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嗚呼、弁天さま! 妄想ヒーローは暴走する

作者: 美ヶ原 武

 我こそはと体躯に自己主張するビルたちの間に沈みゆく初秋の夕陽は、まだ昼間に未練を残しているようだ。迫りつつある深紫の支配へ抗い、金赤色の光の使者を街の隅々まで送り込んでいる。その色たちの攻防が景色を赤紫色に染めていた。

 赤色の混じった金色の光を背に従え、彼女は立っていた。びわ(﹅﹅)を手にするふくよかなシルエットで――。

(おお、弁天さま⁉)

 身体全体から光を放つ挙身の後光は慈愛に満ち、万人を包み込むように(まばゆ)い。

「あ・り・が・と・う」

 暖かく心地好い天声が届く。

(弁天様の降臨だ――願いを叶えに来てくださった‼)

 ここ一ヶ月、弁天堂に手を合わせることが私の日課となっている。そこに住まう弁天様が、「救いの手を差し伸べに、やっと来てくれたんだ」と思うと、胸が熱くなる。西陽に焦がされた暑さのせいだけではなかった。


 弁天堂は、会社と駅の中間にあり、七福神の一人弁天様が祀られていた。ブランドの洋服を扱うブティックや若者に人気のヘアーサロン、そして地元住民に愛されている昔ながらの金物店や八百屋が建ち並ぶ駅前通りに建っていた。ひっそりと、だが、存在感を持って。境内にある沿革によると、戦国時代の終わりごろ建立され、当時は現在地より東北に二百メートルほど離れた所にあったらしい。ちょうど今の駅がある辺りだ。江戸時代の後期に商家町が整えられたのに伴いここに移築されたようだ。

その存在に気がついたのはひと月ほど前。猛暑も退散を始めた晩夏の夕方、会社への帰り道だった。

その日も契約が取れず、上司の叱咤や同僚の冷たい視線の激励が待っていると思うと、心も足取りもとても重かった。数名いる営業マンの中で、常に安定して営業成績最下位の私は、会社に帰るのが毎日つらかった。心身の重さ(﹅﹅)への恨みは、万有引力を発見したニュートンと、そのきっかけとなったと言われるリンゴにまで及んだ。そのため実家から送られてくる大好きな林檎をも食べることができなくなっていた。

(会社は牢屋。そして私は囚人――。日中は過酷なノルマを強いられ、夕方にはまた収監される)

 足かせの(おもり)を引きずり、人生をあきらめた眼差しで牢屋へと歩かされる囚人……そんな外国映画が自分の姿と重なった。

(映画は良いよな、エンディングあるから。しかもヒーローが救いに来てくれる……)

 深いため息を足元に絡みつけるように(うつむ)いたまま一歩また一歩と歩いていると、ヘアーサロンの前に差し掛かる。一面ガラス張りで、歩道から店内の様子が良く見えた。木目調に統一され明るく暖か味のある雰囲気だ。私と同い年くらいの美容師は、垢ぬけていて若者に人気があるのもうなずける。そのためか常に客がいた。ヘアーメイクの様子が丸見えで、客は恥ずかしくないのか? といつも思う。

(オレは入れない。そもそも美容室なん入ったことがない。理容室に行くのにさえ覚悟が必要なのに――)

 その時、ガラスの中に私と並んで歩く人影が視界の端に入ってきた。横目でそうっと覗き込む。ヨレヨレのサマースーツを纏い、肩を落とし死んだ魚のような虚ろな眼をした男だった。精彩を欠いた厭世主義者のような男――それが自分であることに、しばらく気が到達しなかった。

「バァ~カァ~」

 突然、罵声が降ってきた。パワハラとして、最近こそ言われなくなった罵詈雑言だ。

「すみません!」

 咄嗟に謝罪の言葉が口を突く。第一声はとにかく謝ること。多くの営業マンが条件反射として身体にしみついている。同時に首を上げ直立不動の姿勢となった。これも条件反射だ。声がした方に視線を振ってみるが、私に気を留めている者、まして声を掛けてきたと思える人は認められない。ガラスの向こう側では客と美容師が鏡を通して笑顔で会話している様子が、無声映画のようだ。

ガラスには、緊張に背筋を伸ばし作り笑顔のビジネスマンが映ってた。

(幻聴か? ついに……虚を認めるまでになってしまったのか――)

 これ以上落ちないところまで、ガックリと肩を落とす。そうして猜疑に富ませた目で、もう一度辺りを伺うように見まわしてみた。雑言の元と思われる方に目が行ったとき、小さな古いお堂に目が止まった。ヘアーサロンから二軒隣にあった。

(こんなところに、お堂が?)

 毎日うなだれて歩いていたためか、就職して五年間ほぼ毎日この道を通っていながら、そこにお堂があることに全く気が付かなかった。眼には入ってきていたのかも知れないが、頭の中には入っていなかったと言う方が正確かも知れない。まるで、節穴から射し込んだ光が、上下を逆さにした景色を壁に映し出しているように……

お堂(あっち)から聞こえたよな。ああ、神様―神社でないことは後でわかったことだが―にも馬鹿にされてしまったのか⁉)

 自我の強欲からお釈迦様の慈悲を無にし、再び奈落の血の池地獄に突き落とされた芥川龍之介『蜘蛛の糸』の犍陀多(かんだた)に思いが重なる。神仏に見放されたように、気持ちの重さが倍増した。すると、また声が聞こえてきた。

「バァ〜カァ〜、バカァ〜」

 今度は声をはっきり捉えた。それは、色づきには少し早いが、秋の気配をまとって緑がくすみ始めているイチョウの木の天辺から降ってきていた。見上げると、西陽のスポットライトを浴び赤黒く光るカラスが一羽、首を上下に振りながら鳴いている。バレエダンサーのプリマのように。

(カラスの鳴き声か! 空耳か、くっそー、馬鹿にしやがって!)

