誇り高きにゃんこ令嬢は元婚約者に今日もにゃーと鳴く。
獣人と人間が仲良く平和に暮らす国。
獣人のミミは誇り高き公爵令嬢であり、幼馴染である第三皇子ルドルフの婚約者。
しかし、このポンコツ第三皇子は毎度毎度婚約破棄をミミに突きつける男であった。
そんな二人の通う学園の食堂でミミは可憐で肉食系な男爵令嬢を従えたルドルフと対峙する。
今日も事件は起きようとしていた
「ミミ嬢、見てくれ。彼女が僕の探していた運命の人だ!だから、婚約は彼女とする!」
「左様ですか」
「……いやいや、いくらなんでもあっさりしすぎだろう!言うことはないのか」
「このポンコツがが第三皇子ではこの国の未来ってひょっとして暗いんじゃ?ってちょっと感じただけです」
「君さぁ、僕たちが10歳同士だからってさすがにちょっと失礼じゃない?!」
「そうですね。婚約してたった1週間で破棄だのなんだのいうルドルフ殿下はさぞお上品なんでしょうね」
「そういうところだよ、ミミ嬢!君本当に、そういうところがよくない」
子供らしいぷくぷくした手足を振り上げる幼い彼は知らない。
困惑したような獣人の女の子の青空のような目の色を見た時に、私の心にジワジワと引っ掻き傷のように細かいヒビが入ったことを。
意地を張って、ツンツンとした返事しかできなかったせいで、これからずっと辛い思いをし続けることを幼い私も知らなかった。
獣人と人間が暮らす国。
獣人達は、獣耳と尻尾が生えていたり、五感が鋭敏だったり、昼と夜でテンションに明らかな差があったりと、元の動物の特徴を受け継ぐ体ながらも、人間達と概ね仲良く平和に暮らしていた。
その学園で、今日も事件は起きようとしていた。
「ミミ、君との婚約は破棄させてくれ」
「……いいよ。分かった。さようなら、ルディ」
「は…?」
ルドルフ第三皇子の一言はこの食堂に不幸にも居合わせた全員の心の中の叫びと同じだった。
それは玲瓏たる美貌を持つ、この国屈指の才媛であり、借りてきた猫の如く大人しく礼儀正しく、なおかつ名門公爵家の娘であるミミから発せられたとは到底考えられない台詞と口調だったからだ。
ちなみに、ルドルフ殿下の婚約破棄騒動自体は初めてではない。
彼がミミと婚約して以来、大体年3回程発生する。
通算20回目を越えており、既に季節毎の行事の一種と化していると言っても過言ではなかった。
いつもなら彼女は「承知いたしました」、若しくは「左様ですか」と答えて寂しげに微笑み、その後お上品な嫌みで反撃するのだが……?
ミミが黄色い瞳でアイコンタクトをすると彼女の忠実な従者が外へと消える。
伝統的な学園の由緒ある食堂で、全生徒達の視線は美貌の令嬢と、婚約者の皇子、皇子の傍らの女に集中していた。
成績はオールS、試験をすれば満点以外取らない、マナーも完璧な彼女が一体…?
ミミはそんな周囲のざわめきのことなどお構いなしに大きくあくびをしていた。
令嬢の見本たると名高いミミにあるまじき行動である。
「い、いつもみたいに理由を聞かないのか?!」
「別に?どうせまた、隣の女の子が理由とかでしょ?ルディもさ、バカじゃないんだから幾ら許可されてるとはいえこんなに大勢の場所で話さなくてもいいのにねぇ」
隣の女の子と言われ、ルドルフの隣にいたナラ男爵令嬢がわざとらしく肩を震わせる。
琥珀色の髪の毛がサラリと揺れ、黄緑に近い薄い青の瞳は不安で今にも儚げで消えてしまいそうだ。
彼女の腰にルドルフは手を回した。
はいはい、肉食女子が可愛い子ぶってお疲れ様です、とミミは呆れた。
こんなことならさっさと帰って昼寝でもすればよかった。ふかふかのソファーで寝たかった。
「そ、それもあるが…」
「どうせ、『真実の愛』でしょ?はいはい。ごめんね、私が婚約者でごめん」
全く同じ流れだからテンプレートでも作成すれば良いのにね、と続ける。
「……君は僕が他の女性といても気にしないんだな」
「だってルディにとっては私との婚約は嫌なものなんでしょ?はいはい。分かっているわ」
「嫌…というかだな……」
口をモゴモゴ動かすルドルフを無視してミミはすっかり温くなった紅茶を啜る。
ルドルフは優秀で美しく賢い第三皇子殿下と有名である。
聡明で公明正大。
獣人・人間と差別することなく広く意見を聞き、素晴らしい施策を提案する。国の運営に必要不可欠な皇子。
ただ一つ、彼の病気を除いて評判は素晴らしい。
その病気とは、『幼い頃に一目惚れした令嬢を探し求め続けている』ことだ。
そして、毎回決まって婚約者であるミミの前で婚約破棄だと騒ぎだす。
婚約者であるミミにコテンパンに言い負かされ、数日後には、しおらしい顔をして『あの娘じゃなかった…』と言って彼女と再婚約を結ぶという流れまでがお約束であった。
初恋の令嬢へのルドルフの執着は凄まじく、仕事の放棄は当たり前である。
もちろんその分の埋め合わせはしているが、彼に能力が無ければとっくに皇籍剥奪のレベルであった。天賦の才に彼は感謝すべきである。
彼が連れてくるのは決まって『青い目の獣人の女の子』。
今回連れてきたナラのようにほとんど緑色のような子もいれば、深い瑠璃色の子もいたし、灰色や黒に近い青の子もいた。
差別をよしとしない彼らしい手広さと評判であった。もちろん誰も褒める意味では使っていない。
ルドルフがこの病気を発症したのがミミと婚約した十一歳で、十八歳の現在まで治癒していないから筋金入りといえよう。
どうしようもない悪癖だが、ルドルフはそれ以外は忠誠心に厚く能力の高い完璧な皇子であるから目溢しされている状態だ。
二、三回目の婚約破棄の頃は学園の同級生も、親の貴族達も、新聞で顛末を知った市民の皆さんも『どうなることか』とハラハラしていた。
