第三十五話「ここにいる」
ヘルガがダグ達と一緒に森の方へと向かって、どれだけの時間が過ぎただろうか。太陽はかなり西へと傾き、吹き過ぎる風は優しくも、冷たさが混じって来ている。
ユウリはヘルガ達が向かった森の方を、祈るように見つめていた。
眼を閉じれば、先程の光景が嫌でも浮かんでくる。
傷だらけの冒険者が、必死の形相でこちらに駆けて来る。血を流し、全身がその血で赤く染まっているのだ。足を縺れさせ、時には這うように逃げる者達。
ユウリ達を見つけて安堵し、しかし忘れ得ぬ恐怖に震えて、見捨てて来た仲間への無念と後悔を口にする姿に、少年はどうしてもこの世界が、作り物の偽物だとは思えなくなってしまった。
現実なのだと薄々感じてはいたものの、心のどこかでこれは自分が見ている夢か、ゲームの中での出来事なのだと信じたがっていた。別の世界に迷い込むなど非現実的であるし、自分が遊んでいたゲームの能力や装備のままであるわけがない。
常識的に考えれば、有り得ないのだと判断するしかなかったのだ。
ゲーム中のリアリティ設定を高くしていたとしても、イベントシーンでもなければ、出血は回復と時間経過ですぐに消える。しかし今ユウリの足元には、彼らの流した僅かな血の跡が、今も消えぬまま残って黒ずんでいる。
それを見る度に、何故だと疑問ばかりが頭に浮かんでは消えていく。
何故自分はここにいるのか。
何のためにこの世界に連れて来られたのか。
本当に迷い込んでしまっただけなのだろうか。
だとしたら家族や学校は、どうなっているのか。
それらを思う度に身体は震え、怖くて仕方がないのだ。
ゲームの中で強敵と戦うのが、何よりも楽しみだった。仲間と連携し、戦略を立て、戦術を駆使し、戦い方を工夫するのが楽しかった。
それは安全な遊びだからこそなのだ。突然これが現実だと突き付けられ、誰がこれまでのように振る舞えるだろうか。
「あんちゃん、大丈夫?」
不意にそう尋ねてきたマットの声に、思わず肩が跳ね上がる。彼から向けられる憧れの視線は、ユウリにとって重荷でしかなかった。自分は何者でもないのに、無邪気に持ち上げられてしまった事に罪悪感すら覚えたのだ。
「……僕は、大丈夫だよ」
マットの方を振りむことが出来ず、ユウリは素っ気なく答えるのが精一杯だった。そんなユウリの様子を気にした風でもなく、マットは言葉を続ける。
「大丈夫じゃないよ。あんちゃん、辛そうだもん」
「……そ、れは」
「あんちゃん。ヤなことがあったらさ、楽しい事を思い浮かべるといいんだぜ。ヤなことは無くならないけど、ちょっとだけ気持ちが楽になるんだよ」
マットの言葉は、無責任で能天気だと言ってしまえばそれまでだろう。それでも、誰でもないユウリに向けられた言葉は、不思議と温かく感じるものだった。
ちょっとだけ。ちょっとだけ楽になる。それは人間に虐げられてきたマットが、辛い現実に負けないために身に付けたものなのだろう。だがその「ちょっと」の余裕の有無こそが、苦境に立った時にこそ大切なのかもしれない。
「おれはね。前に見た英雄の劇を思い出すんだ。どんなに苦しくても、知恵と勇気で立ち向かう英雄なんだ。だからあんちゃんも、楽しい事を思い浮かべれば、きっとまた大丈夫になるよ」
「楽しい、こと」
そんなの思い出すまでもない。ゲームの中で思い切り身体を動かし、遊んでいた時間こそが何よりも楽しいものだった。
多くの仲間と一緒に、時にバカをやってみたり、現実の武術を参考にしてみたり。戦いに関するものが圧倒的に多くはあるものの、それでもユウリは一人じゃなかった。楽しく遊んだ仲間がいたから、心の底から夢中になれたのだ。
「仲間が、皆が居たから……」
小さく口にした言葉。ユウリの手を、そっとマットが握る。それは確かに在る、ヒトの温もり。今までこの世界で体験してきたことは、決して偽物などと言えるはずがない。
理解していても目を背けて来た現実と、向き合うべき時が来たのだ。
ヘルガは言った。理不尽な死なんて、そこら中に転がっていると。
ステラは言った。死に慣れてはいけないと。
マットは言った。きっとまた大丈夫になる、と。
そしてダグ達は何も言わず、不甲斐ないユウリを責める事もせず、ユウリ達を置いて戦いに赴くことを選んだ。
