私と『自省録』
こんばんは、初投稿です。
今度は「前書き」を書けと言われ、さらに困惑しています。
本文の内容が、これから書いていく「あらすじ」で「前書き」みたいなものですので、ここでは割愛させていただきます。
『自省録』
実家の風呂に浸かりながらぼーっとタイトルを考えていた時、真っ先にこの言葉が浮かんだ。
どこで覚えたのだろう。でもきっと、自身の半生を記録した、自伝のような、回顧録のような、きっとそんな感じの言葉であろうと思っていた。
風呂から出てスマフォで『自省録』と検索すると、帝政ローマの五賢帝の一人、マルクス・アウレリウス・アントニヌスが最上位にヒットした。
『自省録』は熟語ではなく、固有名詞だった。
高校時代の世界史の授業なんて、先生の話など殆ど聞かずに寝ていた生徒だったから、
大方あとから教科書を読み返した時にでも強烈な印象を受けて覚えていたのだろう。
こんなタイトルに見合うものなんて書けない。
五賢帝の中でも「哲人皇帝」と呼ばれた人の著書と肩を並べられる文章なんて到底書けやしない。失礼極まりない。
辞めておくべきだった。しかしこのワードパワーに魅せられた。
「自分」「自ら」を「自身」によって「省み」た、「内省」と「反省」の「記録」。
紀元前後の偉人の著書に著作権がどうこうあるのかもよく分からないが、とりあえずタイトルには申し訳程度に(仮)と付けておこうと思う。
回顧録を書いて投稿しようと思ったきっかけと言われれば、綺麗事も含めて理由はいくつかある。
強制送還されたばかりの地元で気安く相談できるカウンセラーが見つからない不安。
相談できる親しい知人や地域の相談員に伝えるにはおこがましい程の文量だから、
誰でもいいから私の声を聞いてほしいという思い。
以前住んでいた近くのカウンセリングルームでカウンセラーに言われた、心理学における「筆記表現法」で書いていた日記の延長上にある自分語り、
文字として書き起こすことで、何か反省の糸口にならないかという模索の一手段。
なんでもいいから、「何か」行動に移して、現状から脱却したい衝動。
そして何より、この文章が彼女の目に留まってくれたら、という私のエゴイズムだ。
『小説家になろう』は一度も開いたことが無かった。
小説ではなくエッセイを書いて投稿するのであれば、ブログでも日記投稿サイトでも、Twitterの新規アカウントでツリーのツイートを作るのでも、
どんな方法でもあった。
『なろう』以外に小説投稿サイトがあることも、アカウント登録をした時に知った。
それでも何故『なろう』への投稿を決心したのかと言われれば、
彼女が『なろう』の大ファンであり、いつも寝室でゴロゴロしながらこのサイトの小説を読んでいたことを知っていたからだ。
きっと心のどこかでこの文章を読んでくれたら、と願っているからだ。
彼女とのLINEや電話による直接の接触は禁止。
ここに書き込むことも、自分で書いておきながら、正直グレーゾーンなのであろう。
彼女や彼女のご両親が見て、不快に思われるかもしれない。削除を余儀なくされるかもしれない。
この文章を彼女に読まれることも、読まれるようにとここに書きこむことも、実際許されることなのか。
「これ」を書くことは、完全に私のエゴイズム、自己満足だ。
ストックなんて無い。最後まで書ききれる見通しも続けられる自身も無い。
文才も無い。哲人皇帝のような学も権力もカリスマも無い。
誰かに読まれて、コメントなんて書かれてもどう反応すれば良いのか分からない。返事を返せるのかも分からない。
もしかしたらコメントの辛辣な内容に打ちひしがれて、この投稿を最後にするのかもしれない。
「これ」は私のエゴイズム。
ひっそりと書き記していこう。知らない誰かにさえ見られれば良い。その誰かの心に、何かしら突き刺されば尚のこと良い。
もういっそ誰にも見られなくてもいい。ネットの海で彷徨い続けてもいい。
だから、やれるだけやってみたい。
もしこの文章をあなたが『なろう』で見つけたのならば、
重ね重ね自分勝手で申し訳ありませんが、途絶えない限り、しばし私の投稿を見守っていていただければ幸いです。
これからここに書き連ねていく文章は、
大学を卒業した後に東京の会社に新卒で入社し、2年も経たずにうつ病で退職した、現在までの私「個人」の闘病体験記であり、
そんなうつで倒れた私を見捨てず、大学時代から社会人まで、同棲生活を経てずっと支えてくれた彼女へ、
駄目だと分かっていながら届いてほしいと願って書き綴ったメッセージであり、
そんな彼女に私が無理をさせすぎて同じくうつ病を患わせてしまい、
共倒れにならないようにとお互い支え合って過ごした「二人」の闘病体験記であり、
二人で元気になって幸せになろうと誓ったにもかかわらず、
2020年10月1日にその同棲生活に私自身の手で終止符を打ち込んでしまった、
そんな私の、私「自身」の、「自ら」を「省み」た「反省」の「記録」。
この文章で過去を見つめ、現在を強く生きて、幸せな未来をしっかり見据えられるように。