第十四話「毛深いお姉さんは好きですか?」
息が出来ない。呼吸する事を許されない。全てを滅ぼしかねない気配が、この場を支配していた。誰に言われたわけじゃない。ただその存在があること、その矛先がこちらに向かわぬように、誰もが息を殺していた。
「つまりこの勝負、私の負けだよ」
勝敗が決した瞬間。いくつもの呼吸音が聞こえてきた。ステラもその一人で、彼女が守るように抱いていたリリルトの少年マットも、震えながら必死にステラにしがみついていたのだ。
自分達に向けられたものではないと分かっている。だと言うのにこれほどの圧を感じたのは、自分の背負い袋に入っているはずの黒き竜の気配以来だ。今の一瞬、それほどではなかったとはいえど、それでもあれ程の力を、あの小さな身体から発していたのだとは、俄かに信じがたい。
こちらに顔を向ける少年の、気の抜けたふにゃりとした笑顔に、先程の存在と本当に同一人物なのか、よくわからなくなるのであった。
「あっはっはっ。なるほど、旅をするのが目的で冒険者になろうって思ったのかい! そいつはすまなかったねぇ」
冒険者ギルドに併設されている食堂兼酒場に、笑い声が響き渡る。その声の主であるヘルガは、とても気分が良さそうだ。
勝敗が決した後、ユウリ達とヘルガはこの場所で、軽く食事をすることになった。喧嘩を吹っ掛けたお詫びも兼ねて、彼女の奢りだとの事だ。
この辺りの酒場で使われるには比較的珍しい、丸いテーブルに四つの丸椅子に腰かけ、小さな宴会のような様相を呈していた。
「こっちは大迷惑よ。お陰で隠しておきたかったユウリの実力が、知れ渡ってしまったじゃない。こっちの旅に支障が出たらどうしてくれるの!」
「まあまあステラさん落ち着いて。僕は全然平気だからさ」
「貴方は自重や手加減ってものを覚えて! さっきの攻撃は何!? おまけにあの妙な力の波動! 精霊たちは慌てて逃げ出すし、あの場に居るだけで、わたしたちは皆殺しにされるかと思ったのよ!?」
「えぇええ!? ご、ごめんなさい……アレでも随分と手加減してたんだけどなあ」
ステラを宥めようと間に入ったユウリが、逆に怒られるという理不尽な目に合っているが、多少は彼の不注意もあるので、誰も口を挟まない。
あの時は誰もが、その場で死を確信した。ユウリの纏った気配はそれほどに強く、例えそれが自分達に向いていないのだとしても、逃げ出したくなったほどだ。
逃げ出さなかったのは、逃げられなかったからに過ぎない。身体が言う事を聞かず、身動きすら許されなかったのだから当然だろう。
そのお陰で他の冒険者たちは一切、ユウリに近寄ろうとはしない。遠巻きに見てはいるものの、格の違いという物を肌で感じた事で、絶対に触れてはならない危険物だと判断したようだ。
「アレで手加減……ねぇ。こりゃとんでもない新人が現れたもんだ。どんな生き方してたら、その歳でそんなに強くなれるんだろうね?」
「そんなこと言ったって……なんて言えばいいか、わかんないよ」
ヘルガの言葉に、ユウリは俯く。ゲームの中で得た力でしかなく、自分自身を鍛え上げたわけでは無い。しかしヘルガと剣で打ち合えるだけの技術や駆け引きこそ、彼の実力なのは間違いない。ゲーム中での経験によって磨かれてきたものとはいえ、彼の居た元の世界では、ある程度なら現実でも有効だと証明されている。
だがそれを可能にする肉体は、彼本来のものではないのだ。だからこそ周囲に強者だ凄い奴なのだと、賞賛されることを素直に喜べないのは、ある意味で当然だろう。
ユウリは本来の自分の非力さを、誰よりもよく知っている。だからこそゲームの中だけでも自由に、のびのびと体を動かすのが楽しかったのだ。
