狐に嫁入り
眼下に走る景色を眺めていた。
少女が自身の通うダンススクールで合宿を受けるのは、これで三度目だった。今回はやっと人気所の予約が取れたと、講師達が嬉々として話していたことを思い出す。体にゆっくりと伝わる振動の中、生徒一同は講師の話に耳を傾け始めた。
「もうすぐ着くぞ。何度も言うけど、これから行く場所は神社の隣にある旅館だ。人の出入りも多い。合宿だからといって自分を見失わず、羽目を外さず。各自、技術と心を磨くように」
生徒達が口々に返事をする。少女は神社という単語から、重ねて講師の話を思い返していた。
神様に対して人の思いを見せるために、屋敷に子供を招く。それが、旅館が学校や塾教室向けに、門戸を開く理由なのだそうだ。
神様。本当にいるのだろうか。何を以てすれば、神様になるのだろうか。私達の思いを見て、どのようなことを思うのだろう。車窓に流れていく景色が落ち着き、木々に囲まれた場所で止まった。
生徒一行が旅館に入ると、旅館の主を筆頭に、様々な従業員の出迎えを受けた。なるほど、丁寧だ。かなり山間に位置する旅館であるのに、人気とはどういうわけかと思っていた、少女の疑問が消えた。
旅館の造りは古めかしかった。明治、大正…。それよりも以前にありそうな、和風の造り。玄関から真正面に飾られた狐の絵に一瞬、少女は見入る。建物の造りは古そうだったが、かなり綺麗に手入れがなされていた。人が来る場所だからか。少女の頭に、また一つ疑問が増えた。
一行は部屋に通され、改めて今季合宿の説明を受けた。今来ているのはダンススクールだけだが、後々、同経営の弓道や、書道教室の生徒も合流する。広い旅館で、自分達の他に団体は少ない状態だが、慢心せず、騒がないこと。繰り返された説明に、生徒達は再び返事をした。
とはいえ、はしゃぎ始める生徒達の中で一人、少女は浮かない顔をしていた。合宿で知らない建物に泊まる際、毎度抱く不安であった。
「大丈夫か?」
案の定、見かねた友人に声をかけられた。正直、ちっとも大丈夫ではない。きっとこの広さ、迷うに決まっている。こわいと言った少女に友人は優しく笑い、迷ったら探すと勇気付けた。
どういうわけか、少女は地図が読めないのである。いくら目を通しても、言葉で注釈をつけたとしても、うまく行かず迷子になる。地図と現実の空間を照らし合わせられない人という認識が、スクールの仲間に共通である程だった。
まずは最初の課題として、面談を行う。講師のその言葉に、荷物を置いた生徒達は、所属するクラスに分かれた。待機場所は、一階と二階の広間。講師達はそれぞれの階で二部屋に分け、生徒を呼んでいく流れだった。
少女は早速、混乱し始める。というのも、少女は一階で待つこととなったのだが、属するクラスの講師は、二階で待っているのだ。同じように、別のクラスは二階で待ち、一階にいる講師の下に赴くという具合だった。どうしてそんな風に分けるのかという疑問を投げる間もなく、少女は貼り出された地図と反目した。なるほど、両方の部屋から伸びる廊下に、階段がそれぞれあるのだ。だから出入りは滞らない。いやしかし、場所を逆にする必要はあったのか…。
「先生、やっぱりこの地図分かりませんよ」
講師は苦笑した。真上の部屋だ、地図を見なくても行けるだろうという言葉を飲み込み、階段を上がって右だと諭す。分かりやすいように、部屋の色分けまでされた配慮は裏目に出ていき、少女の脳裏には、青という色が強く残った。階段上がってすぐの青い部屋。よし、覚えた!
快活な響きで、少女の名前が呼ばれた。今までの不安はどこへやら、つられて快活に返事をして、少女は廊下に足を踏み入れる。階段はすぐ斜め前にあり、安堵に胸を撫で下ろした。これなら迷うこともない、真っ直ぐ辿り着ける。しっかりとした足取りで、階段を上がった。
ぐらりと世界が揺れた。甘い匂いが漂ってくる。これは眩暈か、自分の足が体勢を崩したのか…?
階段を上がりきった少女は、二階の廊下に出た筈だった。真正面は、水墨画のかかった壁。風景画のようだった。右斜め前には、床の間。壺に入った、綺麗な桃色の花が飾られていた。風流だなあなどと呑気に思い、少女は先に進もうとした。はて、どちらに行けばいいのか。階段を上がって右だ!と主張していた講師を思い出し、右に向かって歩を進めた。
先程いた部屋の真上なのだから、この部屋で合っているはず…!期待をこめて、少女は襖を開ける。しかしそこには、誰もいない和室が広がっていた。本当に、あの距離で迷子になってしまったのだろうか。少女はいよいよ、自分の身を案じ出す。そして鬼の形相をした講師を思い浮かべ、急く気持ちが右へ右へと足を進ませた。
そこから一体、どう通ったのであろうか。もう道筋を覚えてはいなかった。長らく歩いた足に痛みを覚えた。まさかと思い、階段を一度下った。先程までいた筈の一階にすら、辿り着けないでいた。
急に拓けた場所に出た。白い砂が敷き詰められ、所々に飛び石が浮かんでいる。昔の庭のようだった。少女は思わず足を止めた。途端、静まり返っていた世界に、人の声が微かに聞こえ始める。再び、少女は歩を進めた。
声がした方向の襖を開ければ、そこには、書道を習う生徒達がずらりと並んでいた。じわり、じわり。ゆっくりと、墨が半紙に滲んでいく。書道の生徒達がここにいるということは、面談からとうに時間が過ぎていることを示していた。
