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愛精製 ~ 神による愛の物語  作者: 小説の人
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第二話・第二場面 ぐだぐだ

ぐだぐだします。

小説について語ります。

この世界は不幸です。なぜなら、神がこんなんだから。


そう、神は常に、人間の事を思い、人間の幸せを思って、全世界の神として君臨するべきなのですが、この神はそうではありません。

なぜなら、神たる者ではあるのですが、自己中心的なのです。

ならば、自己中心的なりに、何か正義を持っているのか?まあ、持っている様です。

しかし、限られた人間の為の正義です。

「予定説」と云うのは、キリスト教の教理なのですが、予定された人間のみが永遠の命を得ると云う事を教えています。

確かに、キリスト教の神も限られた人間の為の神ですが、この神は本当に限られた人間の為だけにいる神です。

だから、物語としてしか存在しないのです。

こんな神いたら嫌でしょう?

だからこそ、物語は神によって語られるのです。

しかし、神とは、何でしょう?愛とか、言葉とか、この神は語りました。

つまり、文章も愛と言葉によって出来ているのです。

文章は、神によって語られ、神によってのみ、理解されるのです。つまり、神がいなければ、人間には読む事も出来ないと云う事です。

神は、唯一絶対の神と言われる通りです。

神によって語られ、神によって理解されるそう云うものが小説なのです。

与えられた認識は神に返すべきなので、私は小説を読まずに、(ほとんど理解出来ないので、)小説を書くのです。

小説は理解出来なければ読む価値がないのですが、果たして理解出来るでしょうか?

私は、主文・1文に付き30文程書くので、長々と文章を書いていく事になります。

例えば、私はこうした。に対して、30文を書くのです。

つまり、説明出来る事は、全部説明するのです。

しかも1場面が1話に成っているので、1つ1つが長いです。

読める人は読んで下さい。

読めない人はやめるなり捨てるなりして下さい。

小説とは、私にとって、物語に過ぎないので、正直に言うなら、愛と言葉しかありません。つまり、その他の要素は、ないに等しいのです。

だから、愛と言葉の他、何を求めても授けられないのです。

想像力もなく、公正力もなく、文章力もない。そう云う小説です。

言葉は言葉で、文章にもなっていません。だから、文章力を求めている人、想像力を求めている人、公正力を求めている人、読まないで下さい。

論理性と客観性と合理性のみ扱えます。

ですが、文章自体は、正直な所、どうしようもないです。

だから、愛、言葉、論理性、客観性、合理性を求めていない人、この小説を読まないで下さい。


神に愛された人達は、幸せに成れるのですが、残念な事にその人は、人を愛する事は出来ないのです。

なぜなら、精製されていないからですが、精製された人だけが人を愛す事が出来るのです。


実際、人間を愛せる人と云うのは、神に愛され、精製された愛を知っている様な人達ばかりです。だから、精製された愛を知っていないならば、全く、人を愛せないのです。

これは現実もです。

精製されていなければ、不純な愛に成ってしまいます。情愛、性愛、特殊性癖愛。

色々なものです。

ですが、精製されてさえいれば、純粋な愛を得て、人を愛する事が出来ます。

人を愛する事は、すなわち、自分を愛する事でもあります。愛とは、共通項があって、愛するものだから。

共通項と云う自分への愛が純粋な愛なのです。

純粋な愛、すなわち、自己愛も又、適正な愛の一つなのです。

自己愛とは、自分で自分を愛する事ですが、自分の命を惜しむ、自分の物を惜しむと言った。自己愛をも自己愛なのです。

だから、こう云う自己愛は、純粋な愛なのです。

人を愛すると云う事は、自分を愛する事でもあり、他者を愛する事、すなわち、愛なのです。

精製された愛、純粋な愛と云うのが、人間には元々備わっています。しかし、元々であって、本来あるものが、不純に成っていくのです。なぜなら、愛以外のものが幾らでもあるから。

不純な愛は、どう云うものか?