 カラスからコケにされた腹立たしさに、持っていた黒いビジネスバッグを振上げ、投げつけるそぶりを見せたが、動ずる様子もなく「投げれるものなら投げて見ろ」と言わんばかりの黒光りする目で見降ろしている。不敵な笑いを浮かべているようにさえ見えて来る。頭の良いカラスに、私の心の中を見透かされている気がして悔しさにも襲われた。すれ違う母娘(おやこ)がカラスと私へ交互に目を投じ、母親は哀れみの視線を游がせ、女の子は興味深い視線を置いて通りすぎた。

「ア~ホォ~」

 私の怒りを逆なでするように、もうひと鳴きすると、カサカサと乾いた羽音をたて、近くを飛ぶ仲間の群れに合流していった。迎え入れる仲間のいることがうらやましいと、怒りの中に嫉妬も混じる。

(いつか痛い目を見させるからな! 田楽にしてやる!)

 実家の地方では、カラスを食す文化があり、それを『カラス田楽』と言っている。肉を骨ごと砕き、ネギなどを混ぜつくね(﹅﹅﹅)のようにして焼いて食べたと祖母が言っていた。それを聞いたとき「肉は黒いのか?」と問うと、祖母からは「鶏肉だ」と言われた覚えがある。ただ、今では幻の料理であり、私も食べたことはない。

 小さくなっていくカラスを目で追っているうちに、神の遣い八咫烏(やたがらす)を思い出した。サッカー日本代表のエンブレムにもなっている三本足の烏だ。神武天皇を大和の国に導いたという神話から、ボールをゴールに導くという願いが込められているらしい。先ほどのカラスは無論八咫烏ではないが、この場所でカラスに声をかけられた(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)のも何かの縁ではないか……。

(神頼みもありか? たまにはそれもいいか――)

帰社時刻を少しでも遅くしたい気持ちも相まって、時間稼ぎのためにお参りすることにする。それが『焼け石に水』でもあり『火に油を注ぐ』結果になることでもあるのだが……。

 お堂入口の石柱には辨財天と彫られていた。

(確か、辨財天は商売繁盛の……。これも、神様のお導きだ⁉ カラスを使って――)

 石段をまたぎ、歩道から一段高くなっている境内に入った。全体でも三坪ほどの敷地は綺麗に浄められており、地域から慕われている様子が見て取れる。真ん中に、入母屋の屋根を冠した、間口奥行ともに一間程度のお堂があり、左右に新しい桃太郎旗が二本ずつ立っている。赤地に白色の太明朝体で『商売繁盛』『満願成就』と書かれていた。

 お堂に寄り添うように立つイチョウは、葉を力強く広げて西陽の光撃から守っている。プリマ(﹅﹅﹅)カラスがスポットライトを浴びていた木だ。銀杏が()っていないところを見ると雄の木だろう。弁天堂は周りを家々に囲まれ日当たりが無いのか、湿った空気が境内に押し込められ少しひんやりしている。それが、西陽に焦がされ歩いてきた身体には涼しく心地好く感じられた。優しく包み込む涼感は、帰社への重い気持を少しだが軽くもしてくれた。そして、淀んでいる空気からは霊気も感じる。

(雰囲気のあるお堂だ――。ええと、弁財天は神様と仏様どっちだ?) 

 神と仏を間違えてお参りしようものなら、せっかくのお導きもご利益が無くなる。そう思うと逡巡する。

(確か『天』が付くのは仏様だと、おばあちゃんが言っていた……)

 不安にかられつつ、正面の格子戸から堂内を覗くと、琵琶(﹅﹅)を奏でる弁天様が鎮座していた。そのお顔は微笑みを湛えている。はたしてお堂(ここ)は仏様であった。

 弁財天は弁天さんと呼ばれ親しまれている。ヒンドゥー教の神様が仏教に取り込まれ、日本に伝来するとさらに七福神の一人としてもあがめられたことで、仏様と神様の両方があることを後で知った。

 賽銭箱の前に立ち、背広の右ポケットから十円玉を取り出す。十円だけだった電車賃のつり銭を財布にしまうのが億劫で、ポケットに入れておいたものだ。いつもなら必ずサイフに仕舞うのだが、何故か今日はそうしなかった。人混みに押されたのか、電車の発車時間が迫っていたのか、その理由は見つからない。

(これも、偶然なのか? 第六感、シックスセンスなのか⁈)

 造幣されたばかりの硬貨を賽銭箱に放る。神々しい赤銅色の光を回転させながら、弧を描き箱に吸い込まれた十円玉は、乾いたリズムカルな音を響かせて箱の底に沈んでいった。

(弁天様に届いただろうか?)