しかし、婚約破棄が前人未踏の二桁の大台に乗った辺りで『一周回って逆に大丈夫な気がしてきた』らしく、静観していた。
それが今回、注目を集めたのはミミが普段の様子と違っていたからだ。
新聞部の生徒なんかは特ダネの臭いに、メモを取り出し、一言も聞き漏らすまいと、血走った目でペンを握りしめている。
「ミミ様、婚約でルディ様を縛りつけないでください!どうか、私たちを認めてください!」
「ナラ……」
ルドルフの横に立つナラは祈るように手を組み、訴えかけた。
「迫真の上目遣いだけど、ごめんね。それ、私には効かないんだよね」
「ひどい!普通に見上げているだけです、意地悪言わないでください!!傷つきます……」
ナラの言葉にそれは嘘だろとミミと周囲の生徒は思った。皇子殿下に粉をかける女がそんな柔であるものか。
ルドルフだけがナラを心配そうに見つめていた。
ちなみに、ルドルフは先週催された自身の成人祝いのパーティーでもミミをエスコートした後、そそくさとナラの側に寄っていた。
婚約者である自分を放置して、自分のポケットマネーで贈ったであろう宝石を身に付けた男爵令嬢を熱心に褒めていたので、あの子が最後の婚約破棄の原因かとミミはぼんやり予想していた。
ミミの従者はあんな不実で見る目がないルドルフなんて皇籍剥奪されればいいと憤慨していたが、彼は有能な皇子なので国庫から着服などは絶対にしない。
この一線を守る感覚が彼が有能な皇子と評される理由である。
ナラはルドルフの胸元にすり寄り、ミミを見た。
ミミの眉間がピクリと動く。
「公爵家が望んだ婚約で、ルディは苦しんでます…その事を申し訳ないとは思わないんですか!」
涙をためながら上目遣いをするナラ。
「随分と、ナラさんは獣人としても、貴族としても肝が据わっているんだね」
「ひぃっ」
ミミが答える間もなく、視界の端で何人かの生徒が倒れるのが見えた。
公爵令嬢に対するナラの余りの不敬さに繊細な生徒の体調が悪くなったのだろう。
ミミの名誉の為に言うと、婚約破棄され、無礼なことを言われまくっているのに、冷静に対応しているミミはかなり寛大である。
「きっとこの茶番が終わる頃には保健室は胃痛と失神者で人で埋まるだろうね、申し訳ないなぁ」
ミミは保健委員に対して申し訳なく思う。
「その頃には無理やり婚約を結んだ、ミミ様じゃなくてきっとルディの愛する人が婚約者になってますね」
すかさずミミにダメージを与えようと発言するナラ。
彼女の発言でまた、何人かの顔面がまた真っ白になった。
ほら、言わんこっちゃないと、ミミはため息を吐いた。
「まあ、婚約は破棄されるだろうけど。一応弁解するとね、ナラさん。確かに私が皇家にお願いした婚約だけど、私はルディに対しても、女の子に対しても、一回もダメだとか、浮気だとかが、言っていないよ。今回もどうぞって送り出しているじゃない?毎回その皇子が勝手に帰ってきていただけで…」
周囲はミミの言葉に頷いている。
「そうよ!私、ミミ様に泣きながらすがりつく殿下をたくさん見てきたわ」
「ミミ様を泣いて引き留めるくらいならしなきゃいいのにね」
ミミは謝罪の後、舌の根も渇かぬうちに婚約破棄を宣言をし続ける不誠実な婚約者にいつだって文句の一つも言わない。度量の広いミミに周囲は同情的だ。
ナラは黙り込んだ。さすがに男爵令嬢のナラもルドルフの悪癖は知っていたようである。
そのルドルフの諸行を知った上でモーションをかけて皇子の隣に立って、公爵令嬢と対峙しているんだから相当強かと言えよう。イイ性格をしている。
さすが肉食令嬢、私には真似できないとミミは感心してしまった。
甘い汁を絞るだけ絞ってとんずらするのかな、それとも男爵家に高貴な血が欲しいのかな。
どちらにせよ、野性的で逞しくて凄いなぁとすっかり他人事気分のミミは思った。
「は、話を戻すが、ナラに再び逢えたのもある。だが、一番の原因は君だ、ミミ!」
「はぁ…話すのはいいですけど、名前の呼び捨てはもうやめてくださいね。あ、私も呼び方変えなきゃ。えーと…ルディではなくて…ルドルフ殿下?こう呼ぶのは久しぶりですね」
「……っ、別に僕らが幼馴染なのは変わらないだろう?呼び方をわざわざ変えるなんて嫌みなのかい?」
ルドルフは何故か困惑したような声をだした。
今までの婚約破棄では名前の呼び方を変えるように言われたことは無かったからだ。
「だって、もう私たち、他人になりますし。私は領地で臣下として実家を継ぐので適切な距離は必要でしょう?」
「た、他人……臣下って……」
「うちの国、実子でかつ長子が優先して相続するでしょ?私、前公爵直系の一人娘だし。養子に来てもらっている義弟達には申し訳ないけどね」
生徒達は新しい展開に興味津々である。
新聞部の面々はもう特ダネ間違いなしの状況に小躍りしていた。
当のミミはクッキーを食べながら、温いを越して常温になった紅茶を飲んでいた。常日頃の優雅さの欠片もないイッキ飲みだった。
ルドルフはプルプル震えながらと下を向いていた顔をかっとあげる。
「というか、なんだよさっきからその言動は!いつも皆の前では優雅に振る舞っていたのに!二人だけの時にしかそんな喋り方しなかったろう?!何を考えている?!何を企んでいる?教えないつもりか?!」
皇子は堰を切ったようにミミに捲し立てた。
婚約破棄を皇子が一方的に宣言したのに痴話喧嘩みたいな内容で怒っている…と、同級生達は内心呆れた。
そして、ミミ様も皇子殿下とは予想よりも気さくな関係でいたらしい、仲が悪くないなら何故婚約破棄ばかりするんだ、うちのダメ皇子は、と絶望的な気分でもあった。
人間である皇子はテレパシーも野生の勘もないので、当然その事には気がつかない。