無理矢理にでもユウリを連れて行けば、それだけで自分達が楽をできるのに、彼らはそうしなかった。全てはユウリを思っての言葉であり、行動だった。
彼ら彼女らと一緒に過ごした時間は、慣れない生活に悪戦苦闘する時間は、楽しくない訳がなかった。何もかもが初めての、かけがえのない時間だったのは、決して嘘じゃない。あの時間は、ユウリにとって本当に「生きていた」時間だったのだ。
ならば自分自身が、本当に為すべきことは何か。本当に求めるものはなんなのか。
答えはもう知っている。最初から、理解していたことだ。あとは「ちょっとだけ」の、勇気。
「マット、ステラさんに伝えてくれる? いってきます。って」
膝をついて小さなマットの視線に合わせながら、ユウリはそう告げる。その表情には、もう死に怯える少年はいなかった。
『……チビユウリのやつ、やっと現実を受け入れたか』
もそりと背嚢から首を出したテュポーンが、静かにそう呟く。
「え、テュポーン様!?」
テュポーンが寝床にしていた背嚢はステラの物。普段は決して出てこないところへ、突然首を出した黒竜の姿を見て、ステラが驚くのは当然だろう。
傷ついた冒険者達を簡素な天幕の下で寝かせ、席を外したタイミングだったからよかったものの、テュポーンの存在を隠したいステラとしては、とても心臓に悪い。
この世界に来た時からユウリが血に怯えていたのは、最初から気付いていた。
ずっと不思議に思ってはいたものの、心当たりはあったのだ。この世界は、異世界。自分達が居たかつての世界とはどこか似ているが、しかしまるで違う。
その中でも最大の違いは、冒険者が持つ復活の奇跡だろう。肉体が死んでも、すぐにリスポーン地点から復活できる冒険者は、破格の存在だと言える。だからこそ無謀な冒険や、強大な神々にすら戦いを挑むことが出来たのだ。
しかしこの世界では、恐らくだがその奇跡は使えない。テュポーン自身もそう感じている。
奇跡に慣れ、奇跡に頼り切っていた者が、その奇跡が使えないと理解した上で戦いに挑むのは難しいだろう。
次がない以上、無謀と慢心は捨てなければならない。何もかもが一発勝負。自分だけでなく仲間も、一度でも失ったら取り戻すことが出来ないのだ。
『未知に挑むってのは、本来危険なもんだ。生きるか死ぬかの一発勝負。慎重になるのはいい。だが慎重になる事と怯える事は、全くの別物だ』
重圧を跳ね除け、ユウリは再び立ち上がった。例え奇跡が無かろうと、彼が今まで培ってきた実力と経験は、彼を裏切ることはないだろう。ならば彼が後れを取ることなどない。
『気にすんな、独り言だ』
「は、はい。ユウリは、大丈夫なんですね?」
『一度はこのオレ様に勝ってるんだ。その辺の奴らに負けてたまるかよ』
呵々と笑う黒竜に、ステラが目を丸くする。テュポーンの真の姿を知る彼女だからこそ、今の発言で驚くなと言う方が無理だろう。でもだからこそ、大丈夫なんだろうとも思えるのだ。
遠くから、自分を呼ぶマットの声がする。振り向くと、冷たい風が吹いた。空は徐々に、血のような赤に染まっていた。
どれほど長い時間を、こうやって戦っているのだろう。先程から息が荒い。気功スキルによって体力の回復も試みているはずなのに、それももう限界に近い事が、嫌でも理解出来た。
いつ果てるともない戦いは、ヘルガの気力を確実に削り取っていく。まるでそれと連動するように体力も削られていき、今では相対する不死身の魔獣から受けた攻撃の痕が、体中のあちこちに刻まれている。
血は流れてゆき、徐々に思考が濁る。濁った思考は集中力を奪い、動きに精彩を失わせる。
悪循環だと、ヘルガは自分でも感じていた。限界が近いのだと。だがもう少し、あと少し踏ん張らなければならない。この不死身の魔獣を野放しにしないためにも、少しでも攻略の糸口を引き出すための捨て石になれなければ、意味がないのだ。
「ヘルガ! もういい、無理をするな!」
遠くから声が聞こえた。その声が誰であったかなんて、思い出す余裕もない。
「ちゃんと、見ときな! そして、コイツを倒す方法を、見つけるんだよ!」