少女は、生徒達の邪魔にならぬように部屋を抜け、奥の襖に手をかけた。開かない。立て付けが悪いのか。手を離した時、後ろから風を切る音が聞こえた。つられて振り返れば、先程は見えなかった右手の縁側に、弓道の生徒達が見えた。きりきりと弓を構え、的を狙っている。聞こえたのは、矢が放たれた音だった。
どうして見えなかったのかと思えば、打掛が縁側を隠していたからである。桃色と金色に、赤色の布。一体誰が着るものなのか。そもそもこんな華やかな着物、どうして部屋に入った時に気が付かなかったのだろうか。少女は、さらに疑問を増やしていく。
部屋を忍び足でそっと出て、襖を閉めた時に、少女は気付いた。今、誰も自分に気が付かなかったのではないか。別の教室ゆえ、知る者はいないが、そもそも自分がいることにすら、気付かれていないようであった。
「はい、皆集まってる?」
声が後ろから聞こえた。即座に振り返れば、十数秒前まで襖の向こうにいた生徒達が、中庭を挟んだ奥の廊下に消えていく姿が見えた。どうして。少女の指先に、震えが走った。確認しようとしたが、襖は開かない。恐怖がにじり寄ってくる。擦れ合う細やかな音が聞こえ、少女は再び顔を上げた。
燦々と日が高く差し込んだ中庭を取り囲む廊下に、忙しなく、女達が行き来していた。先程見た、桃色の打掛を着ている。彼女達はどうやら、中庭に向けて御膳を立て、食事の準備をしているようだった。女達は顔が白かった。舞妓のようだと少女は思う。髪は艶のある黒で、歩く度に音を立てているのは、金の髪飾りであった。
そして彼女達も、まるで少女に気付かずに目の前を通り過ぎて行くのだった。
恐怖に添って、孤独感が現れる。もうここは、自分がいたあの旅館ではないのではないか。本当に、どこかに迷い込んでしまったのではないのか。不安で痛む胸を抱え、少女は力なく廊下を進み始めた。
廊下の壁に見えた箇所は、衝立で区切られていた。細い階段が続いている。先は真っ暗であり、何も見えない。もうここを下りていくしかないのか…。こぼれそうな気持ちを抑え、少女は一段、また一段と、先の見えぬ地下へ誘われていった。
薄暗さに目が慣れていく。また左右に続く廊下だった。しかし、今までとはどこか雰囲気が違っていた。少女は、その理由が襖から漏れる明かりであることに気付き、固唾を呑んだ。明かりがあるということは、何者かがいるということになる。果たしてそれは、自分が出会ってもよいものなのだろうか。悩んでいる場合ではなかった。手や足の先に、疲れが溜まっていた。
早く、早く己に気付いてくれる存在に出会わなければ、何もかもを見失ってしまいそうな気がしていた。
そっと入り込んだ和室には何もなく、明かりはさらに、奥の部屋から見えた。明暗揺らめく光を見て、少女は一瞬、身を固くした。この襖の向こうに誰かがいるのだ。しかし、背に腹は代えられなかった。何者でもいい、自分を認識してくれるものに出会いたい。滑るように開いた襖の先には、男児がいた。
襖の音に耳をひくりと動かせ、男児は少女を見やった。座椅子に腰かけ、行灯の火で読書をしていたようだった。黒髪に薄い色の肌を持つ男児の頭には、耳が凛と立っていた。毛並み豊かな九本の尾が火に照らされ、動く度に一つの生物のように見えた。…狐か。少女はその威圧感に声を忘れた。
「客人か」
品定めるように微笑み、男児は体を少女に向けた。わさわさと尾が揺れ動く。しかし、不思議と重さを感じさせないものであった。
「襖を閉めて、こちらに寄るといい」
声にざらつきはない。静寂に深く解け、波のように響いた。少女は逆らう気も起こさず、丁寧に襖を閉めた。男児の方に向き直り、一歩、近付こうと足を踏み出す。
途端、再びあの眩暈が襲った。
「ああ、いけない」
崩れ落ちるように倒れ込んだ少女は、心地の良い感触に受け止められた。それが男児の尾なのだとは気付けたが、頭に伸し掛かる重い力に息すら出せない。
「君は間違いなく人の子だね。こちらの気は、人の子にとって毒だよ」
言い終わるや否や、男児は少女に近付き、額にしっかりと口を付けた。つうと少女の目から涙が伝い、解放された吐息が舞う。口を離した男児は少女の頭を撫で、涙を掬った。
「私の力を、少し分け与えたよ。これで暫くは、この世界にいても大丈夫」
尾の支えからも解放され、少女は体を起こした。
「どうも、ありがとうございます…」
精一杯の礼を告げた。ここは一体、どこなのか。目の前にいるあなたは誰なのか。耳と尾、どう見ても作り物ではない…。様々な思いを秘めて発された声は、思っていたよりも暗いものだった。
少女のか弱い声に、男児はどこか嬉しげな表情を見せ、改めて向き直った。
「どうやら天狐は初めて見るようだ。私のことは、こう、とでも呼んでくれ。字はこう書く」
自分の手のひらに書かれた、煌めくという字に、少女が頷いた。言葉と文字は通じる相手のようだ。男児、もとい天狐は少女に訊く。
「君の名を教えてくれるかい?」
少女は少しばかり思考を巡らせ、自身の名を答えた。苗字はもう思い出せなかった。いい名だ。ところで…。天狐は喜色を消した。
「君はどうやってここに来たんだい」
背筋がぞくりとする。それは問いかけではなかった。来てはいけない場所であるのに、どうして来てしまったのか。声色に微かな咎めが含まれていた。言われなくとも、痛いほどに分かっていた。ここは何かが違う。時間や、空間…。自分が今までいた世界と、法則が異なっている。
「ここはね」
冷から一転、天狐は微笑みを戻した。ここは、人とは別の種族が住む世界。天の狐の世界なのであった。ゆらゆらと嬉しそうに尾が揺れた。