「というか、公爵家を継ぐなんて初耳だぞ、どうして君はいつも秘密ばかり……君は僕と婚約してからも何の獣人か種族も教えないしな!もう7年も経つのに!信用してくれない婚約者なんて酷いと思わないのか!」
皇子は叫ぶ。
それに、生徒の何人かは気まずそうな顔をして顔を背けた。
それ以外の生徒は『婚約破棄って酷いことじゃないんだっけ?』とルドルフの己の行動を棚にあげた言動に首をかしげた。
「公の場所で耳と尻尾をだして見せろと?」
ミミがため息をつく。
耳と尻尾は獣人がリラックスすると出る器官だ。
市中には出しっぱなしで生活している人もいるが、基本的には隠す住人が殆どである。
特に常に気を張ることが求められる貴族の世界では、耳と尻尾を出すのはマナー違反とされている。
まぁ、貴族といえど、素晴らしい手付きで撫でられたり、寝ていたり、恋人や、親しい友人とスキンシップをとる時などにはついつい出てしまうものではあるが。
「違う!ここで耳を出せということを要求しているんじゃなくて、婚約者たる僕に君自身のことを教えなかったのはおかしいと言っているんだ!信用ならなかったのか?!僕のことが好きじゃなかったからか?君たち獣人と違って、僕ら人間は匂いじゃ区別できないのに」
ちなみに、先ほど顔を背けた生徒は全員獣人である。
大半の生徒は、『婚約破棄しまくりの皇子が相手に「信用」するように求めるなよ』、と内心突っ込んでいた。
ミミは涼しい顔をしていたが。
ヒートアップする皇子の言動はだんだん痴話喧嘩染みてきている。傍らのナラは所在なさげだ。
「ふーん、そんなに知りたいなら周囲の人に聞けば良かったんじゃない?」
「君が僕を信用して話してくれないのが問題だって言っているんだ!!話を反らすな!それに他人の種族をおいそれと話すのはマナー違反じゃないか!!」
そう、貴族では他人の種族に関することを無闇に語るのも同様にマナー違反である。
獣人間では差別に繋がらないよう種族の話題は可能な限り避けるべきという風潮があり、無闇に口外すべきじゃないとされているのだ。
この国の大多数である人間にとって、綺麗とか可愛いとか強いとされている動物の獣人ばかりが力を持ち、悪いイメージの動物の獣人が差別されないようにというもので、例えば、ドブネズミの獣人と、ライオンの獣人だと人間にとってのイメージは違うだろう。
前者が聖人君子であり、後者が極悪非道の犯罪者でも、人間達は後者を何故か崇拝しがちで、前者を理不尽に扱いがちだからだ。公平ではない。
だから獣人同士は相手の種族が匂いですぐに分かるが、その話題は意識的に避けるため、会話に出すことはないのである。
全員その事は知っているけどわざわざ話さないよね、みたいな一種の暗黙の了解なのだ。
「ルドルフ殿下が誰かに恥を偲んで聞くなり、もしくは、自分で気がつくなり、すればよかったんだよ。ま、もう遅いけどね」
「……何を?」
もちろん、こう言った話は決して話したら法律で罰せられる話題などではない。
仲の良い友人同士でひっそり話す分には何のお咎めもないのだ。
そんなに私のことが知りたかったなら意地を張らずに誰かに聞けば良かったのに、と、ミミは溜め息をついた。
もっとも、彼は過去七年ほど『青い目の獣人の女の子達』にアプローチしては勝手に離れ、ミミという元の鞘に戻るという行動を繰り返しているので、獣人からはちょっぴり評判が悪い。
彼を手助けしてくれる親切な獣人の友人がいるのか定かではないが。
獣人の間ではルドルフの所業はこっそり『真実の愛』詐欺と呼ばれているのだ。家族に獣人の娘・妹がいるものが、決して彼の発言を本気にしてはいけないと少女に言い聞かせるのは常識だ。
「まぁ、もう手遅れだからぶっちゃけると、私が自分の種族を秘密にするのは、皇帝陛下との約束だったんだよね」
「約束…?」
「皇帝陛下は私を女公爵にしたがっていたから。当主になってたくさん旦那娶って子供を生んで、種族の繁栄にも、領地の発展にも貢献して欲しいって。セクハラじゃない?まあ、うちの種族、野生だと平均寿命が1/3位になるほどサバイバル能力低いのは事実だけど。たくさん狩られてほとんどいないし」
「……希少種なのか?」
「そう、獣人としてはね。だから、約束させられていたの、1、私が種族を教える。2、ルドルフが成人した以降に婚約破棄を望む。この条件の何れかを満たしたら婚約は本当に破棄。私は公爵家を継いでルドルフ殿下とは縁を切るって」
「……」
「ルドルフ殿下、一週間前のパーティーは楽しかったですね?」
ルドルフがピシリと固まった。何を今更、自分で望んだことだろうとミミは思う。
繰り返すようだが、皇子の成人祝いのパーティーは先週だった。
今回は成人後初めての婚約破棄だったのである。
新聞部の部長が部員に、記事を作るよう命じている。きっと一面は公爵家を継ぐ私のことか、それとも泥沼三角関係か、愚かな皇子を扱き下ろすのか。
おそらく、民衆に出回るゴシップしも、新聞もネタにするだろう。
帰ったら婿探しか。憂鬱だ。
貴族の当主は男でも女でも配偶者を複数持つことが可能である。養える甲斐性があれば。
公爵家のミミは沢山の候補者と面会せねばまらないだろう。物臭なミミは憂鬱であった。
「な、何を今さら婚約の話なんか蒸し返して!さっき私が破棄しただろう?!まさか、今さら惜しくなったのか?」
ざわめきの中でなんとか、衝撃から復帰したルドルフが吃りながら話し出す。
「別に?」
「ナラと私が出会う前に話していれば、私がどうとでもしてやったのに、残念だな!婚約破棄が嫌なら包み隠さず、全て話せば良かったのにな」
「うーん、嫌というか。ま。寂しくはあるけれど仕方ないかって」
「何…?」
「だって、人の手垢が着いたものって要らないじゃない?」
