめたまま、背後の気配に尋ねた。
「わたくしの言葉は常に重要。
いまさら言うまでもないでしょう。青二才さん。」
冷たく低い声の主は、黒く長い裾を引いた白髪の老女。
レースの薄いヴェールの下の顔は、彼女の抑圧的な性格を表している。
イッキはその声に反応するように振り向いた。
「そのような悪態をつくのは、あなただけですよ。レディ・アルダラ。
それより、何用ですか?
チェイロロフスで、導き主様の未来の伴侶に行儀作法を伝授しているはずですが?」
「そうね…。」
アルダラは扉を閉めると、ゆっくりと裾を引きながらイッキの脇を通り抜け、壁のそばに置かれたロッキングチェアの背もたれに手を置いた。
「しかし、そのようなことをあなたが心配する必要はありません。
あちらは、わたくしの信頼の置ける者に任せています。
そんなことより、あなた、まだこの椅子を大事にとってあるのね?」
そう言って、感慨深そうにその背もたれに手を滑らせた。
「始末するのを忘れているだけです。
とにかく用件は?
私はヒマではないのですよ。
あなたは仕事を誰かに押し付けたようだが、私はそういう訳にはいかないのでね。」
イッキは再び机に向き直ると、やや嫌味を含む物言いをした。
「ずいぶんと偉くなったのね。」
アルダラは鼻でフンと笑うと、背もたれを軽く突いた。
ロッキングチェアがわずかに揺れて、カッタカッタと小気味よい反復音を立てた。
近づいてくる衣擦れの音を聞き、イッキも腰を上げる。
「いつまでも下に見ないでいただきたい。
私は今や“先触”たる身分。
どうぞ軽々しく物を言うのはお控えください。」
2メートル近い長身で、小さく細身のアルダラを見下ろす。
「あら、今のあなたの地位は誰のおかげ?
誰があなたを鍛え、強い力と心を与えたの?
あなたは浄化されて当然の穢れた子。
あなたが生きていることすら、わたくしの気まぐれであったことを忘れてはいないでしょうね?青二才さん。」
「私は穢れの源をこの手で断つことで、すでに浄化されている。
この地位は、私自身の成した功績によるもの。
私の力は持って生まれた才能です。」
「あら、そう。」
アルダラは侮蔑を含んだ笑みを浮かべ、意地悪い目つきでイッキの足元から顔まで視線を滑らせた。
「あなたの両親は我々修道会の掟に背いた背徳者。
その禁断の結晶があなた。
いずれも導き主様の伴侶となるべく純潔を守らねばならぬ身でありながら、その掟に背いた破戒者。
あなたにはその穢れた血が流れている。
フフ…、面白いわね、青二才さん。」
「またその話か。
すでに浄化された過去。
もうその話はよしていただきたい。」
イッキは窓の外の穏やかに揺れる木々の影を眺めながら、気だるげに応えた。
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十三宮を導き主として崇めるトレディシム修道会では、代々の守護者が現世に出現すると、それを庇護と称して拉致してきた歴史がある。
そして、徹底的に教団の教えを叩き込み、洗脳した。
トレディシムの王として教団を導き、この世の中を遍く支配下に置くために。
さらには、守護者は教団が育成した伴侶があてがわれる。
見目麗しい若者が何十人と集められ、男性女性、別々の館で、それぞれが先触のもと、徹底した教育を受けて守護者の出現を待つのだ。
イッキの両親は、いずれもパラディンの配偶者となるべく集められた若者だったが、偶然の出会いからお互い強く惹かれ合った。
あろうことか新しい命を身籠っていたのである。
これは教団にたいしての反逆であり、教義上の大罪である。
2人の愛し合う若者は教団への忠誠を捨てようと決意した。
しかし、若さゆえに浅はかだった彼らの計画はたちまち露見し、捕らえられてしまう。
父親は、当時、先触としてハナミ大教区を治めていたアルダラの手によって即刻処分された。
一方、母親はイッキを出産後も地下牢に繋がれて生かされていた。
産みの親から引き離されたイッキは、赤ん坊のころからアルダラの手元で育てられた。
物心ついたときから、偉大な独裁者、かつての偉大な十三宮の全歴史を学ぶことに専念し、何の疑問も抱くことなく、押し付けられた絶対主義的な教義を正義として育った。
8歳になると、エレメンタル操者としての鍛錬を始めた。
彼の持つエレメントは炎。
エネルギーを制御できるようになるまでは、酷い火傷や怪我を負ったが、アルダラは決して甘やかしたりはしなかった。
訓練は毎日、日の出から日没まで続けられ、時には鞭で打たれ、時には血を吐くまで、それは苛烈なものだった。
継母であり、師であるアルダラから受ける“教育”と称した非人道的な体罰と、徹底した躾により、イッキは次第に人に対する情というものを失っていった。
これが教団内で行われる信仰と称した洗脳である。
イッキが12歳になったころ、アルダラは荒涼とした地に彼を連れてきた。
目の前には、2本の木の間にほぼ全裸に近い状態ではりつけられた男が1人。
アルダラは言う。
「この男は我らの教義を軽んじた男。」
イッキは男を見据えたまま、アルダラに問う。
「この男をどうするのですか?レディ・アルダラ。」
「この憐れな異端者を救う方法は、魂の浄化のみ。
あなたが彼を清め、魂を解き放っておやりなさい。」
アルダラの声は淡々としている。
繋がれた男は、小さなイッキを見て狂ったように笑い始めた。
「アハハハッ。
手も足も出せない俺を小僧に殺らせるつもりかい?