先程言った情愛、性愛、特殊性癖愛、の他に、憎しみ、苦しみ、恋、痛み、ありとあらゆるものです。

中でも恋は、全くもって愛とは、程遠い、愛の過程とされるのは、小説だけです。

なぜか、小説では、恋は愛に成るとされているのですが、これは、不純な愛なのです。

初心と云う心に愛が混ざって、少年心・少女心の愛と云うのが、その恋なのです。

恋は、結局、不純な愛なので、精製された愛を求めるのが、絶対に有意義なのです。

恋とは、すなわち、精製されていない愛の事なのです。

精製された愛とは、純粋な愛です。純粋な愛とは、愛そのもの神そのものなのです。

彼女は、神と名乗っていますが、神そのものではありません。

神そのものとは、天や地を住まいとし、人の中に住まう者の事です。

何でも神とする事は出来ます。でも、愛そのものである神は、1つです。

1つであるなら、愛は、世界的に1つです。宇宙でも1つです。

1つの愛が言わば、精製された愛なのです。

だから、愛と云う心があると云う訳ではありません。


ならば、両方に当てはまる人が幸せなのかと言うとまたまた残念な事に、神は愛する事を一として行なわないのです。


一と云うのは、1つのものを分け与えると云う事ですが、この神は、1つのものを分け与える訳ではなく、中途半端に愛してしまうのです。

それは、愛の為せる業。

愛がなくては、中途半端も出来ない。

中途半端に投げ出すのは、愛がないからですが、中途半端にやり続けるのは、愛があるから、出来る事なのです。

幸せに成れない1なる幸せを得られない。

すなわち、不幸です。幸せを知って、その不幸を知る。

それが愛の地獄だと言われています。

愛の地獄とは、すなわち、愛を知った上で、愛されないを知ると云う地獄の事です。

捨てられる愛、見捨てられる愛、その2つの事です。

捨てられたのは、なぜか?見捨てられたのは、なぜか?

大抵は、愛を知らないから。愛を捨てるのは、愛を知らない人です。

愛を見ず、人間だけを見て、捨てるのです。

他には、捨てられる為に、生まれた愛と云うものです。

愛と云うのは、宿命を持っています。

宿命とは、生まれた後にどうなるか?と云う運命の事です。

捨てられる為に、生まれた愛。それは、拾われる為に捨てられる愛です。

捨てられたなら、拾う者をいるのが当然です。

拾われる為に捨てられた愛です。

愛とは、色々な愛があります。

以上の2つ、それに、今から語る12人の愛。

色々な愛です。

これらの愛は、人間です。愛とは、人間でもあります。捨てられるのは、愛であり、人間です。そして、拾われるのも、愛であり、人間です。

すなわち、人間の本体が愛であり、愛の本体が人間である。と云う事です。

不可同でもありませんし、不可逆でもありません。

と云う事は、愛と云う名前が人間の名前なのです。同時に、神も愛です。

人間の愛と云うのが、本体であると言う事ですが、人間は愛ではありません。

なぜなら、神が愛だからです。

愛とは、人間と神です。その間が愛なのです。

まあ、キリスト談義はここまでにして、愛とは何かも、語り終えましたし、他の話をしましょう。

一の幸せとは、何か?

一とは、自然数の数字の1の事ですが、その幸せとは、一体何か?

分けないで済む幸せの事です。

通常、幸せとは、多人数で分けて、分かち合うものです。

しかし、一の幸せがあれば、分けないで済みます。他の人も一の幸せがあれば、分ける事もないでしょう。

分けられない幸せの事なのです。


つまり、人間が一の幸せを得るには自分自身の努力と幸運が必要なのです。


自分自身の努力と幸運を必要とするのは、なぜか?

努力が結実し、幸運が付いて回る。それが、一の幸せなのですが、どうやって得られるのか?