続けて、ミミはテーブルに手をついてのびをした。ルドルフは二の句を継げないのか口をパカパカとしばらく動かしていた。
「手垢って…悔し紛れに何を……」
「そうかもね、悔しいなぁ」
「ふん!今さらだよ、今さらだ!」
さっきから動揺して『今さら』を連呼している皇子は自分が手を握りしめていることに気がつかない。
「わ、私は再会した黒猫のナラちゃんとこれから仲良くやる。それでも、婚約者じゃなくても、君のことは…て……なっ?!」
皇子は言葉を失った。
皇子の発言で、恐らく獣人であろう生徒がかなりの人数立ったまま気絶したのだ。
一瞬の静寂のあと、現場は騒然とした。
新聞部の部長も獣人として漏れなく気絶していた。情報に対して敏感な鼻を持つ、筋肉質な厳つい彼。
人間の間では狼やハイエナの獣人と噂されるが、実は小型犬であるパピヨンの獣人で、些か繊細な性格をしてる。
いいところなのに見逃して可哀想だなぁとミミは思った。
「な、なんだ?!」
「おい、どうした?!」
「ちょっと、大丈夫?!」
人間の生徒はもちろんパニック状態である。
唐突に友人が意識を失ったのだ、驚愕だろう。トラウマにならないと良いけれど、と、ミミは同情した。
混乱の中でこっそり抜け出そうとしていたナラを、衝撃の最中で辛うじて動けた男子生徒が捕まえてルドルフの前につれていく。
「おい?!みんなどうしたんだ?!それで、ナラに何をする!手を離せ、君!」
人間であるルドルフはパニックだろう。
「恐れながら殿下…」
生徒の中の一人が進み出る。彼の、青い目をした可愛い妹はルドルフの『真実の愛』詐欺に引っ掛かった1人のはずだが、憎い皇子に忠告をしようとする辺り人が好いのだろう。
婿候補にいいかもとミミはチェックした。彼はホワイトタイガーの獣人で侯爵家の次男だったはずだ。
「皇子殿下は、ナラさんから直接黒猫であると、聞いたのですか?」
「そうだが?」
食堂内の獣人達のざわめきがおおきくなる。
なるほど、ナラは馬鹿ではなく、王子妃になりたくてとても大胆な作戦に出たのだとミミは感心する。
まさか、自分がこっそり伝えた種族名を動揺のあまり皇子が公衆の面前で高らかに宣言するとは予想しなかったのだろう。
恋は盲目とはよくいう。
実際にミミとルドルフは婚約破棄しているのでまあ、彼女の作戦の一部は成功かもしれない。
人の好い獣人のお兄さんは大きくため息をついた。
「…殿下は騙されておいでです」
「何?」
意識のある生徒全員の視線が再びこちらを向く。人間側は興味津々。獣人側は頭を抱えている対比が面白い。
「…我々は、匂いで種族が分かります。マナー違反も重々承知、お耳を汚すようで申し訳ありませんが彼女は猫の獣人ではありません」
正気を取り戻した獣人達が揃って首を縦にふる。
「何だと?!」
ルドルフは声を荒げた。
人間達がざわめく中で、ミミはさっきから『何?』『何だと?!』と聞き返すばかりでルドルフの語彙のレパートリーって少ないなと感じた。
もちろん、慌てるのはナラである。
「な、何を言ってんの?!みんなで私をいじめようってわけ?!」
「そうだ、確かに彼女は恥を忍んで尻尾を見せてくれた!」
「ほう…?それはどういったものでした?」
「黒くてもふもふで、長い尻尾だ……間違いなく黒猫だろう」
獣人達からのナラへの視線は冷ややかだ。
「殿下、…いつ、どこで確認されました?」
「室内で、二人きりの時に…」
「……なるほど。ナラ。こちらに来なさい」
男は窓際により、手招きをする。
「命令しないで!私は-」
「疚しいことがないなら、行った方がんじゃないの?」
「そうよ、正しいって主張するなら証明すればいいじゃない」
ナラの声を遮ったのは恐らく人間の女の子達だろう。好奇心が滲んでいた。
ナラは悔しげに顔を歪めて窓の前に立つ。彼女の黄緑に近い薄い青目は陽光の中だとエメラルドのようだった。
素直に羨ましいな、とミミは思う。
「尻尾を出してくれるかな?耳でもいいよ」
「な、何を言ってるのよ!嫌よ!最低限のマナーも知らないのね、恥知らず!!ルディ、こいつを止めてよ」
聴衆の中から獣人の女の子が出て、ナラを責める。
「恥知らずはどっちよ!嘘つき!」
「本当だっていうならさっさとやりなさいよ、あんたの発言が嘘じゃないなら修道院に入ってやってもいいわ!」
彼女達は『真実の愛』詐偽の三番目と七番目くらいの被害者達だったはずだ。
責任の一端を感じたミミが新しい婚約者を選ぶ世話や、慰謝料代わりの贈り物を選んでやってから妙に懐かれた子達だった。
二人は目に涙を溜めて叫んでいる。
あまりの怒涛の流れにルドルフは反応ができない。
怒りと涙と困惑、不信の坩堝と化した現場で目を輝かせて状況を楽しんでいるのは新聞部の人間の生徒だけであった。恐るべきバイタリティーと記者魂である。
「くっ……」
悔しげに睨み付けながらナラは尻尾を出した。
黒くてもふもふのしっぽがゆらりと揺れている。
皇子は安心したように息を吐いた。
「ほら、黒猫じゃないか、まったく…」
「---殿下、日にあたっているところをご覧ください」
彼は言葉に従い、じっくりと見つめる。
「な…?!これは…?!」
彼女の陽光にあたった尻尾には硝子の彫り物のように、黒い毛よりも微かに濃いレオパードパターンが浮かび上がっているのだ。
「焦げ茶の模様…?!」
「そうです。彼女は猫ではありません。まあ猫の仲間ではありますが、殿下がお探しであるイエネコではありません」
「猫の仲間で、模様があるっていったら…」
「そうです。彼女はヒョウ」
ナラの肩が震える。
「その中でも劣性遺伝の突然変異であるクロヒョウでございます。まあ、本来黒い色素を持つ猫科の動物の大半は黄色い目ですので、青い色素が残っている、彼女の目は大変珍しいですが…」
