第六話「裸の付き合い」
それは一瞬の出来事だった。膨大な力の奔流は目に見えず、さりとて何かを傷つけることはなく。しかしその強大なソレは確かに存在していた。
消えるように姿を隠したモノが、突如として現れたのだ。
落ち着いていた精霊たちは突然の事にパニックを起こして荒れ狂い、しかしソレに恐怖してすぐに散り散りになって消えてしまった。
辺りが静寂で満たされる。それは虫の唄や風の囁き、星々の瞬きすらない歪な静けさ。圧倒的な力を気配のみで示し、一喝しただけで全てを破壊し尽くした後のような、凍った無音の世界を生み出した。
『チビユウリ、聞こえなかったのか? さっさと寝ろ!』
「ああもう、テュポーンの方こそうるさいっ。今取り込み中!」
不自然な沈黙を破るように、ソレと少年の言い合いが始まる。余りにも場にそぐわない会話内容であったことは横に置くとしても、姿なき圧倒的な力の気配に対して、ユウリはただうるさいと言ったのだ。
それは彼の目の前に居たエルフの乙女──ステラを驚愕させるには十分なものであった。
「す、姿無き力ある者よ。わたしは囁きの森に住まうエルフ族。そのウィロウとイリスの娘、ステラ。夜分遅くにこの地を騒がせた事、お詫びの言葉もございません。しかしどうかこの幼きヒトの子と共に、寛大なご配慮を賜りますようお願い申し上げます」
ステラは咄嗟にユウリの頭に両腕をまわし、自身の控えめな胸に押し付けて抱え込むと、そのまま目に見えない力の先へと名乗りを上げた。
『……フン? 随分とか弱い者が一緒に居ると思えば、エルフか。貴様に用はない、とっとと去れ。オレ様が叱りつけなきゃならねえのは、そこのチビスケだ』
「で、ですがそれは」
『関係ない奴は黙ってろっ。……ユウリ、何時まで固まってんだ。馬鹿は風邪を引かなくても、体を冷やして満足に動けないなんてマヌケな真似すんじゃねえぞ』
強い圧を放つ言葉にも、少年は答えない。ステラの胸に顔を埋めたまま、思考がオーバーヒートを起こして完全に停止しているのだ。
その姿に不甲斐ないものを見たと呆れたように、声の主は小さく溜息を零した。
『……ったく。そんなにそのエルフの乳が気に入ったのかよ。マセガキめ』
「へ?! ちっ、ち、ちがっ、違う! 違うったら違う!」
そう指摘されて、漸く我を取り戻したユウリは大慌てで否定する。その様子にステラは少しだけ不満そうな表情を浮かべたが、状況が状況なので仕方がないと割り切った。
『わかったわかった、さっさと中に入れ。風呂とか言うのにでも入って温まってから寝ろよ? おい、エルフ。気が変わった。オレ様が許可してやるから、お前も中で休め』
「は、はい……え?」
『ユウリ、そのエルフの服を取って来てやれ。凡その場所はここの対岸。精霊どもが見張っている気配がするから間違いない。それを目印にすりゃあ、すぐ見つかるだろ。あと確か、水上走破とかいうスキルを使えたはずだな?』
「え、あ、うん。水上走破は気功スキルだから行けるけど……」
水上走破は読んで字のごとく、水の上を走る事が出来る特殊なスキルだが、本当に一定以上の速度で走る事しか出来ず、立ち止まる事は出来ない。一定の速度を下回ると、そのまま水没するのだ。
水の上を走るのは意外と難しく、特に波のある場所や流れの速い川は失敗する者が後を絶たない、使い勝手が余りよろしくない割には難易度の高い、敬遠されがちなスキルであった。
似たようなスキルに水上歩行という忍術スキルがあり、こちらは専用の忍具と呼ばれる装備を使うパターンと、装備なしで気功スキルを併用するパターンの二通りがあったりする。
「じゃあ、行ってくるよ」
ステラの抱擁から漸く解放されたユウリは、そのまま逃げるように物凄い勢いで湖の上を裸で駆け抜けていく。
「ほ、本当に水の上を走ってる。魔法を使ったわけでもないに、ウソでしょ……?」
