第五話「全てが想定外」
それは、異常な光景だった。ふらりと立ち寄った比較的小さな森。その森の中は一見とても穏やかでさえあったが、同時に驚くほどの静寂に包まれていた。
その元凶となっていた『何か』の気配を追っていたものの、嘘のように掻き消えてしまっていたのだ。
獣の気配どころか、魔物さえも怯え逃げ去った後の森。旅の途中であった彼女の特徴的な長い耳には、風に揺れる木々のざわめきが、恐怖に震える声として聞こえている。
彼女の名はステラ。一般にエルフと呼ばれる森の奥に隠れ住む民。他の種族よりも遥かに永い時を過ごし、数多の叡智と魔法を蓄え行使する事の出来る、神秘の種族。
そんな彼女が旅に出たのは、冒険者となって見聞を広め、人間の世界を見て周りたいという、純粋ながらもあまりに幼い好奇心からくるものであった。
当然のように隠れ里の同胞たちから止められたが、それでやめるようなら最初からそんな考えを抱くことはない。エルフにしては強すぎる好奇心に従って、彼女は生まれ育った森を抜けだして来たのだ。
「おかしいわ……あれだけ強大な圧を撒き散らしていた厄災の如きモノが、いきなり綺麗さっぱり消えてなくなるなんて、そんなのありえない」
長く美しい金色の髪をかき上げながら、翡翠色の瞳は注意深く周囲を伺っている。だがこれといって変わったところがある訳でもない。
小さく息を吐いて、ステラは仕方なく歩みを進める。騒めく精霊の声に耳を傾けてみると、巨大な何かが、突如として出現したらしい。だが彼らの表現は抽象的過ぎて、あまり参考にはならない。
ステラは他のエルフ同様に精霊を友とし、その力を借りる精霊使いとしての素養がある。実際にそこそこの腕ではあれど、精霊と心を通わせるとまではいかない為に、情報の精度が落ちるのだ。
「森の外の方が騒がしかったから、そっちに向かってみるしかないわね。原因をどうにかすることは出来なくても、正体くらいは突き止めておかないと」
ステラはそう小さく一人ごちる。引き際は弁えているつもりだし、逃げるだけなら精霊たちに目晦ましを頼んで、時間を稼ぐこともできる。
そうすれば故郷の森やそれ以外の里の者達に、警告して回ることは出来るだろう。
彼女は自分なら可能だと、足早に森の外へと向かった。
二階にある薄暗い寝室の中、ユウリはベッドの中で寝返りを打った。寝室はちょっとしたビジネスホテルのような内装で、ツインの客室のようなものを連想させるのだが、この部屋の使用者たちがそれを知っている筈もない。
色々と衝撃的な一日だった事もあり、早めに寝ようと布団に入ったはいいが、妙に目が冴えてしまっていたのだ。
今日の出来事が夢であるようにと思えば思う程、眠気は遠ざかっていく。隣のベッドでは、今日出会ったばかりのリリルト族の少年、マットがすやすやと寝息を立てている。
「……あー、寝れない。どうしよ」
どれだけ横になろうと、全く眠気が来ないのだ。普段の寝つきは悪くはないはずなのが、ユウリの不安を掻き立てる。
「少し体を動かせば、眠くなるかな……」
そっとベッドから起き上がり、マットを起こさないよう部屋から出て一階に降りると、居間ではテュポーンが体を丸くしてクッションの上で眠っているようだった。
相棒の黒竜はクッションの上から微動だにせず、ユウリの方を見る事すらしない。承知の上で無視しているのだ。ユウリはそのことに気付かず、眠っているのだと思い込んだままテュポーンを起こさないよう、そっと玄関のドアを開けて外に出た。
外はユウリが想像していた暗さと違い、夜とは思えないほどに明るかった。二つ月と星の明かりだけである程度は周囲が確認でき、また満天の星空に自身が今にも吸い込まれそうな錯覚を覚える程に美しい。
昼間も二つの月が見えていたはずだが、未だに沈んではいなかった。とはいえ、大分西に傾いており、夜半を迎える前に見えなくなってしまう事だろう。
「ふわー……すげえや。こんな夜空、ゲームの中でも見たことない」
思わずそんな言葉が零れるほどに、見上げた夜空は圧巻だった。その神秘的な輝きに暫し目を奪われながらも、ユウリは湖の方へと歩き出した。
ステラが森の外へ辿り着くころには、すっかり夜になってしまっていた。
星々が瞬き、辺りの精霊たちはすっかり落ち着きを取り戻しているように感じ、昼間の強烈な圧は何かの幻だったのではないかと、疑いたくなるほどだ。
ふと視線を向けると、そこには湖があった。水の精霊たちが楽し気に湖面に映る夜空を眺め、闇の精霊は静寂を運ぶように静かに佇んでいるのが、彼女の眼にはハッキリと見て取れる。