そう、ナラは文字通り女豹であった。2つの意味で『肉食令嬢がやっと文字通り尻尾をだした』とミミは思った。
もちろん、2つの意味とは肉を食べるヒョウの獣人であるに肉食と、恋愛に積極的な肉食。
物理的に尻尾をだしている現在の状態と、悪事の証拠が露見する慣用句の2つである。
「そんな、嘘だ!ナラ、耳を出してくれ!無実だって証明してくれ、な?」
「嫌よ、殿下!耳を出すなんて、はしたないじゃない!私のこと信じてくれないの?!ミミさんのことを『婚約者を信じない女』ってさっきから責めていたくせに、殿下は私を信じないの?!」
「それとこれとはどう考えても話が別だろう!」
「とにかく嫌ったら嫌!」
「見せられない理由でもあるのか?!ないだろう?!」
「そ、それは……」
ヒートアップする二人を尻目にミミは再びあくびをした。長くなるなら寝ても構わないだろうか。どうせ、断罪パートが続くのだ。私はお呼びじゃないだろう。
溶け出したバターのような黄色い目ををゆっくりと閉ざして突っ伏して寝始めたミミに何人かの生徒がぎょっとする。
ルドルフはそんな、ミミの様子も知らずにナラにさらに問い詰めていた。
「ナラ!あの幼い日の思い出の話は嘘だったのかい!君の母上が皇太后様付きの後宮の侍女で、僕と会っていたって…」
「お母さんの話は嘘じゃないないわよ!」
「僕と昔会ったっていうのは?」
「それは…その…昔のことだからはっきりとは思い出せないけど」
「じゃあ、耳を見せてくれないか、あの娘が君ならば猫耳だろう?あの子は黒猫だったんだ」
「それは…」
ルドルフが震える手を押えていた。
「……騙したのか。また、城の中庭で、「また会えた」って僕に微笑んでくれたのは嘘だったんだな?」
「……」
ナラは唇を噛み締める。犬歯が唇ににじんで赤いものがじわりと滲んだ。
「なんとか言ってくれ」
その声は一国の皇子であることが疑わしいほど弱々しかった。
「……だってルディのことが好きなんだもの!仕方ないでしょ!」
ナラは当初の大人しそうな様子はどこへやら、必死の形相でルドルフに詰め寄った。
「きっかけは嘘でも、お互いに好きなのは本当でしょう?ねぇ、ルディ!別れるなんて言わないよね?!」
「……」
「好きだって!会いたかったって、たくさん言ってくれたもんね?!私もルディのこと大好き!」
「……」
「だから…ねぇ!!」
ナラは必死に語りかける。その様はナラが可愛らしいだけに哀れだ。
人間の生徒達は気まずげにため息をついた。もちろんナラも悪い。ルドルフ殿下が騙したのは許されないことだが、あのルドルフ殿下である。ここまで必死にすがる美少女の姿は健気で、ナラに同情する気持ちが微かに湧いてしまう。
一方、獣人の生徒達は彼女を冷ややかに眺めていた。
「……残念だけれど、ミミと婚約を破棄して君と結ばれようと思ったのは、ミミと婚約する以前に僕が青い目の黒猫の少女と結婚を誓っていたからだ。だから、約束を果たそうとしたし、会えなかった年月を取り戻そうと君に尽くした。けれど…前提が違うなら、その先も、もちろんない。」
皇子は苦しそうに顔を歪めて言いきった。
「そんな…!」
窓際にナラを連れていった獣人の男がナラの肩を叩く。
「そもそも『種族を偽って人間に近づいた獣人』が皇子妃になったところで、我々が貴方の真実を見抜きますし、貴方を認めません。国民も騙されたと激怒するでしょう。国民の信がなければ皇族一員になる資格はありませんよ。誠実にあらねば」
「そうよ、己の欲のために種族を偽るなんてプライドがない真似をしないで頂戴!」
「経歴詐称や学歴詐称よりひどいわ」
「自分の生まれに誇りを持ちなさいよ!」
口々に獣人達から浴びせられる批難にナラは肩を落とした。
責められるばかりで可哀想になったのか人間の生徒が仲裁しだす。
「まぁまぁ。彼女と殿下が婚約するより前に分かったんだから良かったんじゃない?」
「そうだよ、被害は最小限」
「これでいつもと同じ元の鞘に…ってミミ様は皇子妃にはならないんだっけ……?」
ルドルフはハッとしたように顔をあげた。
「ミミとはもう婚約できない……?」
「で、殿下。ですが、どうせ殿下は一目惚れした少女と結婚なさるんでしょう?これを機に、ミミ様をいい加減手放されては……?」
そう発言したのは人間のどこぞの伯爵家の3男坊である。あわよくば公爵家の婿入りを狙っているのだろう。
この国では貴族の当主は一夫多妻が認められるのと同じように一妻多夫も認められる。
彼女が当主になれば貴族の次男以下の優良嫁ぎ先が増えるのである。
彼の発言に再び獣人達が難しい顔をし始めた。胃を押さえて食堂を退出しはじめた者もいる。
そんな重くなり始めた空気の中で肩を落として俯いていたナラが一人、高らかに笑いだした。
「……はっ…あはは!おかしいの、ルディ。どうせもう手に入らないんだから私で妥協すればいいのに!!」
「どういうことだ?」
「もしくはもっと前に婚約者で妥協すれば良かったのにね!」
「何…?」
壊れた機械のようにケタケタ笑うナラに獣人達は頭を抱えた。
ネタばらしの時間だ。これからの騒動が憂鬱である。
これまで人間達は何度も婚約破棄する第三皇子に頭を抱えた。
これまで獣人達は毎度毎度それとなく伝えても気がつかない鈍感な皇子に頭を抱えた。
人間が楽観視していたのは、何度醜聞があっても第三皇子には地位が揺るがぬ実力があったから。
獣人が楽観視していたのは、一目惚れの少女を探す皇子が最終的には婚約者の側に戻ってきたから
人間がこの騒動でパニックになったのは、獣人達が普段の婚約破棄騒動の時とは異なり、考えられないほど慌てふためいたから。
では、獣人達がこの騒動でパニックになった理由は…?