「旅の路銀稼ぎになるだろうって理由での、冒険者登録自体は悪くないけどね。それでもアンタたちだけで行かせるのは、不安だねえ」
ヘルガは隣に座っているユウリを抱き寄せながら、そんなことを言う。どうやら彼が随分とお気に召したらしい。そこへ不穏な気配を察知したステラが、ユウリの腕を掴んで自分の方へと引き戻す。
「何がどう不安か知らないけれど、貴女には関係ないし、明かせない事情という物がわたしたちにはあるの。そうでしょ、ユウリ?」
「え? 別に。ステラさんとマットだって、昨日会ったばっかりじゃん。そりゃあ、アレの事は言っちゃ駄目なんだろうけど……」
「ちょっと、そういう余計な事は言わないで!?」
彼女からすれば余計な事だろうが、事実は事実だ。都合が悪く成った彼女は、そのまま少年の頭を、自身の小さな胸に抱え込む。柔らかな胸を顔に押し付けられたユウリは思考停止し、オーバーヒートを起こしてしまった。
「へぇ……じゃあ、私が一緒でも問題ないわけだね。確かにそっちの人間の坊やは、恐ろしく腕が立つ。でも世間知らずと来たもんだ。お供は森から出たばかりのエルフに、出自の分からないリリルトの坊や。だったらもう一人くらい、社会や常識ってもんが判る、大人が必要だとは思わないかい?」
「なっ、冗談言わないで!? 大人ならこのわたしが居るから十分です!」
「そりゃ私の倍以上は生きてるだろうけれど、それにしたって不用心なもんだよ。アンタ、エルフとしては随分と若いんじゃないかい? さっき、そこのおっさんに言われるままフードを取っただろ?」
「そ、それがなんだっていうの?」
虎女の何気ない、しかしどこか凄みのある表情と言葉に、ステラは思わず上ずった声で返した。しかし気にも留めずに、ヘルガはそのまま続ける。
「本来ならフードをちょっとずらして、アンタの耳を見せてやるだけで良かったのさ。ここは冒険者ギルド。様々な理由と種族、過去を持つ奴らが集まる場所だ。真っ正直にフードを取って自分を晒すだなんて、世間知らずのお嬢ちゃんがやることだよ。それとも、そのユウリの坊やに、言い寄ってくる相手を片っ端から薙ぎ払わせるつもりだったのかい?」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「年長者を気取るなら、アンタは自分が思う以上に、周囲に気を配らなきゃいけなかったはずだ。それを怠ったからこそ、私がアンタ達には冒険者はまだ早いと思い、あんなことをしたのさ。そういった勘違いした貴族の坊やも、たまに居るからね」
ヘルガの指摘にステラは反論できず、唇を噛む。胸に抱いた少年は未だに思考停止から戻ってきておらず、だからか思わず彼を抱く腕に力が籠る。
「私はアンタ達を傷つけたかったわけじゃない。現実の厳しさってもんを理解した上で、まだ続けるってんなら止めないさ。そこまで根性のあるお坊ちゃんお嬢ちゃんは、少ないんだけどね」
そこまで言って彼女は、喉の潤す為にジョッキに入ったエールを飲み干す。実に豪快な飲みっぷりで、マットは思わずその様子に見惚れるほどだった。
「ふぅーっ。……でもその上で、先達としての忠告だ。人間の街、人間の法に不慣れなら、それに詳しい者、経験のある者を旅の仲間に加える事。その必要性は……アンタも判らない訳じゃないだろう?」
「そ……それは」
「私もそろそろ、この街には飽きてきたところでね。この辺りじゃどの国に行ったところで、亜人の扱いなんて変わりやしないんだけど、ここは大分マシな街だったよ。相変わらずどこも亜人の奴隷は多いけど、それでもここは自分の実力で勝負をさせて貰える程度には、ね」