彼ら精霊は普通、目に見えるものではない。精霊を知り、精霊を信じ、精霊の声に耳を傾ける者だけが、彼らの存在を感じることが出来ると言われている。そして彼らと語らい、その力を借りる事で起こせる現象こそが精霊魔法と呼ばれ、エルフに伝わるもの。
「この辺りに危険な存在は……なさそうね。急いで森を突っ切って来たし、少しくらい水浴びしてもいいかな……?」
余りにも穏やかな精霊たちを見て、ステラの心が揺れる。一度認識した誘惑に抗うことは出来ず、うら若き森の乙女は軽い足取りで水辺に向かった。
衣服を脱いで、夜の湖に裸身を浸す。ひんやりと冷たい水は、森の中を走り回って火照った身体には丁度良く感じられた。
「夜の水浴びというのも、案外悪くないものね。獣どころか魔物すら姿を消しているから、安心して泳いでいられ──っ」
遠くから、ぱしゃぱしゃと水音がする。彼女が起こした音ではない、別の何かによる音が。
「魚が跳ねた……って訳ではないわね」
翡翠色の瞳が剣の様に細く鋭く、周囲を警戒する。そして一言二言、彼女の使う言葉とは違う言語が小さく零れる。
(……水の精霊や風の精霊から、嫌悪は感じられない。数は一つ。ヒトのような姿らしいけれど、妖魔という可能性も捨てきれない。ゴブリンかオークか……最悪はオーガ以上のバケモノだろうけれど、それはなさそうね)
そこまで思案して、ステラは静かに水の中を進む。ここには多くの精霊たちが集っている。魔法という切り札がある分、優位は自分にあると判断し、相手に気付かれない内に無力化してしまおうと考えたのだ。
魔法で姿を隠し、慎重に近付いていく。標的を見つけると、そこにいたのは一人の人間が、自分と同じように水浴びをしているところだった。
身体の大きさから相手は少年で、まだ子供と言える年齢だろうと判断する。
「……子供? なんか不自然ね……とりあえず捕まえて事情聴取、ってとこが妥当そうね」
ステラは水浴びをしている少年に気付かれぬよう、湖面から顔を出す岩陰に隠れて小声で詠唱し、魔法を行使する。それは相手の体を水で覆い拘束するという魔法で、周囲に豊富な水があるばより効果を高められるという性質があった。
どうしても寝付けずに仕方なく外に出てみると、月と星を映す美しい水面がユウリの眼前に広がっていた。それを見て昼間の水浴びを思い出し、折角だからとすぐさま全裸になって夜中の水遊びに興じる。
夜の水はひんやりとしていて、少年が思った以上にとても冷たい。おっかなびっくりではあるが、水に入るのを止めなかったのは、この珍しい景色の中を泳いでみたいという好奇心を抑えられなかったからだ。
眠気が来るまでと遊んでいたユウリだったが、流石に寒くなってきた。冷えた体を温めようと岸に上がろうとした時、突然自身の首から下に水が纏わりついてきたのだ。
身体の上を這いまわるように水が蠢き、徐々に太くなって全身を覆う様に水の玉を形成する。
あっという間に首から上を残して、少年は水の中に閉じ込められてしまった。
「え、うわっ…………ハァッ!」
次の瞬間、予想外の事に一瞬だけ驚きこそするものの、ユウリはあっさりと抵抗してその拘束を気合で、文字通り弾き飛ばす。
破裂音と共にパラパラと弾き飛ばされた水が降り注ぐが、それもすぐに止む。囚われたはずの少年は何事も無かったかのように裸のまま、そこに悠然と地に足を着けていた。
「……は、はあああ!?」
「だ、誰だ!」
相手は子供なので手加減していたとはいえ、例え冒険者であろうと並の相手なら逃れる事の出来ない、強力な魔法を行使したはずだった。それを容易く破られた為に、魔法を放ったエルフの女性──ステラも思わず声を漏らすほど動揺してしまった。
「そ、それはこっちの台詞よ! に、人間の癖に精霊魔法から逃れるなんて、アンタ何者なの……!?」
「え、あの程度の魔法で? だってアレ、精霊魔法のウォーターホールドだっけ? 下級の魔法でも使用者が高レベル帯なら混戦状態では危ないけど、レベルが全然低いんじゃオーガだって捕まえられないよ」
ステラの言葉に思わず素で返したユウリ。声のした方へ視線を向けて身構えようとして、今の自分の状況を忘れてしまっていた。
直後、二人が思わず固まってしまったのは無理からぬこと。ステラも水の魔法を行使した時点で姿を隠す魔法は解除されているので、水に濡れた美しい素肌が露わになっている。
しかも幸か不幸か、周囲は夜だというのに二つの月に照らされている為、思った以上にハッキリと互いの姿を確認できた。それはつまり、一糸纏わぬ二人の男女が、互いに向き合っているという状況が出来上がってしまったのである。