「何故こんなに皆、苦い顔をしているのだ?」
目を細め、舌でぽってりとした赤い唇を舐めるナラはまさしく肉食の獣のようだった。
「ルディ、獣人達はね、こう思っていたの『また、婚約破棄か。それでも殿下が真実の愛に拘るならきっとミミ嬢と鞘を戻すだろう』もしくは、『殿下はついに昔のことを忘れてヒョウの娘と新しい恋を始めたのか』って」
「『真実の愛に拘るならきっとミミ嬢と鞘を戻す』…?」
「それなのにルディは、『真実の愛に執着したまま、ミミ嬢とは鞘を戻せない』状態になったでしょう?可哀想に。これからの混乱を想像して嫌だなぁって皆思ったのよ」
「……君はまるで、ミミが俺の初恋の人だというようだな」
「そうよ、その通り。ほら。見て、殿下。可愛いわよね。イエネコって、私、初めて見たわ。改良種って珍しいもの」
「なっ……」
ナラの指を指す先に視線を送ったルドルフの涼やかな目がこれでもかと見開かれる。
すっかりリラックスして夢の世界に旅立ったミミには黒い尻尾と黒い猫耳が生えていたのだ。
「ミミ…?!でも彼女の目は黄色で……青くは……」
「幼い頃に会ったんでしょう?」
「そう…だが………」
ナラはなげやりに続ける。
「ルディ、子猫の目は全員、青よ。大半の猫はね、生後3ヶ月、だいたい人間換算すると10歳をすぎると色素によって目の色が変わるの。黒い毛の猫は色素が多いから特に色が変わるわ。ヘーゼル、カッパー、それから黄色ね。私みたいに青の色素が残る子はほとんどいないわ」
「っ……!!」
「それとなく、お人好しな獣人達が初恋の人の正体を教えていたのに結局気がつかないアホな皇子様だから、きっといつか初恋なんて忘れて私のことを好きになってくれると思っていたのにな。あーあ…馬鹿みたい」
やけっぱちに呟く彼女を憐れみの目で、ミミの従者が見つめる。
どうやら彼は用事を終えて帰ってきたようだ。彼の背後には騎士服を纏った男達が並んでいる。
「ナラさん、皇子を欺いた件で騎士が貴方とお話したいそうです」
「はぁ…分かった。これで私の一生に一度の恋はおしまいね」
袖で目元をめちゃくちゃに拭うナラは、皇子の側で演じていた可憐さは無い。それでも、たくましくて、強そうで今までとはまた別の魅力があった。
従者は同情の滲んだ声で続ける。
「……学園にはまたきっと戻れますよ?別にアホな皇子一人引っ掛けただけですので大したお咎めはないかと…。あなた、ガッツがありますし、皇子妃を目指して再チャレンジしてみては?」
「嫌よ、居辛いもの。フラれたし、みじめだし」
「左様ですか」
「それにルディって初恋を引き吊りすぎだし。初恋ゾンビよ。私には無理」
初恋ゾンビという例えは言いえて妙である。
「……ルドルフ皇子被害者の会というものがあるんですけど、入会に興味はありませんか?」
「なにそれ面白そう。でも、私引っ掛けた側だからやめとくわ。好きだったけど」
「左様ですか」
「学校はここだけじゃないし、とっとと転校して新しい恋を探すわ」
潔く言いきってナラは手を振った。一国の皇子を騙した、強かな彼女のことだ、行く宛はあるのだろう。
まるで花道であるかのように優雅に歩いて出口へと向かっていく。
取材でもしたいのか、メモを持った何人かが彼女の後を追って退出した。
残された皇子はふらふらと眠る猫耳令嬢の元へ向かう。
「……ミミ?」
伸ばした手は彼女の忠実なる従者に払い除けられた。
「な……?!」
「失礼。ご命令ですので」
そういうと彼は微睡む公爵令嬢を揺り起こした。ミミは猫耳をピクッとさせてから顔をあげる。
彼女をすがるような目で見つめるルドルフが視界に入っているはずだが、気にならないらしい。
「お嬢様、お迎えの馬車をご用意しましたよ」
「んー…遅かったね。じゃ、帰ろうか」
皺になったスカートを直し、彼女が立ち上がる。かぎ尻尾がすっと引っ込み、漆黒のふさふさとした耳が消えた。
黄色の目をすっと閉じて再び開けば、猫の代名詞のような細く印象的な瞳孔が人間のものになる。
「ミミ……!」
ルドルフ皇子の伸ばした手の甲に赤い三本線が走った。猫の爪である。
「もう、私たちは婚約者じゃないんだよ。ルドルフ殿下。あなたが破棄したの」
「……っ!」
ミミは唇を噛み締める男の顔を眺める。
朝焼けになる直前、暁の空の渕のオレンジが滲む紫紺の瞳が、笑う度に揺れるのがミミは好きだった。
「たしかに、あなたに私はね。教えることが出来たかもね。『あの日、出会ったのは私。だけど貴方のお父様に教えてはいけないと言われているからお互いに知らない振りを結婚するまで続けましょう?』もしくは、昼寝でもして『わ?!見られてしまったの?!そうなの、実は私、黒猫の獣人よ…』なんてお芝居でもしてさ。事故でバレちゃうのは仕方ないもの」
「……」
「でも、そうはしなかった。何故だか分かる?」
「……」
ルドルフはその問いの答えを持っていなかった。ミミはフッと自嘲した笑みを浮かべる。
「貴方は私を探していたはずだった、でもすぐ側にいた私に気がつかないで『青い目の獣人の女の子』を探して、執着していた。私と再会して、婚約したその日に『真実の愛』の為に別の女の子を連れてきた。何人も知らない女の子を」
「それはっ……!」
ミミはパッと前に手を出す。驚くルドルフに、シーッと唇に指を当てて微笑んでその言葉を遮った。
「私は隣にいたのにね…でも、口では気にしていない振りをしたの。プライドがあるの、『本当は青い目の獣人の女の子は、私よ、だから捨てないで』なんて言えないの。だって私、猫だもん。だけど一回目はこっそり裏で皇帝陛下に泣きついたわ、皇子が婚約破棄って言っても認めないでくれって」
「……」
「さっさと諦めれば良かったのにね。きっと。我が儘公爵令嬢の私は皇家に圧力をかけまくったわ。そして陛下は私に甘いから条件をつけて、私の要求を飲んでくれた。さっき教えたやつ。結局、貴方はその子達が別人だと気がついて、いつも何故か私に帰ってきた。『青い目』に執着した貴女が、黄色い目をした私の所に何回も」
「待ってくれ、違うんだ……!」
近づこうとした皇子を騎士が押さえた。ミミを守るように彼女の従者が前に立つ。ミミは従者の後ろでたんたんと続けた。