ステラは呆気に取られたまま、少年が走り去った方向を眺める事しか出来なかった。
数分もしないうちに、ユウリは彼女の荷物一式を持って再び水の上を走って戻ってくる。
「はい、これだよね?」
「えっと、あ、うん。ありがとう」
ステラが柔らかい笑みで礼を返す姿を、ユウリは己の体温が上昇するのを感じた。
「こ、ここ置いとくから!」
不意に互いが未だに裸であることを思い出して、赤面しながら顔を背ける。まだまだ幼さが抜けきらない少年には、刺激が強すぎたようだ。
『もう許可は出した。お前らはさっさと風呂に入って寝ろ。これ以上オレ様の手を煩わせるな』
姿無き者の言葉に荷物を手にしたステラ振り向くと、そこには何もなかったはずの場所に、一軒の立派なコテージが姿を現していた。
「えっ……ええぇえ!? 嘘、今まで何もなかったはずの場所に、家がっ……?」
よく見てみるとテラスには、小さな黒い塊が手すりの上にいる。よく見るとそれは、黒い鱗を持つドラゴンであった。
ステラはエルフとしてはまだまだ若輩だが、人間からすれば寿命の倍近い時を生きている。そんな彼女の人生の中ですらドラゴンなどお目にかかった事は一度も無いが、その能力は伝え聞いているのだ。
どんなに小さくてもそれは、とてつもない脅威なのだと嫌でも理解させられた。
その外見には不釣り合いな程に強大な気配を纏い、ほんの少しその力を振るっただけで、周囲一帯を破壊し尽くしそうな程のプレッシャーを感じるのだから、下手に機嫌を損ねればどうなるか分かったものではない。
ステラが思わず固まっていると、その横をユウリが素通りする。
「って、なんでテュポーンが許可出せてんの!?」
『そりゃあ、お前の宝はオレ様の宝だ。つまり持ち主はオレ様でもある』
「そんなの聞いてない!」
ユウリが抗議するのも当然だ。本来なら持ち主である彼が、ステラに対して利用許可を出さなければならない。それを自分の相棒とは言え、騎竜であるテュポーンが勝手に許可を出せるはずなどないのだ。
『この手のマジックアイテムってのはそういうもんだ。オレ様とユウリとの間にある繋がりって奴が、持ち主を誤認させている状態に近い、とでも言えば解るか?』
「……わかんないけど、とりあえず管理者権限を共有してるってことはわかった」
『それが解ってりゃ上等だ』
小さな黒竜は呵々と笑い、先にコテージの中へと入っていく。
「え、えっと……お姉さんも中にどうぞ」
そう言ってユウリも急いで中に入ろうとしたが、動く間もなく捕まってしまう。
「……ちょっと、いっぺんに色んな事があり過ぎて思考が追い付かないんだけど、とりあえず今夜はお世話になるわね。それと、さっきはいきなり魔法を使ってごめんなさい」
「だ、大丈夫。き、気にしてない、から」
荷物を片手に持ち、裸身を晒したままのステラが少年に笑いかける。月と星の輝きを纏った彼女の姿は、エルフらしい細身のスレンダーな身体で、彼が生きてきた人生の中で見てきた何よりも美しいと思った。
そのまま見惚れて棒立ちになったユウリの手を優しく掴み、ステラはコテージへと歩いて行くのだった。
「こんなに大量の水……いえ、お湯ね。その上このお湯を貯める巨大な桶? 釜? スベスベで不思議な手触り……どれをとっても非常識で高度な魔法が使われてる。過去の遺物にも非常に高度な物があったと聞くけど、これもその一つかしら?」
あれからユウリはステラに引き摺られるようにコテージの中に入り、そのまま風呂へと案内した。が、彼女は使い方が分からないと無理矢理ユウリと一緒に入る事にしたのだ。
強引に押し切られたとはいえ、彼女一人で浴場を使わせるのは不安でもあったので、仕方なく承諾している。
「ただの浴槽だよ……エルフはお風呂とか入らないの?」
「そうね。よく水浴びをしたりはするけれど、わざわざ沸かした湯に浸かる事はあまりしないと思う。寒い時期に、湯に濡らした布で体を拭くくらいかしら?」