「屋敷に入ってから、何か変わったことはなかったかい」
鋭い声色でぶつけられた問いに、少女はやっと言うべき言葉を見つけた。
「階段で…階段を上がった時に、眩暈がしたんです。上がりきった先の床の間には、桃色の花があって」
甘い匂いが漂っていた。話を聞いた天狐は目を瞠り、すっと細めて思案げな顔付きになる。
「それは呪いだね」
ああ、やはりそうなのか。本当にこの世界に、迷い込んでしまったのか。少女は俯いた。その呪いは禁術。狐が結界を潜らせるために、人の子にかけるもの。事務的な説明を置いた天狐の目は、少女が故意に連れてこられたことを物語っていた。
「それって、出ることはできないんですか」
声に少しの嗚咽が混じった。少女は泣いているわけではなかったが、泣きたい気分だった。喉が苦い。夢か現か幻か、そんなことよりも、残してきた者達に会いたかった。そうだろうねと天狐が頷く。
「少なくとも、今の所はね。呪いは、呪いをかけた本人…この場合は狐か。その狐にしか、解くことができないから」
誰が犯人か判らないようじゃ、お帰りはお預けだね。天狐は慰めるように、少女の頭を撫でる。さて、この子はどんな反応をするのだろうか…。
すうと大きく深呼吸をして、少女は顔を上げた。天狐の嬌艶な瞳と強くぶつかる。半ば引き込まれるように言い放った。
「煌様。この世界のことを教えて下さい。呪いをかけた相手を見つけるために」
またしても天狐の目は大きく開かれ、関心が心の縁を彩っていく。なんと強い瞳をした少女であろうか。この魂、逃すには惜しい。悦に口元が歪み、弧を描いた。少女を囲むように尾が動く。
「いいだろう。教えてあげようとも。一つ一つ、丁寧にね。その代わり…」
もう少女の瞳には、天狐の姿しか映っていなかった。先程分け与えた力がなくなれば、この世界で生きては行けなくなるから…。甘い囁きを耳元に受ける。
「君は私の傍に。ずっといることだね」
心地良い感触に包まれた。そっと頬を撫でられる。お互いの吐息が重なっていく。奥底で橙が光る獣の瞳に、少女はうっとりと頷きを返した。
とっぷりと日が暮れた頃、天狐のお付きの狐達に事情が話された。狐達の格好は様々で、天狐と同様に、人の姿で耳と尾を持つ者がいれば、顔に狐の面影を残しつつ、耳と尾を隠している者もいた。男狐は落ち着いた色合いの和装、女狐は華やかな色合いの和装と定められているようだった。
狐達は最初こそ驚きはしたが、長く生きているためか、順応は早く、たちまち少女に夕餉の用意がなされた。
「呪いの方は私共で調べておきますので、御嬢様はどうぞお寛ぎ下さい」
落ち着いた声の男狐が丁重に頭を下げ、襖を閉めた。少女は出された白米を食べた時、やっと空腹の感覚を思い出した。何も意に介さず、目の前で物を食べる少女を見ながら、天狐は目を細める。そうして徐に語り出した。
狐が結界を潜らせるためにかけた術は、時の流れが重要になる。狐の世界と人の世界、普段は同じ流れだが、稀に、人の世界の時が早まることがあり、その時にかけると成功するとされていた。世界の理を乱すため、術は禁じられている。知った上でかけられる程の力を持つ狐など、そう多くはいないのだった。少女が理解に頷くのを認め、天狐は続けた。
初めに少女が迷っていた場所は、天狐のいる屋敷ではなく、門の近くに建てられた、侍従達が住む所であった。少女の世界と繋がってしまっていたのはそちらであり、人の子の気配に気付いた天狐が、この屋敷と繋げ、少女を寄せたのだった。
呪いに呪いが重なったようなものだねという言葉に、少女は納得した。
「それって、誰かに気付かれていたらどうなっていたんでしょう」
「そうだね…。びっくり仰天、狐の世界はてんやわんやの大騒ぎだっただろうね」
おどけた芝居口調で天狐は言った。食べられてしまっていたかも…などと脅し、少女の様子を窺う。しかし、天狐の予想に反して、少女は笑みをこぼした。
「じゃあ、救ってくれたってことですよね。ありがとうございます、煌様」
はあ、容易い娘だ。天狐の尾がゆらゆらと動く。少女に夕餉を食べないのかと訊かれ、微笑んだ。この世界のものはすべて幻術。食べるのは人の思いだよ。少女は咀嚼した人参の甘煮を好物だなと感じながら、記憶の奥底に漂う、誰かの言葉を思い出していた。神様に対して、人の思いを見せる…。一体、誰の言葉であっただろうか。
夕餉の後は湯浴みだった。どうやら狐は、湯浴みの方が好きらしい。天狐は楽しげに尾を揺らしながら、少女に迫った。
「どうする?私と一緒にするかい」
一瞬の間が空き、少女はきっぱりと答える。
「遠慮したいです」
「何もそんな真面目な顔で言わなくてもいいだろう」
天狐が残念そうに手を振ると、はい!という声とともに、子狐が部屋の襖を開けた。女の子狐なら、問題ないだろう。少女は頷き、暗い廊下を快活に歩いていく子狐について行った。尾は一つで小さいものの、ふさふさと揺れている。耳も隠す気はないようだった。
「わたし、元々名前はないんですけど。御嬢様には不便ですよね。何か呼び名をつけて下さい!」
人というのが珍しいのだろう。弾ませた声に少女はしばし思案し、子狐の好物を訊いた。狐は確か、油揚げが…。
「お餅です!あの歯ごたえ、味の種類、何をとっても、お餅に勝るものはありません!」
狐が油揚げを好きというのは違うのだ。そう力説した子狐の名は『おもち』に決まった。そもそも肉食なんですから、油揚げは歯ごたえがないです!