気力を振り絞り、ヘルガは声を張り上げた。襲い掛かる魔獣の牙を搔い潜り、追撃を加える爪を躱し、反撃する余裕すらもう残されていないが、それでも彼女は何度でも立ち上がる。
血に塗れ、艶のあった毛並みは見る影もないほどにボロボロだ。肩で息をし、構えたモールの先端も、随分と下がってしまっている。
ヘルガが不死身の魔獣と呼ぶ獅子は、力尽きようとしている相手を見て、悠々と弄ぶように、右へ左へと移動しながら相手を翻弄し、少しずつ削り取っているようにも見えた。
彼女の援護をしたいが、ヘルガの動きが鈍り始めたあたりで、同じようにこの戦いに乱入する隙を伺っていたオーク達が、動き出そうとしている。
ダグ達としてもヘルガを見捨てたくはないが、彼女が命を賭して残そうとしてくれている情報を、必ず持ち帰らなくてはならない。
「ダグ。覚悟を決める時だ」
仲間のキールが促してきた。それは撤退する為の覚悟を決めろ、と言う事だ。
「殿はボクかな? ノノラ、こっちの事はいいから先行して、何が何でも逃げ延びろよ?」
「仕方ないですね。苦渋の決断ですが、そうしましょう。ワタクシはそろそろ行きますね。走れば、先に退いたパーティにも追いつけるでしょうし」
既にノノラは走り出していた。自分が戦いに不向きだからこそ、やるべきことを理解している。そしてダグも、腹を括った。
「撤退だ。急げ!」
そう声を張り上げると、今まで一緒に残ってくれていた冒険者達に僅かな困惑と、仲間を見捨てて逃げなければならない、悲壮な覚悟が見えた。
そんな時だった。
「な、何かが物凄い勢いで、こっちに向かってきています!」
先行していたはずのノノラが、大急ぎでこちらへと逆走して来たではないか。そして何があったか聞こうとする前に、大きな地鳴りが近付いてくることに嫌でも気付かされる。
「クソッ、まさか新手が出たってんじゃないだろうな!?」
誰かがそんな悪態をついている間にも、こちらに向かってくる音は大きくなっており、すぐ近くまで土煙が迫ってきているのがハッキリと視認できてしまった。
誰もが逃げられないと覚悟し、武器を構えようとするが、それさえも間に合わない。しかし次の瞬間、土煙は進路を変えるように、冒険者達の横を通り過ぎて行った。
全員、何が起きたのかすらわからず、思わず土煙が去った方を目で追ってしまう。その行く先は、勇敢な冒険者と巨大な獅子との戦いの真っ只中。
「ヘルガ!?」
思わずダグが叫んだ。だが視線の先は土煙によって視界を遮られ、向こうの様子を知ることはできない。しかしそれはすぐに杞憂だったと気付くのに、そう時間はかからなかった。
それは見えない何かが、破裂したようだった。とてつもない衝撃が走り、土煙と一緒にオーク達が吹き飛ばされるのが見えたのだ。
それは先程の獅子の咆哮による攻撃にも似ており、すぐにこちらにも来ると身構えた冒険者達だったのだが、どれだけ待っても
一向に、彼らに何の影響も及ぼす事は無かった。
土煙が晴れる。不意を突かれ、突然の事態に咳き込むしかなかったヘルガは、自分の眼前に誰かが居る事に気付いた。そこに居たのは、一人の少年。深い蒼が特徴的な鎧を身に纏い、大きな盾と剣を背負った格好だ。
見覚えが無い訳がない。それは、その少年は。
「……ユウリ、かい?」
驚いたように、やっとの事で声を絞り出したヘルガの方を向き、ユウリは申し訳なさそうに微笑んだ。
「遅くなって、ごめんなさい。あとは僕に、任せてくれるよね?」
「アンタ……いや。任せて、いいんだね?」
「うん。僕はもう、誰かが死ぬのを怖がったりしない。僕が全部、全部守る」
そう言い切って、ユウリは相対する獅子を睨みつけた。突然の闖入者に警戒したのか、獅子はまだ襲ってくる様子を見せない。まるでこちらを値踏みするように、ゆっくりと間合いを計っている。
「ネメアンライオンか。物理攻撃に対して、もの凄く防御力が高いモンスターだね。沼に沈めて窒息させたり、魔法でタコ殴りにすると、案外簡単に倒せちゃうんだけど。今のヘルガさんだと、有効打を与えにくい相手だよ」
「……よくわからないけど、ユウリなら倒せるってことかい?」
「うん。でもこれから僕がしたいと思う事を考えると、少し時間がかかるよ。あと、これ預かっててくれる?」