「ちょ、ちょっとアナタ! いくら子供だからって、少しくらいは隠しなさいよっ」
「え、へ……うわーーーーーっ!?!?」
ステラが気まずそうに指摘すると、放心状態だったユウリも現状に気付いて、慌てて股間を隠す。
彼女は覚悟の上で行動していた事と、エルフという長命種ゆえの経験量から、見る事も見られる事も多少は平気であった。また目の前の少年が、まだ子供だとはっきりと確認しているからこそ、このような大胆な行動に出たのだ。
しかしユウリはというと、ゲームに熱中し過ぎるほどの純粋な少年だからなのか、彼の居たご時世にしては驚くほど耐性が無かったという不幸に見舞われている。
結果、男女が逆転したかのような反応になってしまった事で、双方に微妙な空気が流れる事になった。
「そ、そんなことより! アナタ、あの程度の魔法でってどういう意味よ!? 普通の人間ならこれだけの水場で、水の精霊の拘束を自力で解くなんて、絶対不可能なの! どういうことか説明なさい!」
いきなり攻撃を仕掛けた側である為か、ステラはあえて身体を隠すような真似はしない。一応は堂々としておかなければ恰好がつかず、また目の前の少年が羞恥を覚える年頃で、こちらに視線を向けてない事も幸いしていた。
そんな事情は露知らず、ユウリは一人焦っていた。昼間のテュポーンの言葉から周囲になにも居ないと思い込み、完全に警戒を怠っていた為だ。
とはいえ四六時中警戒など出来るはずもないし、どれほど高い能力を持っていようとゲームの中だけの話だったのだから、こうなるのも当然と言えば当然だった。
「ど、どうって……ちょっと気合を入れれば抵抗出来るんだよっ。魔法に気功スキルで干渉するのは当然だろ!?」
「キ、キコウスキルですって……? アンタみたいな子供が、スキル持ち!? 馬鹿も休み休み言いなさい!」
聞き慣れないスキルに驚愕しながらも、尚も問い詰めようと美しい森の乙女は、貧弱とも言える体の少年に詰め寄っていく。
「どうだっていいだろっ、ち、近付いてくんな!」
流石にユウリも思わず逃げようとするが、相手の気迫に気圧されたからか初動が遅れ、あっさりと腕を掴まれてしまった。
「どうでもいいって何よ! アンタ自分が何やったのかわかってんの!?」
「いきなり変な女の人に捕まりそうになったから、抵抗しただけだろー!?」
「変とは何よ変とはっ。森の守護者にして精霊の友である、エルフの乙女を前にして言う事がそれっ? 少しは幸運に思いなさいよ!?」
大分無茶な事を言っているが、彼女も結構混乱しているらしい。
少年がその手を振りほどこうと思えば、簡単に振りほどける。ユウリにはそれだけの身体能力が備わっているし、例え全裸であってもオーガすら瞬殺できるのだ。
それでも身動きが取れなかったのは相手がヒトであり、少し年上のお姉さんとも言える見た目の女性だったから。ユウリの眼前には柔らかな月の光に照らされて、雪のように白く輝く素肌と、なだらかだが丸みを帯びた二つの膨らみ。
肌に張り付いた金色の髪と相まって、彼女自身が輝いているかのような錯覚に陥ってしまう。
「わ、わかったから離してよっ。ぼ、僕は男なんだぞ!?」
「そんなの見たから知ってるわよ。まだまだお子ちゃまの癖に、恥ずかしがるには早いんじゃない?」
慌てふためくユウリを見たステラは、余裕たっぷりに彼を煽る。例え魔法が通じなくても所詮は子供、と侮ったとも言う。彼女もエルフとしてはまだまだ若いが故の油断であった。
ユウリが彼女の油断を助長させているのは羞恥だけでなく、思わぬところで元気に自己主張を始めようとしている、制御不能な己自身と必死に格闘しているからだ。
知識としては性のあれこれを知っているものの、実物に触れた経験など無ければ見た事も無い。幼さと若さゆえの暴走であった。
「裸を見て狼狽えるなんて、本当に子供なのね。まあ人間は恐ろしく短命だから……まだ十二、三ってとこでなんしょ? よちよち歩きの赤ん坊じゃない」
「ちょ、ちょっと成長が遅いかもだけど、僕は十五歳だ!」
「たった二つ三つ程度の差なんて、エルフには無いのと同じよ。やっぱり赤ちゃんじゃない」
「全然ちがーう!!」
いつの間にか目的を忘れ、少年をからかう事が楽しくなってくる。それにまんまと踊らされるユウリとのやり取りは、姉弟喧嘩のような微笑ましいものへと変化していっていた。
そんな風にキャンキャン言いあっていると、不意に強大な気配が姿を見せる。とても小さい筈なのに、目に見えない力の流れが一瞬でこの場を覆い、制圧と言っていい程の威圧感を放った。
『おい、ウルセーぞチビユウリ! 夜更かししてねーでとっとと寝ろ!!』