湯浴みが好きという情報通り、浴場は設備よく作り込まれていた。木張りの壁、床には簀子。台や桶まで、すべてが木で組まれている。少女は、すべてが幻術ならば、特に洗う必要もないのでは…と思ったが、嗜好は人それぞれ、狐それぞれということなのだろう。
戸を開けた時から終始、ここには甘い匂いが舞っていた。それは階段で嗅いだ匂いとはまた違うもので、少女は湯船に浸かりながら、何の匂いだっただろうか…と思考を巡らせた。上がってから用意された服を着て、おもちの顔を見た時、唐突に閃いたのである。
「綿飴の匂いだ!」
おもちの耳が目覚めたように伸びた。分かりますか!今の流行りは、あの木の匂いなのです。厳密には、葉の匂いなのですが…まあ、ともかく流行りなのです!ちなみに綿飴自体は、歯ごたえがないために不評だという。少女は頷いた。なるほど、この世界の基準は歯ごたえのようだ。
月がひっそりと輝く頃、狐達は眠りに就く。それは少女も同様であった。
「と、隣の部屋じゃあだめですか」
「構わないよ。君が独りで寝られると言うのならね」
少女はたじろぐ。部屋には行灯しか光がなく、消せば闇に包まれてしまう。この世界にも慣れてきたつもりではあったが、まだ独りになるのは怖いのだ。かといって、天狐とともに寝るというのも…。などという迷った思考は、ふわりと心地の良い感触に絡め取られた。尾に包まれるという極上の寝心地には逆らえず、少女は瞬く間に、眠りに落ちて行った。
よもやこれほど、無防備な顔を前にして。天狐は、少女の頬をそっと撫でた。魂は死ぬまで甘やかすに限る。最上の幸こそ、最上の悦よ…。行灯の火が消され、天狐の目が閉じられた。
翌朝。夢心地に揺られる少女を愛で、天狐は目を細めていた。優しい夢を見ているのか。湯の甘い匂いが微かに香る。暫くして、襖の側に影が動き、天狐は夢の終わりを思った。
「お早う御座います、煌様」
お付きの男狐が起こしに来るのは毎朝のことだが、今日ばかりはもう少し夢を見ていたかった。お早うと返し、少女の名を呼んだ。少女は唸りながら体を捩らせ、一層天狐に近付く。その小さな耳元に口を寄せ、再び名前を囁いた。
「起きたね」
「…はい…」
惚けた顔の少女に微笑み、男狐を下がらせた。このような顔を、他の狐に見られては困る。特に雄には…。
顔を洗い、しゃっきりと目覚めた少女と天狐は、朝餉を囲んだ。少女があまりにも感情を出して食べるために、天狐は思わず、ともに食べてしまおうかと尾を震わせた。
「そういえば、どうして九本なんですか?」
少女は、天狐の尾が九本であるのに対し、他の狐が一本の尾を持つことが疑問だと言った。どう分かりやすく告げたものかと、天狐は言葉を選ぶ。
「九尾の狐、という言葉くらいは聞いたことがあるだろう?」
「はい。長生きする狐、でしたっけ」
九本の尾を持つ狐は、狐の世界で天狐と称される。特に長く存在し、強い力を持ったものなのだ。天狐は続けて、狐を語る。
元々この地に、黒い狐…黒狐がいた。普通の狐と色が違うために、人々からは瑞獣とされ、祀られた。しかし所詮は動物の狐、人の思いで生き延びられるわけがなかった。命が失われたことに落胆した人々は、この地に塚を建てた。それから辺りで死んだ狐は、すべて塚に埋められた。人々の祀りも続けられ、再び目を開けた時、黒狐は魂の存在となっていた。
「じゃあ、煌様は神様…なんですか」
天狐は首を横に振った。狐のまま祀られ続けたのだから、神ではない。自然のような力もなければ、人に寄り添い暮らすこともできない。幻術で、世界を晦ませるだけが関の山だった。
「人の思いで生まれたというのに、その思いを喰らわねばいけないというのは、寂しいものだよ」
翳りの差した端正な顔立ちに、少女は思いで生まれる存在があることを知った。これが人にとって壮大な夢でも、きっとこの世界はここにあるのだ。狐の魂が存在し、動き、営まれる世界が確かにある。
朝餉を食べ終えた後も、天狐は少女の疑問話に付き合った。中庭に面した廊下で御膳の準備がされていたのは、領域外の狐達に与えるためだという。
「こちらに来そうになっている狐達にね。すべてが救われるわけじゃあないけど、たまに戻ってくれることもあるんだ」
少女は呪いの話を切り出した。繋がっていた場所の屋敷に住む狐がやったのではないか。天狐も頷き、男狐達がうまく調べてくれているよと返した。その穏やかな声に、言葉が詰まる。
本当はもっと、訊きたいことがあった筈なのだった。しかし少女には、今までに何を疑問に思ったのか、そもそもどうしてこの屋敷に来たのかすらも、思い出せないでいた。食べ物のことは覚えているのに、自分の家がどんなものであったかは思い描けない。もうずっと昔から、古い作りの家にいたような気さえしていた。
その日も昼餉、夕餉、湯浴みと営まれ、少女の魂が狐の世界に馴染み始めていた。天狐は愛おしいとばかりに尾で包み、眠る少女を、一息に食らう極上の夢を見るのだった。
何度目かの朝、少女は天狐の声で目を覚ました。そのまま、顔を洗いに出向く。ぬくもりのある目覚めで日毎緩み行く少女の魂を、廊下の影から男狐が見つめていた。少女のことを知る狐なら、未来に予想はつく。ほころんだ顔で毎度食事の礼を告げる姿に、忍びなさと愛慕が募って仕方がなかった。
この日、天狐は少女を屋敷の裏手に連れ出した。そこは普段、お付きの狐も入ることが禁じられている、天狐だけの場所。季節を問わず、桜が爛漫と咲き続ける夢の舞台なのであった。
「桜、お好きなんですか」
綺麗という言葉では物足りないと思い、少女は問いをかけた。天狐はゆるりと頷いて答える。
「人の子の世界で、最も綺麗なものだと思うからね。年に一度は、皆を入れて花見もするよ」
天狐は、後の言葉を空に飛ばした。少女には聞こえていないようだった。君もいずれ、ともに見られる。
桜は何も知らぬように、あるいはこの先を見通しているかのように咲き誇る。すべては天狐の見せる夢。まやかし。幻術の極みが、嫋やかな桃色の空に広がっていた。
それから、数日経ったある日。今日も今日とて、少女は顔を洗いに廊下を歩く。最近ではおもちが合流して、ふたりで顔を洗うという日課になっていた。仲睦まじい様子を窺う視線があることに、天狐は部屋で苛立ちを隠せずにいた。尾が跳ねるように大きく揺れ、どうしたものかと考える。しかし少女が戻る足音を聞くなり、品を戻し、さあ今日はどんな話をしようか、本を読もうかと、笑みを見せるのであった。