 保育園の頃、祖母に手を引かれ実家近くの神社に時々お詣りしたことを思い出す。五穀豊穣の神を祀った地域の氏神様だ。参詣するたびに「お賽銭は大きな音が出るように投げ入れるもんだ」と祖母は言っていた。「大きな音で神さまがお賽銭に気付き、願いを聞き入れてくれるからだ」というのが理由だった。その投げ入れ方は身体にすり込まれていて、寺と神社に関係なく、今でもその通りにしている。しかも、落ちていく音が小さいときは、もう一回投げ入れることもある――。

 続けて、軒に下がる鰐口(わにくち)を、()った太い麻綱を持って勢いよく叩く。想像していた音と違った。ボワ~ンという渋く低い音が、境内に(とど)まる湿り気を含んだ空気にゆっくり浸みていくように広がり、お堂を囲む家の壁にこだました。霊験あらたかな感覚が体に湧いて来た。

 柏手(かしわで)を打とうと大きく手を広げる。そこがお堂であることに気が戻り、間際で合掌に直す。手を打ち鳴らす寸前に合掌にすり替えた様は、傍から見ると間の抜けた仕草に見えただろう。

(危ない! 弁天様に見放されるところだった――)

そんな姿を自嘲したときだった。

―お前は、間が抜けてるんだよなぁ―

 突然、抑揚の無い金属のような同僚の声が聞こえた。慌てて振り返るが誰もいない。

(ああ、また幻聴か……)

 耳の奥に蘇えった不快感を残したまま、周囲に誰もいないことを見定めると、「営業成績が上がりますように……。上司から叱られませんように……。同僚から疎まれませんように……。そして、彼女もできますように……」と、小さな声だがゆっくりと願をかけた。

 たった十円の浄財ではお願いしすぎだと思ったが、めったにお参りなどしないのだから、このくらいお願いしてもバチが当たらないと自己弁明し、深く頭を垂れた。

 次の日も、その次の日もお参りを重ねた。三日坊主では無くなった四日目以降も続け、そうすると、帰社途中にこの弁天堂でお勤めすることが日課となっていた。

「明日こそは契約がとれますように『オン ソラソバテイエイ ソワカ』」

 しかし、未だ成就されてはいない。毎日十円、一年間で三六五〇円の浄財では願いを叶えてくれないのだろうか? 

(結局、願い(﹅﹅)の沙汰も金次第ということか?)

 願いが四つなので、ひとつの願いが年間約九一三円。

 「コストパフォーマンスを考えろ!」という上司の口癖が頭の中で大きく響き渡った。


 ところが、現に、目の前に金色の光背を持つ神々しい(﹅﹅﹅﹅)弁天様がいるではないか!

(夢か、(うつつ)か、幻か……⁈)

 ドラマのお約束シーンの様に、頬を軽くつねる。

(痛っ! 夢じゃない)

 だが、夢でも幻でも構わない。神様、仏様どちらでもよい。すぐ前にいる女神様、いや弁天様が降臨してきたことには間違いない。

 弁天様が現れたのは、日課(﹅﹅)を終え監獄(﹅﹅)に向けて歩き始めたときだ。数メートル前を、右脚を軽く引きずりながら女性が歩いていた。七十代くらいだろうか。

(おばあちゃんも、足をちょっと引きずってたっけ――)

 左脚であったが、同じように歩いていた祖母の面影と重なる。長年の農作業の無理が祟ったと言っていたが、はたしてその通りなのかあるいは事故だったのか生まれつきだったのか、本当のことはわからない。子ども心にも聞いていけないように思っていた。普段はもの静かで、芯が強く、信心深かい女性だった。私にも近所の子どもにも、優しくいろいろなことを教えてくれたが、三年前の秋に天寿を全うした。

カラシ色のチェニックに黒のワイドパンツ、そしてグレーでニット地のウォーキングシューズというお洒落ないで立ちだ。正面から射してくる西陽に便乗して、品の良さを送ってくる。艶を抑えたシルバーゴールドのポシェットを左肩から襷に掛け、左手に買い物袋を提げている。全体がワインレッドで、持ち手部分が深緑のシックな色合いだ。膨らんだ袋は重そうで、左腿を添え乗せるように前に押し出す格好で歩いていた。

 三人が横に並べる程度の歩道は、多くの女性がさす日傘で、ずっと狭く感じる。学校帰り買い物帰り、そして夜の仕事への出勤なのか、たくさんの人が行き交っている。しかも夕陽から逃げるよう、足早に。私もその女性も、人の流れに乗ることを拒絶し、歩道の店舗に近い端を歩いている。

 前方から通行人の間を縫うように、青年の乗った自転車が近づいてくるのが見えた。そのハンドルさばきは、フェイントでディフェンスをかわしながらドリブルするサッカー選手のように見事だ。女性は立ち止まり、眼で自転車を追っている。通り過ぎて行くのを待っているようだ。自転車が通り抜けようとしたとき、女性の持つ買い物袋に軽く接触した。それにつられ袋を落としてしまう。ガサッと座るような音がした。

「あっ!」

 小さな声が私の口から跳ね出た。

青年は、ちょっと首をひねる仕草さを見せただけで「すみませ~ん」と間延びした声を置いて走り去っていく。竦むように立つ買い物袋に、女性は慌てる様子もなく腰を折って拾い上げた。とその瞬間、今度は袋の持ち手部分が切れ、またもや落としてしまう。胃もたれするような鈍いくぐもった音が聞こえた。その上、悪いことが重なる。落ちた拍子に袋が倒れ、中身が歩道に飛び出してしまった。女性は足元に散らばる豆腐やレトルト食品、フルーツなどを無常の目で集めていた。