少しだけ哀し気に、諦観を含んだヘルガの瞳は小さく揺れ、しかし誰にも悟られぬように目を閉じる。再び目を開くと、今まで通りの鋭い獣の眼に戻っていた。
そんな彼女を見ていたマットは、無意識に彼女の手に触れる。それに気付いたヘルガは、優しく笑って少年の頭を撫でた。その手つきは穏やかで優しく、子を慈しむ母のようでもあり、行き場のない寂しさを紛らわす少女のようでもあった。
「でっかいネコのねえちゃん。大丈夫?」
「ははっ、随分可愛い呼び方だね。でも私の事はヘルガと呼んでおくれ、おチビちゃん?」
「おれはマットだよ。よろしくな、ヘルガねえちゃん」
「ああ。よろしくマット」
微笑ましいやり取りをする二人を他所に、ステラは熟考する。旅をする以上、魔物との戦いは免れない。ユウリが規格外な実力を持っているお陰で、よほどの相手でも出て来ない限りは、早々危機に陥るという事もないだろう。
そうでなくても、守護者である強大な黒いドラゴンが付いている以上、敵など居ないと言っていい。
しかし仮に、彼とはぐれるような事があればどうなるか。非道を行う人間と言うのは、自分達では想像もつかないような悪辣な方法を使って他人を陥れ、亜人種を奴隷にする事もあると、六十年ほど前に里に寄った旅のエルフから聞いている。
万が一が無いとは限らない。現にマットはつい昨日までは奴隷だったのだ。
彼はリリルトという、成人しても今と殆ど姿が変わらない、小人とも呼ばれる種族。その姿は愛らしく、愛玩用の奴隷として捕まることも少なくないと言う。
人間は他種族のみならず、同族でさえ奴隷として支配しようとする欲深い連中だ。彼らの領域に居る以上、隙を見せるべきではないだろう。
この旅は決して失敗など出来ない。エルフ族の誇りにかけても、万が一があってはならないのだ。ならば使えそうなものは、何でも使うべきではないのか。彼女はそう自分に言い聞かせる。
「ユウリ。……あなたは、どうしたい?」
ステラがそう問いかけると、控えめな柔らかい二つの丘に顔を埋められていた少年は漸く再起動して、少し苦しそうに顔を上げた。どうやら呼吸が上手く出来ていなかったらしく、大きく息を吐いた。
「僕は……ヘルガさんの事、嫌いじゃないよ。凄く強いし、でもちゃんとあれで手加減してくれてたし」
「……手加減?」
「うん。何合か剣を合わせたけど、全部致命傷になりそうな一撃ってのはなかったんだ。精々腕とか足に狙いを絞ってた感じで、多分僕が負けたとしても、寸止めしようとしてくれたんじゃないかな?」
それは互いに剣を交えたからこそ、互いに実力がある者同士だから、理解できる領域だったのだろう。その言葉を聞いたからだろうか、いつの間にかマットを膝の上に乗せていたヘルガは、人知れず感心したような表情を浮かべていた。
「あの、ステラさん……そろそろ離して」
「え、あっ。ご、ごめんなさい」
顔を真っ赤にしながらそう訴えるユウリを見て、ステラは漸く自分が何をしていたかを思い出す。公序良俗と言う面で見ても非常によろしくない、非常識な行動だと捉えられてもおかしくはないだろう。
すぐに少年を解放すると、ステラ自身も自分の迂闊さに思わず頬を染めるのであった。
「は~……仲の良い事で。で、ユウリ。どうやらこのパーティの決定権はアンタにあるようだけど、どうするんだい?」
マットと微笑ましいやり取りをしながらも、こちらにはしっかりと注意を向けていたヘルガが、にやにやと笑いながら言う。
「あ、えっと。うん。僕のほうこそ、よろしくお願いします。ヘルガさん」