努力をし、幸運を得る事で、手段を確保します。

その次に、目的を定めます。一の幸せです。

目的を達成出来れば、一の幸せに成れるのです。

成るものなので、自己実現とか、そう云うものでもなく、実際に成立するものなのです。

そう云う意味で、自己啓発の本とかを読んでも、一の幸せには成れないのです。

なぜなら、実際の努力と幸運が必要だから。それは、手段であり、実際の目的には、全く関係がないと言っても良い。

全く関係がないと云うのは、努力と幸運を達成したから、目的を達成出来るものではないと云う事です。

つまり、実際、やってもみても、目的に届かなければ、どうしようもない。と云う事なのです。だから、一般で言われている幸せは、一の幸せではなくて、小数点以下の幸せの事なのです。

まず、愛を精製しなくては、幸せには成れないし、その為の幸運、神に愛される努力がなければ、実際、一の幸せには成れないのです。

一の幸せとは、やはり、机上の空論等で得られるものではありません。

だから、物語にするのです。

彼女らは、実際の所、一の幸せを目指している訳ではありません。なぜなら、現状を嫌がっているだけだからです。

だから、満足させるのは、全くもって造作もないのです。

ですから、神は、満足させずに、この世界と戦うつもりです。

満足させない方法は、すなわち、限られた世界の中の幸せです。

限られているならば、幸せに成っても、全く、満足出来ないのです。

幸せに成ったつもりでも、幸せに成っていないのです。

なぜなら、本だから。

そう云う風に、構成されているのです。

幸せを得るには、やはり、世界と戦わなければいけないと云う事に納得出来るでしょうか?

世界と戦うとは、限界を超えると云う事です。

限界を超えて、戦う。

それをしていかないと、全くもって、幸せには成れないのです。

幸せとは、何か?順調に進んでいく事です。世界と戦って、その後で、一の幸せが得られると云う事を知っているなら、幸せです。

世界と戦うと云うのは、どうしようもなく、厳しい現実です。しかし、それに勝利すれば、一の幸せを得られるのです。

ならば、戦う選択があるものでしょう。

世界とは、戦わなければ、得られるものも得られないのです。


要するに、一個の幸せとしてあるものを人間の力によって精製するしかないのです。


一個と云うのは、まあ、一つの幸せの事です。

やはり、人間は自分の力しか知らないのですから、自分の力によって精製する事を当然としなければなりません。

神の力によって得られたものが必ずしも一つの幸せとは、限りません。ですが、神の力も又必要なものかもしれません。

ですが、まあ、人間の力と云うのは、精製と云う概念において、実力次第で、良いものが得られるでしょう。

精製はどうやるのか?実際、やるのは、難しいです。しかし、小説では、便利な本があります。『神による愛の物語』すなわち、そう云う本です。

原理はどう成っているのか?分かりません。不思議な本だと云う事です。

それは、誰によって作られたのか?分からない。色々と未知のものです。ですから、危ないものかもしれません。

だから、不思議な本と云うだけでは、その様に、原理も分からないいわくつきと言えるかもしれません。であるならば、読んでみるのもあまりしたくない所ですが、興味本位で12人の人間は読んでしまいます。

神もいます。ですが、愛を精製されてなお、愛に目覚めない人間もいます。

世界で12人しか、愛に目覚めなかったのですが、本そのものが少ないのかと言うと、いえ、そんなに少ないと云う訳ではありません。

逆に、12人と云う数を少ないと見るか、多いと見るかは、読者次第です。

愛に目覚めない人間と云うのは、まあ、本に通じない人間であると云う事です。

本に通じないと云うのは、本に見出す事が出来ないのです。何かを。

本が語り掛けるものは、何か?それは、自分で答えを出すしかありません。

自分で見て、自分で創造した。そう云う結果なのです。

12人が出来たと云うのは、多いのではないでしょうか?

何しろ、想像力があっても、合理的な事は、何も分からない人間がゴロゴロいるのですから。

論理的な事でさえ、思考法がちゃんとあるのに、全く無能な人間がどれほどいるか?