言うが早いか、ユウリは自らの武装を一つずつ外し、ヘルガの足元に置いていく。剣も盾も鎧も、その身を護る全てを外し、少年は身一つをネメアンライオンの前に差し出した。
「ユウリ!?」
「大丈夫。僕を信じて、ヘルガさん。僕は、僕は逃げたくないんだ」
次の瞬間、好機と見たネメアンライオンが襲い掛かって来た。恐ろしく鋭い爪で殴りかかられれば、バラバラにされてしまうのがオチだ。しかしユウリはそれを難なく片手で払いのけ、そのまま前足を掴んで獅子を地面に叩き付けた。
ドォンッと大きな音が周囲に走る。誰もが目の前の光景を、信じられない思いで見ていた。あの激戦を繰り広げていたヘルガでさえ、あのように容易く敵の攻撃を凌ぐことは出来なかったと言うのに。
ユウリからすれば、ゲーム内で数多の敵と実際に相対してきた、これまでの経験があるからこその芸当だ。手元に武器がない状況も少なからず存在し、だからこそ徒手空拳での戦い方も十分に心得ている。
そこにネメアンライオンをあしらえるだけの身体能力があるからこそ、このような一見無謀な行為も可能となっているのだ。
ネメアンライオンはよろよろと立ち上がり、目の前に居るユウリにその牙を突き立てようと跳びかかって来る。それを真っ向から蹴り上げると獅子は天高く舞い上がり、着地の寸前でユウリは相手の後足を掴んで、そのまま大地に叩き付けた。
そのまま何度もネメアンライオンは殴られ、投げ飛ばされて、それでもユウリに襲い掛かるのを止めない。止められる訳がない。
突然現れ、戦いに割って入っただけでなく、自身を眼中に無いようにあしらう存在を、認められる訳がない。どれほどの攻撃を受けようと、ネメアンライオンが自身が傷つくとは露ほどにも思っておらず、だからこそ負けないと言う自負があった。
目の前の相手は、微かに震えている。
恐怖しているはずだ。なのに何故、攻撃を受けるのが自分ばかりで、小さな子供に傷一つ負わせることが出来ないのかと、焦りを覚えていた。
「ユウリ、そいつは殴って倒せるような相手じゃないんだよ!?」
「……ヘルガさん。僕は、怖かったんだ。ここを現実だって、認めるのが怖かった。きっと夢なんだって、そうじゃなきゃゲームのイベントなんだってずっと、ずっと認めたくなんかなかった。……でも、そうじゃなかったんだ」
獅子の攻撃を往なすと同時に投げ飛ばし、ユウリはしっかりとヘルガの方を見た。その瞳はしっかりと彼女を見据え、確かな決意を湛えている。それを認めたヘルガは、優しくもしっかりと少年の視線に応え、頷いた。
「僕はここにいる。僕は、皆は、生きている! 生きて、ここにいるんだ!」
光が、迸った。
少年の眼前に、一振りの剣が浮かんでいる。それは先程、彼がヘルガの傍に置いたはずの大剣。
現実として、この世界を受け入れた彼の心に応えるように、ユウリの愛剣──光神輝剣フラガラッハは、自分を揮えとその姿を現した。
ユウリはゆっくりと頷くと、その剣を手に取る。
獅子は、ユウリがネメアンライオンと呼ぶ不死身の魔獣は、突如として姿を現したその強大な力に恐れ戦き、恐慌の末、少年に襲い掛かった。そうしなければならないと、逃れられぬ定めに抗う為に。
右手に掲げられた剣を、ただ真っ直ぐに振り下ろす。無造作に振り下ろしただけの剣は、迫りくるネメアンライオンを正面から、真っ二つに切裂いた。迸る光が、振り下ろされる刃と共に襲い掛かり、光が通り過ぎた後には、森と山の一部を切裂いた後だけが残っていた。
少年は大きく息を吐いて、しっかりと眼前の相手を見つめる。自分が奪った命。そして自分が救った命を確かめるように。立ち込める血と臓腑の臭いが、ユウリの鼻を刺激する。胃から込み上げて来る気持ち悪さに耐えながら、少年は現実と対峙した。
その時、そっと目を覆うように、優しい手がユウリの視界を遮る。そして次の瞬間、頭を優しく抱えられて、硬い鎧に覆われた胸元へと引き寄せられた。
少し視線を上に向けると、ヘルガが少し困ったような顔で、微笑んでいる。だから、今はそれでもいいと思えてしまった。彼女の優しさに、今は素直に甘えていたいと、ユウリは静かに目を閉じて、勝利の余韻に浸る事にしたのだった。
剣からビームはお約束