温かい湯船の中には、一組の男女。浴槽は広く、まだ数人は入れそうな余裕がある。幼げな容姿だとは言え、ユウリは十五歳の少年だ。冷静でいられるはずもなく、内心では大いに焦っている。
先程までは夜の暗がりの中だったから、細部までは見ずに済んだ。が、ユウリの持つコテージの中は、彼が住んでいた日本と同等の照明設備を、マジックアイテムと言う形で備えている。
つまり、昼間の様にはっきりとモノを見ることが可能なのだ。ステラの身体も、そして自分の身体も。
「この灯りだってそう。いくら魔法でもここまでの明るさを維持し続けるなんて、並の魔道具では無理よ。貴方一体何者なの? それにさっきのドラゴンだって……」
「そ、そういうのは明日にしようよ。ぼ、僕はもう温まったから上がるね!」
ステラに抱きかかえられるように湯船に浸かっていたユウリは、痛む股間を抑えながら浴槽から出ようと立ち上がる。が、それを制したのは他でもないステラだった。
「誤魔化そうったってそうはいかないわ。あのドラゴンの機嫌を損ねる訳にはいかないから、今は詳しくは聞かないであげる。ひとまず落ち着いたんだから、お互いに自己紹介しない? わたしはステラ。囁きの森、ウィロウとイリスの娘よ。貴方のお名前は?」
「ぼ、僕の名前は……ユウリ。久我山勇利」
「そ、ユウリっていうのね。クガヤマってのは人間の家名とかいうものかしら?」
「う、うん。そう」
早くこの場から逃げ出したいと気持ちは逸るが、ステラが彼の腕をしっかりと掴んで逃がそうとしないため、ユウリは立ち上がったまま動けないでいる。
「あ、あの。離して……」
「そう言って逃げるつもりでしょ? ダメよ、ちゃんと温まりなさい。それとも……わたしと一緒は、イヤ?」
急に悲し気な上目遣いでユウリを見るステラに、人生経験の浅い少年はまんまと引っかからざるを得ない。寧ろ裸の美女からそのように言われ、振り払える男はそう多くはいないだろう。
「う、ず、ずるい……」
頭の中がパニックになって爆発しそうだ。ユウリは顔どころか耳や肩まで真っ赤にしながら、涙目になる。そして仕方なく再び湯船に浸かると、先程の様にステラに抱かれるような形になってしまった。
「ふふ、素直でよろしい。なかなか可愛いところあるじゃない。……まあ、せめてこの場所にいる理由だけでも教えてくれないかな? 駄目かしら?」
「理由なんてないよ。ただ気付いたらここにいて、テュポーンがこの辺がいいって言うから、ここに泊まることにしただけで……」
「テュポーン、と言うのはあの小さな黒いドラゴンの事でいいのね?」
「……うん」
「…………そう。教えてくれてありがとう、ユウリ」
暫し思案するように沈黙した後、ステラは礼を言ってユウリの額に優しく口付けた。
風呂から出て着替えを済ませると、二人はそのまま二階の寝室へと向かった。
「それじゃあ、この部屋を借りるわね。おやすみなさい、ユウリ」
そう言ってステラはユウリの頭を優しく撫でる。こんな短時間で随分と気を許したものだと、ステラ自身も驚いている。だが不思議と彼らからは嫌な感じはしないのだ。
何か深い事情があるのだろうが、明日になればそれも聞くことが出来る。恐らくはあの黒いドラゴンから直接。
下手な人間や他の種族を相手にするよりも遥かに危険なはずなのに、ずっと安全で安心できるというのも変な話だと彼女は思う。でも今はその感覚に従うと決めた。そうしなければならない予感がするのだ。
「……お、おやすみっ」
ゆで上がったのかと思う程に真っ赤に染まった顔のまま、ユウリは踵を返して自分の部屋に向かう。そんな少年の背中を見送ってから、ステラは部屋のドアを開く。
予想外の出来事に強い心労を覚えたのか、ユウリはベッドの中に入るとあっという間に深い眠りへと落ちるのであった。