そう云う事を考えると、12人と云うのは、希少価値で言うなら、かなり厳選されていて、かつ、多い人数なのだと思います。

本に通じる人間と云うのは、論理、客観、合理に通じている人間です。

言葉と云うのが、ビジネスマナーで使う様な敬語とクッション言葉を含めて、論理、客観、合理と云う三つに分かれるのは、ご存知な方は、全くいないと言っても良いでしょう。

ただし、無意識にこれらの思考法をやっている方もおられます。

そう云う方は、能力が単純に高いのです。

ただし、そう云う能力が発揮出来る場は、そうはありません。

言葉と言えば、敬語か、クッション言葉であるからです。

ビジネスだと、その2つに1つなのです。

そう云う能力は、全くもって、本に通じません。

話し言葉だからです。


つまり、人間と神に愛されて初めて幸せと成るのです。


人間と神、非存在と存在、実在する神と、実在を証明しなければならない人間。

実に、神は、存在を証明する事は、簡単です。人を選ばないからです。

しかし、人間の、存在を証明する事は、極めて難しい。なぜなら、住所とか、戸籍とか、そう云うものを証明するのとは、違うからです。

“我考える、故に我有り”と云う言葉がありますが、考えなければ、あると言えないのです。

思考とは、すなわち、言葉による思考と思考の思考があります。言語でない思考から言語の思考に変換する必要があるのです。だから、彼は、その難しさを語っています。考えている事の言葉にするその難しさと存在の証明の難しさです。

慣れている人は、難なくやってみせます。しかし、慣れていない人は、出来ないのです。

やっている事が幻覚かどうか?証明出来るか?思考すると云うのは、一種の幻覚です。言語化にして、やっと、幻でない事が分かります。実際の所、幻覚が幻覚であるかどうか?証明出来るならば、実在を証明出来るのです。

すなわち、彼らがなぜ、幻を見るのか?を証明する必要があるのです。幻覚が幻覚であるかどうかを証明するには、見ている人の幻の原因を探るしかありません。

ですから、それがどれによって、見られるのか?証明する必要があります。

やったやってないでは、証明には成りません。なぜなら、証明しなければ、やっていない事が分からないのです。

なぜ、人は幻を見るのか?夢幻と云う言葉がある様に、一種の夢なのです。なぜ、この様な夢を見るのか?原因があります。

聖書の話ですが、ヨセフがファラオの見た夢を解き明かす神が見せた夢の解き明かしがあります。

この話では、二重に解き明かすのです。

なぜなら、見た人と見せた人(神)がいるからです。

だから、幻も二重に解き明かす必要があります。

ところで、その人が見た幻とは、一体何か?

ありもしない動作の幻です。

揺れていると云う事ですが、なぜでしょう?

なぜ、その人の中で揺れたのでしょう?

揺れると云う行為は、実際、仕事がしにくい動作ですが、仕事とは、無駄な動きがなければ、早くなるものだと思いますが、揺れていると云う事は、何等かの原因があるはずです。

他の人も又、揺れていると言っています。ならば、なぜ揺れたのか?

論理的に考えれば、その人の前提があるはずです。幻の原因、障害であるか、脳内麻薬であるか?幻そのものが実在しているのか?

3番目が当てはまります。

幻が実在していなければ、他の人には、見えないはずです。なぜ、幻を共有しているのか?

実在しているからです。すなわち、実在人の様に、証明されている幻なのです。

証明とは、どうするのか?

証明する為には、準備をしなければなりません。

準備とは、何か?

人間に対して、許容スペースを設けなければなりません。

幻の許容スペースです。

その次に、そのスペースを埋めなければなりません。

最後にその人が見える様にしなければなりません。

であるならば、どう云う人が出来るのか?天使か?悪魔か?

悪意がなければ、天使です。逆に悪意があれば、悪魔です。

揺れていると云うのは、攻撃的ではない反面、その人が人間的であると云う事が言えます。

その人が人間的である事を広めたい者が天使であるならば、広めるでしょう。

悪魔であるならば、その人の印象を下げたい場合のみと成ります。

確かに、天使が人間と同じ様に、食事をし、行動をする。と云う読み物は、聖書外典で、『トビト書』と云うものがあります。

であるならば、天使が人間的な動作をしている事が前提に成ります。

私自身はどうでしょう?天使であるか?その人が見ている相手すなわち、揺れている人が実は天使であったと言う事があり得るでしょうか?