(うわぁ――二度の衝撃であの豆腐はグチャグチャだろうな⁉)

 まず思ったのは、歩道に落ちている豆腐の安否だった――。


 子どもの頃、隣町の豆腐屋が毎週水曜日の夕方に、決まって軽自動車で売りに来た。当時、スーパーマーケットでの販売が主流にはなっていたが、『♪ と~ふ~』というラッパ音―スピーカーから流れていたが―は、年寄りにとっては懐かしく、若い人にとっては目新しい販売方法だった。ラッパ音は『ソ~ラ~』と聞こえたが、正確な音程はわからない。ただ、その音が聞こえるとワクワクし、水を張った鍋を持って祖母と一緒に時々買いに行った。小学校に入学して間もない頃だった。小学生になったんだからと、一人だけで買いに行くと言い張った。私の強情さに根負けした祖母は、そのおつかいを許してくれた。一人で持つ鍋は、いつもより重く感じた。豆腐の沈む両耳鍋を抱え、歩くごとに左右に波打つ鍋の水を(こぼ)さぬよう豆腐とにらめっこし、鍋の中の世界に神経を集中させながらも、眼の端で地面の敷石を確認しながらすり足で家に向かっていた。玄関まであと敷石ひとつの所まで来た時、顔を上げ、大役を成し遂げたと威を張り、意気揚々と玄関に目をやる。その時だった、敷石に(つまづ)き、鍋をひっくり返してしまった。今思うと、ワニの背中を渡って因幡の国に行こうとした白ウサギが、あと少しで渡りきる所で、悪態によりワニの怒りを買って毛皮をむしり取られてしまったという昔話『いなばのしろうさぎ』に似ているとも思う。祖母が飛び出してきて―心配で見ていたのだろう―三和土(たたき)に崩れた落ちた豆腐を、そっとすくい上げ替りの鍋に入れた。腰のある木綿豆腐だったため、見る影が無いほど形が崩れてはおらず、拾い終えると外にある水道で何度も何度も丁寧に洗った。横で泣きじゃくる私に「怪我はないかい。一人で買って来れて、偉いにぃ」と褒めてくれた。頑固に言い張ったにも関わらず、完遂できなかったことに悔しさと恥ずかしさを抱え、さらに怒られることを覚悟していただけに、祖母のその言動が、その時には嬉しくも理解できなかった。その晩の味噌汁には形の崩れた豆腐が入っていた。父は祖母から聞いていたのだろう。

「一人で豆腐買ったんだってな。父さんの子どもの頃は、毎日豆腐屋さんがラッパを吹いて自転車で売りに来ていた。豆腐を買いに行くのは父さんの役目だった」

 と言うと、祖母が

「何度、鍋をひっくり返したことか……グチャグチャだったにぃ」

 と笑い、「形が残ってるだけいいにぃ」と付け加えた。このおおらかさに救われた気持ちがし、涙を流しながら飲んだ味噌汁の味が、いつもよりしょっぱかった。


(パック入りだから何とか持ちこたえたか⁉ それより、おばあさんを助けなくては)

 その瞬間、私のヒーロー魂にスイッチが入る!

〈変身~ン‼〉

 走り去った自転車を見やり、人ごみに紛れていく青年の背中に視線を刺すと、女性のもとにサッと歩み寄る。

「大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

 散らばった商品を、しゃがんで拾い始めた。買った品物を検品しているように思われるのも嫌なので、かき集めるように手早く袋に入れる。

「豆腐、少し崩れちゃいましたね」

 最後に豆腐のパックを入れると立ち上がる。豆腐だけは気になった。

「拾っていただいて、すみません。買い物が散らばったときは、ちょっとパニックになってしまいました」

(そうは見えなかったけど……パニクって、フリーズしてたのか⁉)

「引っかけておいてそのまま行っちゃうとは、ひどい野郎(やつ)ですね。男の風上にも置けない!」

「いえ、私がノロノロしてたから。年寄りは困ったものね」

(ちゃんと立ち止まってたじゃん!)

「そんなことないですよ。今のは100パーセント自転車が悪い! 私見てたから。それに歩道(ここ)、自転車乗っちゃいけないんで――」

「あら、そうなの……何で⁉」

(そっか、知らないのかぁ)

「そうなんですよ。自転車は軽車輛、あっ、つまり自動車と同じなんです。ですから、本来は車道を走らないといけないんです。乗っても良い歩道もあるんだけど、歩道(ここ)は……」

(と言っても、わかんねぇだろうなぁ)

 首をかしげる女性の表情を見て、話題を変えた。

「買い物袋、取っ手切れちゃいましたね。彼に弁償させましょう……と言っても、野郎(やつ)はもういないってか⁉」

「ふふ、面白いお兄さんね。あっ買い物袋(これ)、元々薄い素材だったし、何年も使ってきたから寿命だったのよ。汚れてもいたし、そろそろ取り換えようと思ってたの。ちょうどよかったわ」

(う~ん、何と心の広い……仏様のようだ)

 持ち手部分を失った袋の縁をつかみ、おなかの前に持ち上げて抱えた。袋は意外に重かった。

(おばあさんには重いんじゃん。よく持ってたなぁ)

「これ、持ちにくいけど大丈夫ですか?」

 女性が抱えやすいように胸の前に買い物袋を差し出すと、孫を抱っこするように持つ。

(このままじゃ歩かせられないな)

 荷物を抱え、足元が見えない状態で歩く危険さは豆腐鍋のトラウマからよくわかる。年寄りならば余計に危ない。ましてこの女性は右脚にハンディキャップがある。

「よかったらこれ使ってください」

 薄いナイロン製の黒色の買い物バッグを取り出した。レジ袋が有料化されてから、ビジネスバックに入れ常に持ち歩いているものだ。

「お気遣いありがとう。でも、こうして抱えて行けば大丈夫よ。家はすぐそこですから」

 赤ちゃんをあやすように、両手で抱えた袋を上下に小刻みに揺らした。

(いやいや、大丈夫じゃないって!)