昼過ぎのことである。天狐が男狐に呼ばれ、少女は部屋に独りで残されることになった。おもちを呼ぶかという言葉に、本を読んでいるので大丈夫だと少女は返した。紙を捲る指から、ふと力が抜けた。思えば今まで、この屋敷に独りで残されたことはなかった…。襖に、影が映る。
「御嬢様!おもちです」
驚いて顔を上げ、襖を開けた。なんだ、やはり天狐が寄越したのか。そう思ったが、どうやら違うらしい。子狐は少女の手を引き、教えたいものがあると歩き始める。おもちが元々離れた屋敷にいたと聞いたのは、一昨日だったか。疑問を浮かべた少女の足は、好奇心に勝てず、子狐に導かれて行った。
同じ頃。自室から離れた部屋で、天狐は食えない狐と向かい合っていた。男狐達の調査によれば、少女に呪いをかけた者は、ほぼこの狐で間違いないのである。死んでから数百年。お付きに上げてから百年余。力は申し分ない。少々賢しらな言動があり、いかにも己の力を試したいと見える性格だった。
少女の存在を知っても表情が変わることはなく、いずれ食らうのかと、腹を探る目付きを返す。実に食えない。食っても美味くないだろう。天狐が眉間に皺を寄せた、その直後だった。少女にかけた力の感覚が、この屋敷から外れたことに気付く。目を瞠り、尾を揺らし、機嫌の悪さを高らかに引き連れ、すべてを男狐に押し付けて、部屋を後にした。
そして所は、屋敷の廊下に変わる。天狐の住まう場所とは離れた屋敷であり、既に少女は、道程をまったく覚えていなかった。首に刃を突きつけられた状態で、反芻も何もできるものではない。
「ここ数日、煌様の屋敷から妙な匂いがしておるのよ。この目には耳と尾が見えるが、妙な匂いの出処はお前のようだ。もしやその耳…」
刃を突き立ててきた狐が、目に獣の眼光を宿した。動物のままの姿で受ける迫力に、少女の怯えが加速する。子狐はこの狐の幻術であり、まんまと誘き出されたというわけだ。
少女の狐耳らしき部分や、尾らしき部分を深く揉んでは、狐は口元を歪ませた。どうも触りが確かではない。どう決めたものか…。念には念をと少女にかけた幻術が、天狐に危機を報せていた。
「決めたぞ。体を見れば判ることだ!」
食らうような笑みとともに吠え、狐の指が少女の纏う襟を引いた。柔肌に爪が当たり、ちくりと痛みに目を瞑る。
次の瞬間、力一杯に身を抱かれた。鼻を付く微かな雄の匂い。頭上に見えるのは紛れもなく、怒り心頭な天狐の表情。少女は行く先を悟る。
「幻術を用いてまで私の供を連れ出すとは…」
低い天狐の声は、狐には届かずじまいであった。壁に草臥れて意識を失っている狐に、行き場のない怒りが込み上げる。屋敷から離れた場所にいては、少女の存在を他の狐達に気付かれる恐れが高い。この狐には相当の仕置が必要だが、後回しだ。この娘は私のものだと抱く腕に力を込め、天狐は風のように、自室へと駆けたのであった。
畳の上に優しく少女を下ろした天狐の目は、胸元の紅に引き寄せられた。
「これは…」
「…爪を…立てられてしまって…」
もう血は止まっているし、痛くないから大丈夫だと、少女は告げようとしたが、天狐の顔が近付いて、口を噤んだ。そっと薄桃色の唇が傷に当たる。濡れた感覚に、身を震わせた。離されると、紅は見る見る内に透き通り、跡形もなく治っていった。
「煌様…」
自身の胸元が見えない上に、ずっとそこに顔を埋められては困る。もう大丈夫だと言う天狐の声は穏やかで、落ち着いたようだった。
その後、正座をした少女は、しばらく天狐に説教を受けたのだった。私の部屋がある屋敷から出るなと言わなかったか。狐は幻術を使うのだ、連れ出そうとするものに安易について行ってはいけない。何度も謝り、眉尻を下げた少女に、天狐は気を抜いた。
「怒っているわけではないよ」
ふわりとふわりと、天狐が少女の髪を撫でる。ごめんね、やはりお供をつけるべきだった。すぐ部屋に戻るべきだったね。怖い思いをさせてごめんよ…。ゆっくりと優しく抱き、髪の匂いを吸った。心配という言葉を秘め、天狐の手は小さな頭を撫で続けた。
雄の匂いと温もり。少女は抱き返してよいものかと、迷うようになっていた。きっと、この手が思いを返したところで、それは叶わないのに…。
夕餉の際、お付きである男狐は微笑んで、あの狐には罰を与えましたのでご安心下さいと、少女に告げた。罰が何であるのか、一体どういう経緯で少女の存在が暴かれたのかについて、天狐も男狐も、明かす気はないようだった。穏やかに少女を見つめる男狐の顔を見ながら、天狐は尾を揺らしていた。
膳を下げた後、少女を迎えに来たおもちの耳は、いつになく項垂れていた。事の次第を聞いたのであろう。天狐は特に言及せず湯浴みへと促したが、おもちは脱衣場で、黙ってはいられないとばかりに頭を下げた。
「申し訳ありません!まさかわたしの姿が囮に使われるとは…」
御嬢様を危険に晒してしまい、もうこのようにご案内するお役目も、辞めた方がよいのではないかと…。泣き声になっていくおもちに慌てて、少女が否定を返す。別におもちが悪いわけではない。悪いのは幻術を見抜けなかったり、危機管理が甘かった自分であって、決しておもちのせいではないのだ。
「だからやめるなんて言わないで。私、おもちがいてくれて、随分と助かってるんだから」
目を閉じ、きゅっと口を結ぶおもち。涙を堪えるつもりらしい。深く呼吸を繰り返し、改めて少女に向き直った。
「では!御嬢様が今後騙されぬよう、一緒に湯浴みをしましょう!」
溌剌とした笑顔を見せ、耳と尾をぴんと立たせた。勢いよく手を握ってきたおもちに、少女は笑みをこぼす。
「実は、もう許可も取ってあるんです!あと、最近使っている、泡の石鹸を持ってきたんですよ!」
きゃいきゃいとはしゃぐこの子狐、最初からともに入るつもりでいたのでは…。少女は、涙を堪えたのも演技だったのかと笑いながら、着物の帯を解いたのであった。
甘い綿飴の匂いに包まれながら、ふたりの手が泡を立てていく。少女は、気になっていた狐の処遇を訊いた。おもちが思案顔になる。
「正直、わたしにはあまり、細かい話は降りてこないんですよね。下っ端なので。でもそうですね、御嬢様に手を出したともなれば…」
泡を乗せた小さな手から、おもちは大きめの玉を飛ばした。泡の玉は、辺りの光を反射しながらふわふわと漂い、格子の窓から、外の闇に吸い込まれて行った。
「…伝わりました?」
「…この屋敷から出ていくってこと?」
大体そうです!とおもちは頷く。天狐の持ち物に手を出したともなれば、この屋敷、及び天狐が治めるこの世界にいられる道理はないのだ。他にも煌のような天狐は存在し、幻術で作られた世界がいくつがあるが、一度騒ぎを起こした手前、汚名を雪ぐのは難しい。