「だから、きっといつかは初恋の人が私だと気がついてくれる、もしくは、『あの日の青い目の初恋の人』じゃなくて私自身を見て好きになってくれる。せめて、結婚までは平穏に過ごせれば私の正体を教えられる、それで私は鈍感な貴方にちょっと拗ねて、貴方がたくさん謝ったら許して上げて、いつかは仲の良い夫婦に…って勘違いしてしまったの」
「……。」
「勘違いだったわ。たくさん勘違いして、私の時間もあなたの時間も無駄にした。ごめんね」
そう言いきって、従者が渡したハンカチで目元を無理やり拭ったミミの笑顔は儚げで、食堂にいた全ての人の胸を打った。
獣人も人間も男も女も、跪いて許しをこうた後、何でも買って甘やかしたくなるような衝動に駆られた。
それは愛玩動物であるイエネコ特有の魅力であった。
もちろんルドルフも例外ではない。そして、やっと彼は自覚したのだ。
何回婚約破棄してもミミの元に帰りたくなる身勝手な気持ちの正体を。
「私の我が儘に皆さん付き合わせてごめんなさい。既に卒業要件を満たしている私はもう学園には来ません。公爵家に戻って大人しく爵位を継ぐ準備をするわ。ルドルフ殿下、お互いに結婚して落ち着いたらまたパーティーや、職場でお会いするかもしれないね」
けれど、ルドルフが全てを悟ったのは遅すぎたのである。
「愛していました、さようなら。どうかお幸せに」
「待ってくれ、ミミ!僕は…」
「……私は、もう充分待ったわ。じゃあ、未婚で素敵な男性の皆さんは、公爵家に釣書を送るように前向きに検討しておいてね」
「お嬢様、帰りましょう」
騎士に両側から拘束されたルドルフを残し、従者にエスコートされてミミは馬車に乗り込んだ。
物憂げなミミと対照的に御者に指示をしながら乗り込む彼女の麗しい従者はご機嫌である。
「帰ったら婿探しかぁ…めんどくさいなぁ」
「元々、貴重なイエネコであるお嬢様が、当主になり、旦那さんをたくさん娶ってバンバン子作りする予定だったじゃないですか。元に戻っただけですよ」
けぶるような睫で縁取られた涼やかな目を細め、従者はセクハラ紛いの発言をする。
「やだわ、品の無い従者。解雇しようかしら」
「辛辣なご冗談ですね、ですがそこもまた、愛らしい」
「始まったわね、猫狂い」
「お可愛らしいお嬢様のツンツンは我々にはご褒美でございますよ」
イエネコの獣人は希少種である。
昔は少なくなかったはずだが、その愛らしさで奴隷として乱獲され、さらに長い間に交雑されて遺伝子が淘汰され、そのほとんどが姿を消した。
品種改良された中でも大型犬種は力も繁殖力も強かったため相当の数がいるが、小型犬種とイエネコの獣人は貴族の中に僅かに残るばかりで絶滅寸前である。
野生種のヤマネコも市民の中ではほとんど見かけない。
「別に、お母様は亡くなったけど、イエネコの獣人として叔父様とお婆様はご存命だわ。この国に私を含めて3人もいれば貴重ではないでしょう。新聞部の部長のパピヨンなんか、彼と彼のお母様しか残っていないのよ?それにイエネコは外国には何人かいるって聞くし。そもそも劣性遺伝だから形質が発現しないだけで、他にもイエネコの遺伝子を持った子はたくさんいるじゃない?」
仮にイエネコが淘汰されるても、それは時代の変化よ。とミミが呟くと、従者がカッと目を見開く。
ミミは馬車の籠の中で少し身を引いた。気持ち悪かったのである。
「お嬢様はイエネコの魅力をご存知ないからそのような恐ろしいことが言えるのです…!皇帝陛下を初め、私たちイエネコ保護の会の前でそのようなことを仰らないでください」
「あんたたちの、私をたくさんの男と結婚させて子猫を増やそうっていう魂胆が嫌い。私はペットじゃないよ?」
「存じ上げております。イエネコは神でございます。私達がおすすめする男たちは、血統に猫属の遺伝子が入っていることは元より、お嬢様を大切になさることを神に誓っています!どうかお嬢様の深い愛を哀れな下僕たちに分けて結婚してやってください。」
「下僕ってさ、そういう趣味ないんだけど」
ミミは頼んでもないのに増えていく下僕達が少々鬱陶しかった。何故か彼らは勝手に尽くしてくるのである。
「お嬢様のためならなんでもするのでそう呼びましたが、お気に召さなかったらどうとでもお呼びください」
「私は対等な関係を築きたいわ…それにそもそも、沢山の人と関係をもつような猫の性質が受け入れられないのにさぁ…あーあ…皇子妃になれたら良かったのに。そしたら一妻多夫なんてあり得ないじゃない?」
「それだけが理由ではございませんでしょう?」
意味深に見つめる従者にミミは、意地悪は嫌いよと吐き捨てる。彼はその一言にも目尻を下げていた。『なんなんだ、こいつ』そう、ミミは思った。
彼はコホンと咳払いをして続ける。
「……お嬢様はあの、アホのルドルフ殿下がお好きだったのですね?」
ミミは眉をあげておどけて答えた。
「まあね」
「ナラ嬢はアホ殿下のことを初恋ゾンビと仰いましたが、お嬢様も同じですね」
ミミとルドルフが出会ったの5歳の頃。
ミミの母である女公爵は、それはそれは可愛らしい長毛のイエネコの獣人だった。
しかし、当主であった彼女は病気で重篤な症状に陥り、公爵家は彼女の治療で手一杯となってしまったのだ。
女公爵は、多くの押し掛け旦那と下僕を抱えていたが、彼らは愛する妻の危機にパニックに陥り、ミミや義弟達をとても面倒が見れる状態ではなかったのである。
そんな時に手を差しのべたのがミミの父方の伯母である皇太后様であった。
先帝の正妻であった彼女はとても愛情深い獅子の獣人で、実子こそいなかったものの、年の離れた末弟であるミミの父親を大層可愛がっていた。
公爵家の混乱を知り、可愛い弟の娘であるミミや、義弟達を預かろうと申し出てくれたのである。
そして、彼女の元にミミがいた一年半。まだ目の青い小さな黒猫令嬢であった頃に後宮でルドルフと出会い、ミミは恋に落ちたのだ。
それから18歳になろうという現在まで、途中で彼を諦めたり、余りの所業に絶望したりしたが、ずっとミミはルドルフに関わろうとし続けた。
たしかに、初恋ゾンビかもしれない。