 祖母は、畑で採った野菜を入れた笊を抱え納屋に入ろうとしたとき、入口引き戸の敷居に足を引っかけ転倒した。幸い骨折はなかったが、左脚の脛を(したたか)か打ち付けて、ぶっと色(青紫色)に腫れ上がり、数週間満足に歩けなかったのを見ている。

「ダメダメ、そんな持ち方で歩くと危ないから! お年寄りなんだし。これ使ってください‼」

 失礼な物言いとは思ったが、語気を強めた。それから、抱えている袋を半ば強引に取り上げると、私の買い物バッグにその袋ごと入れた。

「ごめんなさい。拾っていただいたうえにバッグまで使わせてしまって……」

「安物ですよ、気になさらずに。黒くて女性が持つには華やかさがないですが――」

(駅前のドラッグストアのポイントでもらった物なんだけど――)

 袋を受け取り易いように、持ち手部分を左手で立て、袋の底に右手を当てながら静かに袋を差し出す。   

 「ありがとう」と受け取る女性の手に触れる。ふっくらとした優しい手の感触は、蒲の穂のようであった。

 その時、女性の背中越しに見える夕陽が、金赤色の光として放たれていることに気が付いた。突然、目がくらみ、黄金色の田園風景が目蓋裏に浮かぶ。

 早く刈らないと稲わらが倒れてしまうほどに穂を垂れる豊年万作の稲田。その中にある五穀豊穣の地域の氏神様を祀った神社を、私は祖母に手を引かれお詣りしている。乾いて澄んだ秋の空気の中で、金箔を貼った蒔絵盆のように輝く稲田と、夕陽を受け燃朱色に染まった神社との色彩ハーモニーは、幼心に神様の存在を信ずるには十分だった。頭上高くカラスの群れが鳴きながら山に向かって飛んでいく。祖母は私の手を握ったまま「もうすぐ夜だ。帰ろう、帰ろうって鳴いてるんだよ」と空を見上げながら言った。

最近になり、カラスには三十通り以上もの鳴き方があり、夕方の鳴き声は一日の釣果を自慢しあっているとテレビで観たことがある。

 眩い光の中に女性のシルエットを見て現実に戻る。女性が買い物袋の持ち手をしっかり握った感触があったのでゆっくりと手を離す。一瞬肩が沈み、改めて買い物の重さが見て取れた。

「重いでしょ。えーと、よかったら家までお持ちしますよ」

「そんな、通りすがりの……お忙しいビジネスマンに……」

(怪しい男と思われてるんだな。この風体では仕方ないか――)

 ヘアーサロンのガラスに映っていた精彩に欠ける自分の姿を思い出す。険しい表情になっていたようだ。女性はそれを不満げな顔つきと感じたらしく、疑っているのではなく本当に申し訳なく思っていると弁明した。

「決して怪しい者ではないです」と名刺を差し出す。女性は買い物バッグを足元に置き、両方の掌で名刺を受け取りゆっくり視線を這わすと、疑っていないことをアピールするように、襷掛けしているポーチのサイドポケットに丁寧にしまい込んだ。

「……それに、お疲れでしょうから」

「それなら大丈夫、これから会社に帰るだけですし、元気もまだ30パーセントくらい残ってますから!」

「30パーセントしか(﹅﹅)残っていない、のでは?」

「いいえ、三十パーセント()残っている、です」

 ファイティングポーズで元気なヒーロー体をアピールして見せる。

「あはは。本当にひょうきんなお兄さんね。家はすぐそこですから、大丈夫ですよ」

(遠慮するなよ! 持って行ってやるって言ってんだから――)

 遠慮する女性の足元から買い物袋を引き寄せると、さすがに観念する。

「……それじゃお言葉に甘えて」

(そうそう、最初から甘えてちょうだいよー、ヒーローなんだから!)

「その代わり、あなたのそのビジネスバッグ私が持ちます」と言うが早いか、今度は女性が、私の足元の黒いビジネスバッグに手を伸ばした。

(おっと、それはヒーロー失格!)