「わたし、以前は、御嬢様を襲った狐と同じ屋敷にいたんですよ。その狐は、いつも人について知りたがっていました。…もしかしたら、引き抜かれたことで、勘付かれたのかもしれません」
そういう意味でも自分が悪い。声を落として言ったおもちに、少女は勢いよく、その背中についた泡を削ぎ落とした。衝撃に尾が立つ。
「折角泡立てたのに!」
「落とされたくなかったら、自分のせいだって言わないこと!」
おもちは尾から力を抜き、困ったように笑って、再び泡を立て始めた。何かを洗うというより、泡に包まれるということの方が、ここの狐にとって、湯浴みとして重要らしかった。
泡を纏ったおもちが手を鳴らせば、湯が張られていた浴槽は、一瞬にして大量の泡に変わった。感触は湯のままのようだ。舞台を泡の中に移し、ふたりの話は続く。
この屋敷にいる狐は、何百年も前に亡くなった者が多かった。人を避け、野山で生活していた狐ばかりである。そのために、人を珍しがるものが目立った。
「それって、おもちもそうなの?」
「はい。わたしもそうです。わたしは茶色の、何の変哲もない、ごく普通の狐でした」
名もなき子狐は、生まれて一年も経たない冬、親に見放されて彷徨い始めた。挙げ句、飢えて体を地に横たえた。そのまま雪に埋もれてしまうのかと思われたが、人に担がれ、気付けば塚に埋められていた。再び目を開けた時、そこには広々とした屋敷が広がっていた。目覚めた子狐は、人のように立って歩くことができたのだった。
「驚きましたよ。狐がこんな世界を築いていたなんて」
少女は頷いた。同時に、人の世界がどんなものであったか思い出せないことを悔やんだ。こんな風に、泡の湯浴みをしたことはあっただろうか。浮かない顔の少女とは反対に、おもちは目を細めた。
「わたしは幸せ者です。どなたかは存じませんが、人に助けていただいて。こうして御嬢様とお会いできて。力がないので、こちらの屋敷に来ることはないと思っていました」
柔らかな声色につられ、少女の頬も緩む。どうやら、おもちはこれ以上幻術を維持できないらしく、浴槽の底から、音を立てて湯が上がってきていた。
会話の話題は、狐の力に移った。狐の魂が持つ力というのは、動物のままで生きた時間と、魂の世界で過ごした時間によって、決められるという。動物の時分に長く生きていれば、器が大きくなり、こちらの世界で修行をすることで、力が増す。天狐のお付きになるには、気が遠くなる程の時を過ごさねばならない。
「わたしは元々器が小さいので、力がないんです。鍛えても鍛えても、今以上に強くはなれません」
だからこそ、少女の側にいられるのだとおもちは言った。力がなく、脅威ではないから。少し寂しげな声色に、少女はそっと体を寄せる。ふわりと舞った最後の泡が、夜の闇に解けて行った。
騒動があった日の翌日。またしても天狐は少女をひとり部屋に残し、お付きの狐達との話し合いに向かった。当然、残された少女の側には、おもちがちょこんと座っていた。
「どうやら、犯人が分かったみたいですよ。あ、この場合は狐かな」
手で空間を狭めてこそこそと、おもちは、調査の進展を少女に告げ始めた。狐達の動きによれば、少女に呪いをかけた狐に、目星は付いたのである。しかし、肝心の証拠がない。かけられた呪いは禁術。その出処である禁書は、書庫で厳重に秘匿されていた。
「でも、禁書棚にはその書物がなかったそうです。だからその狐がまだ持っていると考えて、部屋を捜索したらしいのですが…」
件の書物は出てこず、捕まえられずじまい。どうにかあの食えない狐を捕縛しようと、天狐は案を練っているのだった。少女が悪戯な微笑みを浮かべる。
「煌様、結構強引だよね」
「ですねえ。それが長たる気質なんでしょうか…。…あれ?」
おもちが襖の方を振り返り、その先を見つめ出した。一部屋隔てた奥の廊下に、気配を感じたらしい。昨日の偽おもちの登場の仕方を思いながら少女が身構えていると、襖に影が映った。
「御嬢様。お話が御座います。開けて宜しいでしょうか」
穏やかに聞こえた声は、いつも食事を持ってきてくれる男狐のものであった。さすがに、昨日の今日で仕掛けてくる者もいないだろうと思った少女を止め、おもちがそっと襖を開けた。一瞬、おもちと男狐の視線がぶつかり合う。
「あっ、僕は幻術では御座いません」
普段の落ち着きを崩して慌てた男狐に、おもちは頷いた。天狐の前ではしっかり者だが、実際はかなりおっとりとした性格なのだ。幻術の気配もない。間違いなく、いつもの男狐さんです!
部屋の真ん中に置かれた和机を挟み、少女と男狐は向かい合うことになった。おもちは少女の後ろに小さく控えていた。天狐のいない場で話がある。そう持ちかけ、やってきた男狐。何かの企みではないとしても、天狐がいない場でというのがどうにも気になり、少女は構えを解かなかった。
「あの…御嬢様は、煌様のお考えに気付かれているのでしょうか」
おもちの耳がぴくりと動いた。少女は疑問を顔に浮かべる。それは一体、どの考えのことを指しているのだろうか…。男狐は続けた。
「いえ、気付いていないのならそれでよいのです。それで、そのこととは別で、伝えたいことが御座いまして…」
声が途切れてからも暫く、少女は男狐の顔を見つめていた。目線を下に向け、斜めに向け、ちらりと合わせてきたかと思えば、射竦められたように縮こまって、頬を赤く染める。尾も忙しなく動いているようで、畳を擦る音がしていた。実に分かりやすかった。ああ、この狐は…。ぐっと拳を握った男狐は、思い切って口を開いた。
「僕は、あなたのことが…!」
言葉が終わらぬ内に、勢いよく開いた襖。止めるべく立ち上がったおもち。現れた天狐の形相は冷たく、昨日にも見た覚えがある鬼のようだった。畳の軋む音が聞こえた。
「話し合いを抜け出して…一体ここで何をしているんだい」
言葉より先に、男狐は平伏を試みた。剥き出しの怒りを向けられている。耳が下がり、尾が縮む。やはり少女の魂を救うことはできないのか…。
「申し訳御座いません、煌様!御嬢様にどうしても、伝えたいことが御座いまして…!」
「それは私の前では言えないことなのかい」
下げられた首をぐっと掴み、天狐は男狐と目を合わせて怒気を突き刺していく。男狐の息が詰まった。分かっている、この男が何を言おうとしたのかなど。どういうつもりでここに来たのかなど。そういう狐なのだ。私はその気性を買って、ここに置いたのだ…!