面白いじゃないか。
俺には持ってこいの屈辱的死だね。
さあ、小僧!モタモタしてないで、ひと思いに殺ってみろよ。」
イッキは無言で男の前まで進むと、腕に力を込めた。
赤いサーキットが走り、拳が炎を纏う。
少年の背後に立つアルダラが、イッキを諭すように言う。
「正面から死を見てはいけません。
穢れた魂があなたに乗り移ろうとするでしょう。
浄化を必要とする者は背後からの慈悲を与えておやりなさい。」
一瞬反抗的な目を女に向けたが、イッキはすぐに言われた通り、異端者の背後に回り、燃える手を男に振り下ろす。
炎が弧を描き、男の首が焼けて落ちた。
それから4年の歳月がたった。
16歳の誕生日を迎えた日、アルダラとイッキは、火王朝におけるトレディシムの本山の1つ、ヤマガの至聖所で壇上に立っていた。
周りでは多くの教徒が2人を沈黙の中、見守っている。
アルダラが信者たちを見回し、演説を始めた。
「ここにいる若者は、本日、成人を迎えた。
だが、彼には成さねばならぬ義務がある。
己の穢れた過去を焼き払い、真に教義を守る我がトレディシムの一員としての確固たる証を立てるため、これより彼自身の浄化を行う。
皆の者、刮目せよ。そして目に焼き付けよ。
この若者の輝かしい門出を!」
老女が手を挙げると、一斉に13の鐘が打ち鳴らされ、同時に1人のみすぼらしい女が壇上に引き出されてきた。
酷くやせ衰え、衣服はボロ布をまとうのみ。
栄養失調のために頭髪は抜け落ち、さながら歩く死体のように見える。
萎びた足は体重を支えることもできず、崩れるように座り込んだ。
その女はイッキを見ると、落ちくぼんだ眼窩の奥の目から涙が流れ落ちた。
そして愛おしそうに手を伸ばし、若者の顔に触れようとした。
「イッキ…なのね?
…よかった…。あなたが生きていて…」
かよわく微かな声が震える。
このくたびれた雑巾のような女こそが、イッキの母親であった。
アルダラが敢えて生かしておいたのも、この日のためだったのだろう。
イッキは、ただひたすら十三宮に忠誠を誓い、教義を絶対と信じた。
にもかかわらず、長らく信徒からは「生まれる前に死ぬべきだった庶子」として、蔑視と差別を受けてきた。
全ての元凶は目の前の“穢れ”にある。
イッキにはもはや、人としての感情はない。
再会を喜ぶ母親には一片の情も感じてはいない。
少しの戸惑いすら見せず女の背後に回ると、燃えさかる拳をその背に突き立てた。
拳は母親の胸を突き抜け、炎が彼女の顔を赤く照らす。
断末魔の叫びすら上げる間もない一瞬の出来事だった。
若きイッキの手に握られた憐れな女の心臓は未だ燻っている。
青年は表情をかえることもなく、手の内の炭化した心臓を握りつぶす。
胸に穴の開いた母親の亡骸は、壊れた人形のように床に落ちた。
イッキの様子を静観していたアルダラが、彼のもとにゆっくり歩み寄る。
そしてアルダラはイッキに一振りの刀を差し出した。
黒い鞘に収まった刀を抜くと、冷たい光を放つ刀身が露わになる。
「その刀は大教区を治めるに相応しい人間が持つものです。」
そう言うと彼の背に手を回し、信者たちに高らかに宣言する。
「たった今、我らは敬虔な信徒の“自らの浄化”を目の当たりにした。
この者は、これよりわたくしに代わり、ハナミ大教区を治める先触として、我らトレディシムの信仰と忠誠心を継ぐ者。
我らが主の忠実なるしもべの誕生を、賞賛せよ!」
教団員たちの歓喜の声が、広く冷たい聖堂にこだまする。
この儀式は、イッキがアルダラの治めていた大教区を継承すると共に、彼が“先触”、すなわち修道会内において最も権威ある地位を得たことを意味した。
このときもイッキは極めて平静な表情をしていたが、心の内では、これまで彼が最も恐れていた人物と同等の序列を与えられたことに大きな満足感を得ていた。
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「また何か考え事かしら?」
アルダラの声に現実へ引き戻されるイッキ。
老女はロッキングチェアに腰かけ、観察するように彼を見ている。
「俺を眺めるために来たわけではなかろう?」
「ええ、そうね。わたくしがそのような理由でここに来るとでも?