「お嬢様。図星で不機嫌になってしまいました?」
黙り込むミミに、従者が意地悪な声で囁いてくる。
けれど、ミミはそんな未練がましい女の子だって認めるわけにはいかないのだ。誇り高き猫令嬢だから。
「それは言わない約束だにゃー」
猫耳をパタパタさせながら、ミミが困ったように笑うと、顔を覆って、従者はうずくまった。
可愛い可愛いと呟いて悶絶するイケメン従者に対して、ミミはとても気持ちが悪いと心底思った。
それ以降、公爵家は妙齢の男性が送った花束やプレゼントや釣書で溢れ返っていた。
獣人と人間の比率は半々というところか。
どうやらミミには彼女の予想よりも人気があったようだ。相手より下手にでることが苦手なミミは内心ほっとしていた。自分が婚約の申し出をするなんて想像ができなかったからだ。
常に選ぶ側でいたいのは猫獣人の性である。
彼女の忠実な従者が、隣国の王弟の息子として自分の釣書をこっそり混ぜていた時はミミは冷たい目で彼を見てしまったが、彼女の新しい人生へのスタートは概ね順調だった。
毎日元婚約者が屋敷にやって来る以外は。
「姉さん、また来たんだけどどうする?蹴り出せばいい?」
「お願いだから、やめて」
「そうだ、弟よ。蹴るのはやめなさい。ミミ姉さん、殴って追い返した方がいいよね?顔面中心に」
「違うのよ、二人共。すぐに暴力的になるのをやめてって言ってるの」
双子の義弟達がしてくる物騒な提案にミミはため息が止まらなかった。
再従兄弟であり、ユキヒョウの獣人である彼らはミミよりかなりアグレッシブなのある。
義弟達はミミの母である女公爵が病気になった際に、娘一人の肩に公爵家の全てを乗せるのは可哀想だ。好きに生きてほしいといって迎え入れた親類の子だ。
実質的な姉の出戻りで当主の権利を失うにも拘らず、ミミのことを大層大事にしてくれる優しい子たちである。
ミミも彼らが大好きなのだが……いかんせんルドルフに二人は辛辣だ。
彼ら二人が肩を鳴らしながらサロンから出ていってしばらくして、ボロボロになったルドルフがミミの前に現れた。
厳しい戦いだったのだろう。引っ掻き傷だらけである。
しかし、人間である彼が年下とはいえユキヒョウの獣人二人に辛勝できるのは驚異的といえた。
さすが有能な皇子。
執念の勝利かもしれない。
「ミミ、愛している。どうか側に置いて欲しい。初恋に執着して、それでも君に惹かれて、僕は不誠実な行いばかりしてきた。こんなことを言う資格はないと理解している。許してくれとも愛してくれとも言えないが、君の側に置いて尽くさせて欲しい」
「今までの態度との落差で風邪引きそう」
「……本気なんだよ。どうしたら信じてくれるかな」
白百合のフェイクフラワーの花束を持って誠実そうに訴えかけるルドルフは毎朝決まった時間に公爵家に訪問して、双子と喧嘩してからから学園に向かう。
毎回違うアレンジで花束を注文しているのはルドルフ本人らしいと彼の騎士から聞いた。
本物の花じゃないのは植物があまり得意ではないミミへの配慮だろう。猫は完全肉食動物である。
贈り物も、謝罪の手紙も、愛の言葉も部屋が埋まるほど送られた。
彼はどうやら彼の父である皇帝に対して、有用で画期的な政策案や、今まで溜めに貯めた資産を取引材料にして、自由に結婚相手を決める権利の交渉をしているらしい。
彼の側近から、沢山の陳情が届く。
鈍くて馬鹿でとんでもない失敗をした礼儀が欠けた男ですが、ミミ嬢を想っているのは本気です。もう一回だけチャンスを与えてくれませんか、このまま貴女様にフラレては廃人になってしまいます。と。
陳情書類は基本的には従者がビリビリに破っていたが、ミミはそれら何枚かに目を通していた。
あの完璧な従者に処分漏れがあるということは、ミミが知らないだけで膨大な枚数がこの屋敷に送られて来ているのだろう。その辺は深く考えないことにしている。
ミミだって一途に想い続けていたので、ルドルフに情はあった。
婚約者として仲は悪くなかったのだ。
呼び方はミミ嬢から、いつの間にか呼び捨てに変わり、ルディと呼んで欲しいと乞われた。
お互いに物も手紙も送ったし、何回か出掛けもした。
ダンスの相性もよかった。デビュー前のレッスンでは足を多く踏んだ方が罰ゲームなんて言って、競って遊んだ。最高難度のステップが踏めるようになって講師に褒められて、何だか嬉しかった。
こっそり城下町に行って、二人で叱られた。罰で王宮の廊下に立たされて、どちらが悪かったか喧嘩した。喧嘩の声が煩くて、その後余計に叱られて二人で大泣きした。
くだらない冗談で笑いあった。食べ物の嗜好が似ていた。
そんな他愛のない、思い出がたくさんあった。
「ミミ……」
すがるような目線をそっとずらす。きっとミミが彼を許容できたら、寛容になれたら全て丸く収まるのだ。
ただ、ミミはそれを知っていても尚、誇り高きイエネコとして、ルドルフのことを許せる自信がなかった。
最近贈られてくる花束も、手紙の愛の言葉も、微笑みかける仕草も、ルドルフは洗練されていた。
洗練されすぎていて、ミミは感じるのだ。
ああ、私が婚約者として、片思いに苦しんでいた間にもルドルフは別の女の子を口説いていて、経験を積んでいたのだ。
この素晴らしい贈り物は誰かに与えた経験から、洗練されたのだ。
ルドルフが、以前は見せなかった一面を覗かせる度に自分以外の手垢が付いている男だと実感してしまう。
独占できなかった惨めさを思い知らされるようで、とてもじゃないが穏やかに受け入れるなんてできそうもなかった。
彼女には猫の矜持があるのだ。
はい、そうですか、と素直に頷ける性格ではない。
「愛している。もう一回チャンスが欲しい。今度は絶対に間違えない」
だから、跪いて愛を請う皇子に、肯定できない猫令嬢はこう応えるしかないのだ。
「にゃー」
今日も明日も明後日も誇り高い猫令嬢は元婚約者に鳴くことしかできそうにない。
基本的に全部フィクションですが、猫に関しての知識だけは本当です。目の色は変わりますし、野良猫の寿命は短いです。
創作物を読んで猫の女の子はもっとツンツンしているだろうという解釈違いが起きて書きました。
作者は犬派です。これは嘘です。