「大丈夫、ノープロブレム。私は平気です。このバッグ、私の頭の中身と比例して軽いですから――」

 しかも「ビジネスバックはセールスマンの武器だから」と言いそうになり言葉が詰まった。

―お前は頭が軽いんだよ!―

―カバンはセールスのための武器を入れる命の次に大切なもんだ!―

 という上司の叱責が頭を()ぎる。全身が重くだるい感覚に支配されかけたが、自分の中のヒーローがそれを撃退した。

(酔っている。変身した自分に……)

 女性は今までとは違う俊敏さで手を伸ばすとバッグを拾い上げた。

「あら、本当に軽いのね。ビジネスバッグってもっと重いものだと思っていたわ。主人の鞄はパンパンだったの。何が入っていたのかは知らなかったけど」

 想像より相当軽かったのだろう。バッグを持ち上げた手が勢いよく跳ね上がった。

「バッグと頭は軽いけど、でも安心してください、人間性は軽くないですよ!」

 人差し指を立て、メトロノームの様に左右に数回振って見せ、合わせて軽い舌打ちを繰り返した。

「ほほほほ。その調子で営業しているの?」

 『営業』という言葉で心にさざ波が広がる。

「さあ、行きましょう」

 その波を治めるように、女性の家があると思われる方向を向き、ウインクして歩き出す。左手に買い物袋を下げた。

 私は普段から左手にビジネスバッグを持つ。新卒の時に読んだ雑誌の新入社員特集に、できる(﹅﹅﹅)ビジネスマンは利き手ではない方でバッグを持つとあった。『咄嗟の対処』に備え利き手は空けておくためだという。それが何を指していたのかは覚えていない。このほか当たり前のマナーも書いてあったはずだが、これ(﹅﹅)だけが深く頭に刻まれ、今では癖になっている。

「どちらですか?」

「はぁ?」

(自宅の場所に決まってるっしょ! このタイミングで利き手なんて聞くかあ⁈)

「お住まいは」

「ああ……ここからふたつ目の信号機を右に曲がって、ちょっと行った茶色い壁のマンションです」

「なら、ちょうどよかった。会社と同じ方向です」

「お仕事の帰りに、煩わせてすみません。でも、本当は助かってます――」

 いつもはキャリーバッグを引いて買い物をするのだが、出がけに車輪が壊れて使えなくなってしまったこと。スーパーでは、備え付けのショッピングカートを押して商品を買っていたため、重さまで頭が回わっていなかったこと。そのため、清算を終え買い物袋に商品を入れ、いざ持ってみると想像以上に重かったことなどを話してくれた。

 私は祖母に姿が重なり、放っておけなかったことなどを話した。

 ヒーローはさらに饒舌になる。

「おばさん、一人暮らしなの?」

「三年前に主人をなくしてから」

「そうなんだ。お子さんは?」

「娘と息子。息子は結婚して孫が二人、娘はまだ結婚していないのよ。もういい歳なのに……。二人とも家を出てるわ」

「そばにいるの?」

「娘はここから一時間くらいのところ」

「そうなんだ。寂しくない?」

「友達もいるし、それに、たま~にだけど、娘が顔を出してくれるわ……」

「最近、一人暮らしのお年寄りを狙った、オレオレ詐欺が多いから、気を付けて――」

「ありがとう。先日も変な電話……」

「…………」


 妄想ヒーローが暴走を始めた。

 フランスパンとリンゴが入った紙袋を抱える買い物帰りの若い女性。自宅に向かう坂道の途中だ。坂の上から自転車がスピードを出して下ってくる。その自転車を避けた拍子に、抱えていた紙袋を落としてしまう。すると、落とした袋からリンゴが飛び出して坂道を転がり落ちる。若い女性の後ろを歩いていた青年が、転がるリンゴを拾い集めその女性に渡すことから恋が始まる……映画のワンシーン。

 相手は娘ではないが、今、私は似たようなシチュエーションにある。歩道に散らばった買物商品を拾い、持ち手部分の切れた買い物袋の代わりに自分の袋に入れ、そして高齢女性の自宅まで運んでいく。

高級そうな六階建マンションの前に着いた。

「では、ここで失礼します……」

 おばあさんとは言え女性の一人暮らし。年寄りを狙った詐欺犯罪が多いこともあり、あらぬ疑いをかけられてはと精練とした態度を示す。

「お茶をご馳走させてください」

 女性は、ここで帰られたら自分の気がすまない、お礼がしたい、ぜひ寄ってほしいと言う。何度かの押し問答の末、根負けしたフリで「一杯だけ。飲んだらすぐにお(いとま)する」ことを条件に部屋までお邪魔することに。オートロックで守られた高級ホテルのようなエントランスを抜け、エレベーターで最上階へ。部屋は南西の角部屋だ。

「一人暮らしで、散らかってますが」

 玄関扉を開け、先に入ってから私を招き入れる。ほんのりコーヒーの香りが鼻孔を通り抜ける。シューズボックスの上では季節の鉢植えが彩を添え、来客を歓迎している。サッと来客用のスリッパを出して揃えるところに上品さが滲み出る。私が運んできた買物袋を奪い取るように持つと奥の部屋に消えた。上がってもよいものかどうか三和土(たたき)で待っていると、奥から「どうぞお上がりになって」との声。今までとは違う湿ったトーンの声にドキッとする。

「失礼します」

 潔白さをアピールするため、高らかに宣言し結界を超える。揃えられた織柄のスリッパに足を入れ、奥の部屋まで進む。廊下の白い壁には、残雪を頂く山並みをバックに杏の花が咲く、四つ切の写真が木製フレームに入れて飾ってある。部屋は十四、五畳あるだろうか。明るく開放的で、高級ホテルのスイートルームを思わせるリビングダイニングだ。南に面した大きなガラス扉の外は広いベランダがある。ガラス扉越しに、朱く染まる街並みと、遠くには紫が匂い始めた山の端が見渡せた。西側の窓には遮光のレースカーテンがかかり、西陽を防いでいる。北側には対面式カウンターを備えたキッチンがあり、並ぶように四人がけのダイニングテーブルがある。天板に自然の形を活かした欅の一枚板を使った贅沢なテーブルだ。 窓側には渋いワインレッドの三人がけソファと、アンティークな猫足の木製楕円型ローテーブルが窓の外を眺めやすいように置かれている。どの調度品もセンスが良く高級そうだ。