ずいぶん自意識過剰だこと。
…あなた、信徒を処刑したそうね。」
「謀反者の魂を浄化したまでのことです。」
「そう…。」
アルダラの冷ややかな目が光る。
「あなたが治める教区で、そのような大胆な行為をする者がいるなんて不思議ね。
あなた、ずいぶん甘く見られているのではありませんか?」
「私のこの地位を欲し、反旗を翻そうと考える愚か者は、どこにでもいるものです。
それは12の大教区、12人の先触にとっても同じこと。
違いますか?レディ・アルダラ。」
あくまで冷静な声でそう答えると、イッキは背を向けて座った。
「このようなつまらない話をするために来たのなら、もうお引き取りを。」
と、背後のアルダラには目もくれず、机の上のデバイス画面を凝視している。
「まさか。わたくしも先触の座を退いたとはいえ、まだまだ大切なお役目を預かる身。
くだらない茶飲みは話をするためにわざわざ出向いて来たわけではありませんよ。」
アルダラが不敵な笑みを浮かべ立ち上がる。
古いロッキングチェアが軋みをたてて揺れた。
「今日はあなたにとって、とても興味深いニュースを持って来たのです。
ここへ来る前、べリス大教区の先触と共に、ラスという男に会いに行きました。」
それを聞いて、イッキは動きを止めた。
手にしていたデバイスを書斎机に静かに置き、振り返る。
「奴の入信を説得できたので?」
「いいえ。彼はまだ、我々トレディシムの教えと交わることに消極的です。
ですが、オリジン・エレメントと人体の融合に関する我々の研究に非常に興味を示しています。
今後は我ら同志と知識を共有することを強く望んでいます。」
「…我々に利があるとは、とても思えない。
所詮あのマッドサイエンティストの持っている知識といえば、人間爆弾を作るくらいのことでしょう。」
イッキがおっくうそうに立ち上がる。
「そうね。
でも、いずれ彼の研究が役に立つ時が訪れます。
二種類のエレメンタル・エネルギーを1人の人間が制御できる方法。
ひいては“創造の柱”の力に近づくことができる。
それを完成させることは、もはや机上の空論ではありません。」
アルダラの言葉にイッキの眉がわずかに動いた。
このラスという男、元はヴェントゥム王国のチャマエメルム地方、この氷に覆われた不毛の地を治める伯爵であったが、現在は解剖学や超自然エネルギーの研究に傾倒している。
城内で怪しげな人体実験を行っているなどという噂もあり、どこまで信憑性があるかは不明だが、彼の城から使用人が消えたという話もあるようだ。
彼は非常に内向的な性格であるため、彼が“価値のある人間”と認めた者以外、親交を交えることがない。
故に彼の姿を直接見た者は、ごくわずかである。
黒々とした長い顎鬚と鴉の濡れ羽根のような髪、そして生気のない真っ白な肌には青いクマが異様に目立ち、狂気に満ちた目だけがギラギラと輝く様子は、ひと言で表現するならあば“マッドサイエンティスト”といったところか。
皆一様に口をそろえるラス伯の風貌である。
「つまり?」
イッキはアルダラに歩み寄り、老いた女を見下ろした。
アルダラは強い眼差しで長身の男を見据え、
「わたくしたちが必要としているものはサンプル。
“創造の柱”という高みへ近づくためのハシゴをね。」
そう言って不遜な笑みを浮かべた。
「候補は?」
「その栄えある役目をあなたに託したいのです。」
「ほう。なぜ?」
腕を組むイッキの肩で鎧が乾いた音を立てる。
「有象無象の衆にこの役目を任せるわけにはいきません。
もし、その力を手にしてしまえば、後戻りはできない。
我々教団としても、最も信頼の置ける、つまり12人の先触から候補を選びたいのです。
あなたは生命力に満ちている。強い精神も持っている。
この実験での生存率は10%。
ですが、あなたなら耐えうると、我々は知っているのです。」
「なるほど。」
イッキはしばらく思索にふけり、うつむいていた。
例の狂人の実験台となることは本意ではない。
モルモットになったあげく、失敗すれば待つのは死。
しかし、全てはトレディシムのため。
慈悲深き十三宮の栄光のため。
イッキは組んでいた腕をほどき、右手を胸に当て軽く頭を下げ、礼を正した。
「承知した。いつから始める?」
「まだ研究は途上です。
完成には数か月、あるいは数年という月日を要するでしょう。
その間、鍛錬することです。
さらに強靭な肉体と精神を鍛え上げなさい。
我々はあなたを失うことを望んではいません。
そして、あなたなら成し遂げられるでしょう。
トレディシムはあなたを信じているのです。」
威厳に満ちた面持ちでそう語ったアルダラは、来た時と同じように微かな衣擦れの音を残して去って行った。
第14話 おわり
書きました。アブサロン
イラストはこちら ペイやん
おまけイラスト
この章は、作品に深みが出ている気がしてとても気に入っています。