「煌様」
少女が名を呼んだ瞬間、揺れ始めていた和机が収まった。棚に置かれた本は数冊倒れ、おもちがへたりと、その場に座り込んだ。天狐の手から、緩んだ襟が擦り抜け落ちた。男狐が襟を正しながら少女の方を見れば、天狐と全く同じ衝撃を顔に浮かべた。ぽたり。またひとつ、少女の目から涙がこぼれ落ちたのであった。
「ごめんよ」
そんなに怖がらせるつもりはなかったと、天狐の手は少女の頭に伸びた。そのまま寄り添い、泣き止まぬ少女を抱く。慈しみと独占欲を携えた手が、震える頭を撫で続けた。
小さな手に強く引かれ、ふたりを見つめていた男狐は、廊下へと締め出された。呆れた顔を浮かべたおもちが、やれやれと溜息を吐きつける。
「どうする気だったのですか。今更告げたとして」
男狐はその場に座り込み、頭を抱え始めた。気が解けたのか、尾はぐったりと伸び切っている。おもちも、この狐が他者に優しいことは知っていたが、あの天狐に魅入られていてはどうしようもないと、慰めのつもりで肩を叩いた。
「いい子じゃないですか、あの子…」
「いい子だからですよ。煌様が食べたいと思うのは」
それでわたし達も存在し続けているのだと、おもちは空を仰いだ。あの青く澄んだ色も、この世界の何もかも。すべては煌の生み出す幻術だ。狐達は、長に捧げるために、人の思いを集める従者に過ぎない。どんなに言葉が通じたとしても、そこにあるのは強弱の理でしかないのだ。
「たとえ断れるとしても、言わない方がいいです」
この世界は幻術。魂の理は、人が言葉で作り上げたもの。言葉で結んだ縁は、同じように言葉で切れる。そうだとしても、もうあの少女は天狐のものだ。若く色めく魂を見守ることの方がいいのだと、おもちは諭すように言い聞かせた。男狐は顔を上げて、見透かしたように笑う。
「おもちはいいですね、女狐で」
眉間に皺を寄せ、おもちはまた男狐を叩いた。その小さな手は、既に立ち上がっていた穏やかな手に受け止められた。
綿飴の甘い香りの隙間から、深い匂いが忍び込んできていた。それは心地の良い感触と、ぬくもりの中で、少女を包む存在が雄であることを示す唯一であった。
目を閉じながら、少女は理性と眠りの間を泳ぐ。あれから、男狐はどうなったのだろう。自分に爪を突き立てたあの狐のように、外に出されてしまうのだろうか。狐が、人の思いを食らって生きていることは話したね。床に就く前に、天狐が語った言葉が過ぎり始めた。
「それは普段、人の子の世界にある神社という場を媒介に、祈りという形で得ているんだ」
しかし、力の強い狐は魂ごと食らうこともあるのだと言った。世界に色めき、様々な思考を巡らせ、若くして幸福を理解した魂が最上だと。
「つまり君は、あの男狐に危うく食べられてしまうところだったのだよ?」
もうその辺りから、少女はゆっくりと目を閉じて、思考の海に入ってしまったのだ。心地の良い感触。柔らかな声。ひどく心配そうな顔をして、愛おしいと頭を撫でてきたぬくもりに、少女はいよいよ思い知っていた。
ああこの狐は、私を食べようとしている。まるまると心を肥え太らせ、最上だと思った時に一息、ぱくりと食べてしまうのだろう。だから、食べるつもりである自分のことを棚に上げて、男狐に怖い顔をしたのだ。それほどまでに傲慢で、強情で、この世界を創り上げている相手なのだ。口付けた意味も、桜並木を見せた理由も、守った後の心配も、人の感情とは違う言葉で語られるものなのだ。それは…恋と言われる、甘くほろ苦い話ではない…。
少女の頬に、三度目の涙が流れた。恋ではない、愛ではないと解った上で。かけられる言葉が、撫でてくる手が、もっと欲しくて堪らなかった。食べられてしまっても、もう構わない…。深々と眠りに落ちて行く少女の目元を、柔らかい尾が掠める。寸分の光も入らぬ空間の中で、天狐の目に映る魂だけが、ゆらゆらと煌めいていた。
数日後。呪いをかけた狐が捕らえられたと、天狐は告げた。目星を付けていた狐は、部屋を捜索された後、すべての調査から解放されたように見せかけられた。気を緩めて禁書を処分しに行く折に縄をかけたのは、先日叱られてお付きを外されていた、男狐だったという。
「丁度だったからね。罰として、動向を追わせていたのさ。調査にかけては巧い癖に、どうも情に甘い所がある」
「じゃあ、犯人も捕まったし、男狐さんはもうお付きに戻るんですよね」
渋々頷いた天狐に、少女はよかったと笑みを見せた。それは男狐に対する思いがあるわけではなく、御膳を運ぶ、おもちの足元が覚束ないからだったのだが、天狐には上手く伝わらないようであった。不満気に尾を揺らしながら、天狐は少女を連れて、廊下を進み始めた。
屋敷の一部屋にて、天狐、少女、呪いをかけた狐が相対した。部屋の外には、男狐とおもちも控えていた。狐は、久々に見る人間の少女に興味を隠せないようである。
「呪いを解いて貰おうか。君がやるべきことはそれだけだ」
興味に揺れかける尾を抑え、狐が神妙に頷いた。少女の前で手を重ね、力を集め出す。やがて、少女の足元に白い光の輪が生じた。その輪が少女を抜ければ、呪いが解けたということになる。部屋に集まった者の中で、呪いをかけた狐だけが、成功すると確信していた。
音もなく上がった白い輪は、少女の胸元に来た瞬間、甲高く、耳障りな音とともに割れてしまった。狐は予想外だと驚きを浮かべ、目の前の光景の理解に努めた。
部屋の空気が冷たくなったのは、気の所為ではない。きっと天狐は自分の後ろで、また鬼のような顔をしているのだと、少女は考えていた。どういう理屈かは分からないが、呪いを解くことには失敗したのだ。そんな気はしていた。天狐は冷ややかに構えていて、怒っている様子がなかった。呪いを解けずに愕然としていた狐を任された男狐も、穏やかな笑みで少女を見ていた。
その後、顔を合わせたおもちの顔に、いつもの無邪気さはなかった。やはりこうなることを分かっていたような、この先に起こることも知っているような顔で、少女の手を握った。何も言わない。綿飴の甘い匂いだけが舞った。そんな子狐の頭を優しく撫でて、少女は天狐に連れられて行った。