「下のエントランスでエアコンのスイッチ入れておいたんだけど、まだ暑いわね。すぐに涼しくなるから」

 スマートフォンによる遠隔操作でエアコンのスイッチを入れることもできるようだ。 

(スマートリモコン機能を使えるなんてお年寄りにしては先進的だ⁉)

「どうぞお座りになって」とキッチンから話しかける。どこに座るか戸惑っていると、視線がソファを誘導する。そこには私のビジネスバッグが既に座っていた。

「失礼します」

 ソファまで進み、座面に偉そうに鎮座(﹅﹅)しているバッグを床に追い払い、ゆっくりと浅く座る。柔らかすぎず固すぎず、丁度良い反発力で腰を包む革張りのソファだ。

「重かったでしょ。ごめんなさいね。冷たいコーヒーでよろしいかしら」

 丸いお盆にカップを載せて持って来る。金箔を貼った蒔絵の朱塗盆だ。どこの塗だろうか、深く透き通った朱が美しい。驚くことにコーヒーカップも漆器だった。外側は熟れたアケビのような深紫色で、内側は光沢ある燻銀色に塗られている、見たことがない器である。ソーサーとスプーンもカップと同色同質のセットになっている。こちらも高級な器だろう。女性はローテーブルにお盆を置くと、背筋を伸ばし、斜めにこちらを向く格好で横に浅く座った。

「昨夜から一晩かけて落とした、水出しコーヒー。お口に合うかしら。お好みでシロップやミルクをどうぞ。私、年甲斐もなくコーヒーが好きなのよ」

 そう言うと軽く手を載せ微笑みながら顔を少しだけ傾けた。優しさに溢れたような掌は、今までの世俗の雑念を吸い取ってくれるようだ。一瞬、ヒーロー魂が揺らいだ。

豆を自分で挽いて淹れると言う。淹れた後の粉は、芳香剤として香炉に入れおくとも話してくれた。玄関で鼻孔を通り抜けたのはこの香りのようだ。

「僕もコーヒー大好きなんです。毎日数杯飲みます。でも、こういう本物の水出しコーヒーは飲んだことが無いです」

 水出しコーヒーと書かれた、紙パック入りのものは飲んだことはある。だが、割高なこともあり、喫茶店でも本格的なものを飲んだことはない。自分では、アイスコーヒー用の粉で落とした熱いコーヒーを、氷をたっぷり入れたグラスに一気に注ぐ定番の作り方で淹れて飲んでいる。

 初秋とはいえ、西陽に抗いながら荷物を運んだ身体には、砂で水が濾過されていくように浸み込んでいく。

「おいしい! 水出しコーヒーって、甘いんですね。香りと喉ごしもまろやかだし」

 地底湖のように光を拒否した漆黒でありながら、不純物を一切含まない透明感あるコーヒー。一口含むと、世界中のコーヒーの香りを全て集め、口の中で優雅に社交ダンスをするように拡がる。そして鼻の中を、追いかけっこするように通り抜けていく。

「コーヒーが喉を通過するときに透明感を感じるなんて初めてです」

「アイスコーヒーは、水出しコーヒーが一番おいしいと思ってるの。甘さは何だか知ってる?」

「????」

「私の気持ちが入ってるから……」

『コーヒールンバ』を鼻歌し始める。

 祖母が口ずさんでいたことを思い出す。緑茶と漬物という田舎文化では、祖母はコーヒーはまず飲んだことが無かったと思う。味や香りなど知る由もない祖母の中では、テレビやラジオから流れて来る歌謡曲の、エキゾチックなメロディや歌詞に、情熱的で素敵な飲み物を妄想していたに違いない。

 本当はもっとゆっくり味わいたいが、帰社時間も気がかりだ。

「ご馳走様でした。のどが渇いていたので助かりました」

 約束の一杯に気を遣ってくれたのだろう、おばあさんは立ち上がり、キッチンへ向かう。(いとま)を申し出るきっかけをアシストするさりげない演出は流石で品がある。

その空気を読み、私もソファから立ち上がると丁重にお礼を述べ、まだ居座りを続けたいビジネスバッグを抱えて玄関に向かう。スリッパを脱いで揃え、革靴に足を滑り込ませようとしたとき、長い柄の靴ベラを手渡してくれた。ワインレッドの深い朱色の漆塗だ。皺だらけで艶が消えくたびれた私の靴にはもったいない逸品だ。

 靴を履き終え靴ベラを返すと、交換するように丁寧に畳まれた私の黒い買い物袋と一緒に「これお持ちになって」と、小ぶりなタンブラーが差し出された。輝きを抑えた渋い気品あるゴールドだ。

 「先ほどのコーヒー。よかったら会社で飲んでくださいな。今夜も残業でしょ、きっと――」と微笑む。それを受け取るのはさすがに「申し訳ない」と固辞するが、ぜひ持って行ってほしいとばかりに、小首をかしげ熱い眼差しで訴える。