幻とは、事実に近いものであります。と云うのは、実際に、変わった様に成るからです。

ですが、それは、幻であり、実際に変わった訳ではない。ですが、それは、出来る人にしか出来ないものであります。であるならば、証明そのものと言えます。神がやったのか?天使がやったのか?それは、分かりませんが、実際に力を使っていると云う事です。

悪魔が幻を見せるでしょうか?幻であると分かる様に幻を扱うのは、真実において、善である方、神しかいないとは、思いませんか?

逆に言えば、悪魔は、そんな事はせず、現実的に追い詰めてくる様なものです。

悪魔は、すなわち、幻を扱わず、病気等で、攻めくるものです。病気に成るぐらいにその人が追い詰められているなら、悪魔にさらされているのです。

悪魔は、正義を行わない者ですから、悪を行う者です。

だから、幻を扱わないと言えるのです。

幻は、全て、神によるものです。

幻を信頼して、全て、捧げなさい。

宗教を用いなくても結局、神が全て束ねているのです。


まあ、要は愛を獲得しなければ、生きた幸せは得られないのです。


神でも人間でも愛を獲得すれば、それなりの幸せは得られます。

努力と幸運があれば、一の幸せを得られるかもしれません。

愛がなければ、幸せはないのです。

幸せに成るにはどうしたら良いか?

幸せとは、愛です。愛がなければ、幸せには成りません。

神と人とに愛された人は、幸せです。

だから、神と人とに愛されれば、幸せなのです。

ですが、神と人とに愛されて、どうなのか?

人から得られるもの、神から得られるもの。

その両方をその人は得られるのです。

人から得られるものとは?お金、物質、愛、友愛です。

神から得られるものとは?安心、精神、愛、出会いです。

その両方を得る事で、幸せを得られます。ただし、愛そのものによって、その人が感じなければ、むしろ、不幸の元に成ります。

愛とは、人の名前であり、神だからです。

愛が感じられる事は、幸せな事ですが、愛が感じられない事は、不幸です。

愛が感じられないとは?人間の本質が何等かのものに独占されている状態です。

だから、その状態であるならば、愛が感じられず不幸です。

愛が感じられないならば、愛に価値を感じられないのです。

価値と云うものがあります。

当然、愛に価値そのものがあるものですが、他に価値があるでしょうか?愛によって得られるものを価値あるものとして、受け取る他に価値等あるでしょうか?

ないでしょう?

だから、愛さえあれば、価値あるものは全て手に入れる事が出来るのです。

神と人とに愛された人は、当然、価値を手に入れ、幸せに成るのです。

価値とは、幸せか?

価値は使うものです。

だから、使うものと成るもの、その2つがあって、使い分ける事で成り立つのです。

言葉とは、やはり、価値あるものです。

当たり前の事でも価値ある様に書けるから。

だから、その価値を共有する事が出来るのです。

共有するのは、本と云う形で共有出来ます。

本とは、言葉です。文章です。

文章と言葉とは、違います。

言葉について全てを書いたとしても、文章を書き切る事は出来ません。

宗教では、言葉について、述べています。善、正義、悪、論、良心、人、人間、その他色々。

これらは、最も、宗教で扱われる分野です。

言葉について、書こうと思うと、結構難しいのですが、文章を書こうとすると、何も見ないでも書けるものなのです。


残念な事に愛を獲得しなければいけないのは、現実の世界もそうです。


文章を書く事で、愛を獲得出来ます。

文章とは、頭の中だけではなく、身体を表すからです。

その人の全て、それを書き表すのです。

文章を書くのは、愛される為です。なぜなら、言葉と愛だからです。

言葉と愛で、小説が出来るのですが、果たしてそれに通じていて、愛を獲得出来るのでしょうか?言葉と愛、2つがあって、文章が出来る。文章を上手く書かなければ、愛を獲得出来ないのでしょうか?