桜並木を歩く。ここは相も変わらず、優麗に咲き誇り、幻想的な雰囲気に包まれていた。天狐は少女に、呪いがどうなったのかを言葉で説明した。思えば最初から、ずっとこうして、言葉で表されているばかりだった。
小さな歩が、天狐の前に出る。
少女の呪いは、肉体にかかったものだけが解けた。今のままで人の世界に戻ると、様々な制約を受けるのだと、努めて穏やかな声が届く。
「まず歳を取らない。見た目の話だね。肉体の中に魂が入っていないから、時が進まないんだ。人形になる…と言うのが、近いかな」
一枚、また一枚と花弁が舞い落ちる。どれだけ散っても、この桜達は終わることがない。少女は桃色の空を見上げて、柔らかな天狐の声に耳をすませた。
「誰かと婚儀を行うこともいけないよ」
ざわざわと荒れた風が、世界を桃色に烟らせた。一度、此方の世界に干渉した魂が儀式によってともにされれば、相手の魂を食らってしまうのだそうだ。勿論、誰かと体を重ねることも同じく。少女は少しだけ振り返り、桜に馴染む天狐を認めた。目を合わせた天狐は眉尻を下げ、済まないねと微笑んだ。
「君の所為じゃない。あの狐が慢心していただけの話さ」
そうなのだろう。そういうことにしておこう。少女は天狐と向かい合い、さらに続きを促した。不老だが不死ではなく、いずれは死ぬ。人の世界で死ねば、狐の世界に魂が戻るのだ。
「じゃあ、狐になったら、おもちみたいに頑張ります」
天狐の口元が弧を描いた。瞳の橙が、艶やかに燃える。空いていた数歩の距離を詰め、得意の尾で少女を包み込み上げた。手を取る。指が絡み合う。ここでお別れだ。残された幾許かの人の時を、その若く色めく魂で謳歌するといい…。
「君はずっと、私の傍にいると言っただろう」
少女は緩やかに目を細めて、眠るように消えて行った。姿を隠された時の分、騒がしい現実が待っていることだろう。別れに流れた一粒の涙が煌めき、柔らかな風に攫われた。
時が経った。長い時だった。寸分も変わらぬ見た目に、寄せられた者も多かった。その度に、彼女の近くで事が起き、騒動が済むと、狐と顔を合わせる瞬間があった。山から降りてきたのか、野生のように見える狐。狐を模した人形。なぜか友人に差し入れされるお餅…などなど。長い時を経ても、彼女は狐達に見守られていた。
そして今、彼女の生が終わりを告げたのだった。
さくりと天狐が足を踏み出したのは、もう少し歩を進めねばと思ったからだった。そこから見る景色が、この桜には一番似合う。だが、天狐は驚いて足を止めた。ああ、よもやこの場所で出会えるとは。否、再び出会うならここが良いと、だから歩いていたのではなかったか。
光とともに舞い降りた少女は、足の先が地に着く前に駆け出した。九本の尾が迎え包む。光が晴れた少女の姿は、あの頃と何も変わらずに。若く色めく、極上の魂であった。
「煌様…」
お久しぶりですと、惚れた笑みを浮かべる。その柔らかな頬に指を滑らせて、天狐も嬉々とした表情を返した。
「会いたかったよ…。随分と綺麗になったね」
出会った時と同じ場所に、そっと口付けが落とされる。もう少女の魂は、この世界の、目の前にいる自分のものだ。愛おしいとばかりに、天狐は少女へ頬ずりをした。
何も変わらないのだ。悠久の時が流れても、ここは何も変わらない。形の良い耳の後ろに広がる桃色の空も、囁くような花擦れの音も。饒舌な天狐の求愛も。その世界に惚れた、自分も。やっと地に降ろされた少女は、天狐の腕に手をかけ、微笑んだ。
ふたつの足音が、揃って桜並木の下を進む。ゆっくり、ゆっくりと。魂の存在を確かめるように。ともに過ごせる時を慈しむように。少女は不意に、天狐へと言葉をかけた。
「私の肉体と、魂が分かれた理由を、ずっと考えていたんです」
「おや。それはあの、食えない狐の仕業だっただろう?」
いいや、違うと少女は首を横に振った。あの狐は、呪いが解けなかった時、ひどく焦った顔をしていた。解ける筈のものだと思っていたのだ。解く意思が明確にあったのなら、あの狐の仕業ではないと、少女は言い切った。天狐がくつくつと嬉しそうに笑い出す。
「じゃあ、君は一体、何が真実だと思っているんだい?」
少女も微笑み、丁寧に足を地に着けた。
「煌様です」
私かい?などと、天狐は大仰におどけて見せた。少女が強く頷く。あの時…。煌が自分の額に口を付けたことで、この魂は天狐の力に支配された。ゆえに、この世界の誰が干渉することもできなくなった。
足を止めた少女と進んだ天狐に、一歩分の距離が開く。屋敷まではもう後少しだと、花弁が導いていた。
「違いますか」
少女は毅然とした表情で訊いた。思いを確かめたかった。あなたは私と出会った時、とっくに、食らうことを選んでいたのではないか。天狐がゆっくりと振り返り、その瞳が心底愛おしそうに少女を愛でた。もちろんだとも。言っただろう、人の子の魂は狐にとっての糧だと…。
「君はあの時からずっと、私のものだよ」
音もなく伸びた手が少女を捕まえ、掻き抱き、黒々とした尾が絡まりつく。ああやっと、この手を伸ばせる…。少女の細い腕が天狐を抱き返した。今ならば、どんな甘言でも受け止めよう。伝え返そう。これが恋でなくとも、愛でなくとも。自分はこの天の狐のものなのだ。
「やはり愛い…。君の時代の言葉で言えば、可愛い…ということになるかな?」
「はい、そうですね。でも正直…私のどこがいいのか、自分じゃさっぱり分かりません」
頬に、首元に、目尻に口付けの花を咲かせながら、天狐は微笑んだ。人の子というのは、どうにも愚かで美しい。
「そういうところさ。逆に、君は私のどこがいいと思ったんだい?」
少女が天狐を褒めようと開いた口を、噛むかのように塞ぎ、言葉を吸う。突然の妨げにもすんなりと、少女は嫋やかに睫毛を伏せていく。
そういうところさ。異形のものを前にしても、臆せずに口を開く…。生きるために世界を知ろうとする心。実に美味そうじゃないか。天狐は優しく、屋敷の縁側へと少女を倒した。
さあ、食べ尽くしてやろう。骨の髄まで、魂の深淵まで…。私と君が、ひとつになるまで…。
了