「当たり前のことしただけ。でも、せっかくなので――それにおいしさに感動したし」

 と言い添え受け取る。相手の心を無にしないのもヒーローなのだ。

「タンブラー、また返しに来ますね」

「急がないから――その時はもっと美味しいコーヒー淹れるわね」

「そんな……ありがとうございます。次はゆっくりいただいきます」

 握手するようにタンブラーに両手を伸ばす。それを、慈愛に満ちたあたたかなおばあさんの手が優しく包んだ。「えっ」目が合うと、「何も言わないで――」というように軽くうなずいた。手の中にはタンブラーと封筒があった。萩の花が描かれた白い封筒で、薄く麝香の香りが漂ってきた。

「ほんの気持ちだけ――」

 天から降るような声の「あ・り・が・と・う」のささやきが添えられた。

(お礼……)

 受け取るべきか否か――(ひる)む。悩んだ振りをして一呼吸置く。だが答えは既に持っている。私はお礼を遠慮なくもらう。来る者拒まずだ。ヒーローは見返りを求めてはいけないのか? 求めないのがヒーローなのか? 私にとってヒーローとは、ギブ・アンド・テイクだと思う。ボランティアだって無償では成り立たないではないか。ただ、自分から要求することは無い。だって、私はヒーローだ!

 熱い視線を送りながら、ゆっくりと深く顎を引く。

正義感を放ち颯爽と引き上げる仕草で、玄関ドアの把手に手を掛けた。大きな仕事を終えた満足感と達成感を女性と共有するために振り返る。

 明るいリビングを背に立ち微笑むおばあさんは光背を持っているように見えた。

(弁天さまぁ~)

 

「……ここです」

「えっ?」

「着きました、ここが私のマンションです――営業マンさん」

『営業マンさん』の言葉が、ヒーローに決定的なダメージをくらわし、妄想の変身が解けた。

(負けた――)

「ここ……ですか?」

 築五十年は経っているであろう、茶色の外壁タイルに覆われた六階建ての、一般的なマンションだった。ベランダには、洗濯物や布団が干してあり生活感が漂う。

「はい、何か? 荷物、本当に助かりました」

「いえいえ、どういたしまして。お安い御用です――」

「わざわざ遠回りしてもらって……」

 続けて、本来なら家にあがってもらいお茶の一杯でもお出しすべきなのだが、汚くしているからと、これ以上の関りをやんわり拒否する雰囲気を醸し出す。

(えっ、おいしいコーヒー出してくれるんじゃないの?)

「そんなつもり……では……ないです」

「『男やもめに蛆がわき、女やもめに花が咲く』と言うけれど、私の場合は逆なの。それに……」

(それに?)

「女の一人暮らしだし」

 と、あえて付け加えることを忘れなかった。

(空振りヒーローだな⁉)

「ありがとね。それじゃ、お仕事頑張ってね。あまり残業しないよう、無理しないでね」

 買物袋とビジネスバッグをためらいなく引き換え、マンション入口に向かって歩いて行く。心なしか先ほどより、軽く持っているような後ろ姿に見える。

 その時マンションの入口から「あら⁉ 帰ったの~。今、お宅に行ったの――。ちょうどよかった。ドーナツいただいたから夕方のお茶しようと思って。豆腐のドーナツだって」と声がかかった。ババ友らしい。このマンションに住んでいるのだろうか?

「悪かったわね。親切な営業マンさんに買物の荷物持ってきてもらって、助かっちゃった」

「そ~、よかったじゃない。お兄さんありがとね」とババ友も大きく手を振ってきた。

「どうも……です……」

 変身が解けた姿では、どう応えてたらよいかわからない。

 女性は止まって振り返り、友人に合わせて満面笑顔で手を振ってきた。感謝の中にもこれ以上の関係を拒絶する大きな動きだ。

「そうそう、冷えてないけどこれどうぞ」

 女性がポシェットから缶コーヒーを取り出す。

「弁天堂の夏祭りの富くじの四等。引き換えが今日までだったから、さっきスーパーでもらってきたの。  

 私コーヒー飲まないから、孫にでも上げようと思ってたけど、ちょうどよかった、お礼にどうぞ――」

 金色の缶コーヒーを持ち、取りに来いという仕草で腕を突き出して缶を上下に振る。

 常温に熱を持つ、250ミリリットル缶には『水出し』と銘打ってあった。

(これは仏様からの施しなのだろうか……?)

「それから――」

「何か?」

「この買い物袋、駅前のドラッグストアでのポイント交換品でしょ。赤色、私もほしかったけどポイントがちょっと足りなくってもらえなかったの。丁度良いのょ、いただいてもいいかしら?」

(何が丁度良いのか⁉)

「えっ? あっ、はい。どうぞ――」

(この状況では、そう言うしかないでしょ!)

「あ・り・が・と・う」

(これが天声なのだろうか。そして袋はお供物になるのだろうか……)

 ふくよかなシルエットの陰に金赤色の使者たちは隠れ始め、挙身の光背は色と力を失いつつあった。

「私もおいしそうなびわ(﹅﹅)買ったのよ、一緒に食べない?」

 お供えした黒い買い物袋から枇杷のパックを取り出し、ババ友に見せた。

びわ(﹅﹅)を持つ女性……ああ、弁天様⁉)

 西陽は個性あるビルたちに防御され、送りこまれていた金赤色の光の使者も敗散し、秋夜の濃い紫色の匂いが辺りを支配し始めていた。

                                              完



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