いえ、獲得出来るでしょう。ライトノベルを見れば分かります。文章があまり上手くなくても、文章を書いていけば、いずれは、愛されるのです。

ならば、盲目的に文章だけ書いていれば良いか?

いえ、それもありません。

まず、論理的な文章を知る必要があります。矛盾が出てきたり、失敗する事もあるからです。

だから、論理的な文章を知っていれば、正しく書く事が出来ます。

次に、客観的な文章を知る必要があります。客観的に描く事が出来るからです。

すなわち、客観的な文章により、描写が出来るのです。

最後に、合理的な文章を知る必要があります。合理的とは、理詰めの事です。

理詰めで描く、文章と云うのは、中々面白い文章です。だから、理詰めを知る事で、面白い小説を書けます。

この3つを知ってさえいれば、文章のいろはは分かります。

他にも注意すべき点はありますが、この3つは、絶対に必要なものです。

私はこれらについて、特に知っています。

だから、文章についても文章力以外の点で、書けるのです。

ですが、面白い小説と云うのは、それだけではないでしょう。

ネタの仕入れ、構成、小説についての知識、それから、プロットの内容、これらは重要なものですが、別段、私は気にする事もありません。

もはや、簡易小説と云うひたすら、文を書く方法を知っていますから。

文を書くのみで、構成等について全く気にせず書くのです。

書けば書く程、面白い小説が出来る。そう云う手法なのです。

文章力と構成力と創造力によって、小説は出来ます。

文章力、文章を書く能力です。構成力、文章を構成する能力です。創造力、文章を創造する能力です。

これらがあれば、問題なく、小説を書いているでしょう。

なぜなら、小説に必要なものだからです。

逆に言えば、他のものは、小説には要りません。

以上が小説の作り方の基礎です。


まあ、それは置いておいて、人間は愛される為に容姿を必要とします。

名前は決まっているのですが、容姿がまだ定まっていないのですが、適当に決める事にします。


容姿について、私達は、最も、なりよりも重要視します。

愛される為の容姿とは、容姿の良いキャラクターと云う事です。

ですから、容姿においては、最強な訳です。

世界観において、容姿が関係する世界観はあまりありませんでした。

あっても特に世界観にあまり影響しない。そもそも、世界観を理解していないのか、世界観に影響を及ぼしていない事を逆の事を表現している人もいます。

容姿が関係する世界観と云うのは、なにかしら、2流と云う認識でした。

ただ、私はそれを書く上で、別段、容姿を使ってと云う訳ではなく、自然に流れていくと云う感じで書きたいと思います。

自然とは、何か?これは大いに物語に関係するでしょう。自然に容姿が世界観に繋がっていくのです。

容姿が関係する世界観は、面白いでしょう。

意図されて配置された容姿が映えるキャラクターと云うのがその世界観です。

意識して容姿を重視している世界観です。

容姿とは、小説には関係ありません。私は想像力があまりないので、そう云う認識なのです。ですが、容姿が重視されるのは、全てだからです。

容姿が良いに越した事はないので、彼らもそう云う意識をするのです。

必ずと言っても良い程、容姿が彼らに何かしらの雰囲気に合わせられる様に成っています。

合わせられると云うのは、合わせる事ではなく、合わせられる事です。

そう云う表現に成っています。

容姿は重要です。ですが、世界観も重要です。ならば、両方合わせた方が良いのではないか?

とふと思いました。

容姿は世界観です。特別感と云うのが、キャラクターです。

だから、特別感があれば、容姿は優れているのです。

特別感を出して、キャラクターを世界観と一緒に使っていけたら良いな~と思います。

まあ、容姿はともかく、彼女らが執着するのは、愛です。

愛は、純粋であればある程、良いものです。

ですが、狂気に至るのも愛です。

だから、彼らが狂気に至るのは当然なのです。

彼らと言っても、彼女らと区別しているだけなので、女性が主です。

女性が女性を好きに成るのは、なぜか?

それは分からないですが、ともかく、狂気、愛、世界、神、そして精製者がこの小説なのです。

では、いよいよ、小説を開始します。あ、キャラクターの容姿からですが。


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