夜の邂逅
その日の夜。エルネスタは羽ペンを走らせる手を止めると、自室であるのをいいことに思い切り伸びをした。
椅子ではなく床に座って書き物をすることは、慣れないと案外疲れるものだ。
書き留めた内容を確認して一人頷く。エルネスタはいつか交代するエルメンガルトの為に、日記を付けることにしたのだ。
こういうものがあるのとないのとでは随分と過ごし易さが違ってくる。いきなり知らない人間関係の中に放り込まれるだなんて、その苦労は想像を絶するものだろうから。
エルネスタは日記を閉じた。誰にも見られないよう、文机の側に設えられたチェストにしまっておく。
そうしてやる事を失ってしまえば、気になるのはイゾルテの事だった。
どれほど案じても何の足しにもならない事は分かっている。それでも祈らずにはいられないのだ。
ーーどうか神さま、助けてください。私はこの嘘という罪に対するいかなる罰も受け入れます。ですから、どうか母だけはこの困難からお導きください。彼女は何の罪もない善良な人なのです。
結婚に際して、エルメンガルトはシェンカの国教に改宗している。それを自身に置き換えてどう捉えるのかはエルネスタの自由だが、騙す相手に祈りを捧げるのはあまりにも無神経な気がして、元々信じていた神を心の内に呼び起こす。
そうして一心に祈り続けていたのだが、静かな時間は唐突に終わりを告げた。
銀色の体躯をしならせて続きの間から現れたのは、昼間に初対面を遂げたばかりの国王の相棒だった。
「あなた、ミコラーシュね! 遊びにきてくれたの?」
ミコラーシュは微かに鼻をひくつかせながら、優雅な動作で歩いてエルネスタへと身を寄せた。興味がありますと言わんばかりの態度に、飛び上がりたい程の喜びを感じてしまう。
昼間は結局ほとんど触れ合えずに残念だったのだ。こんなふわふわの毛並み、撫でたいに決まっているのに。
「ミコラ、あなたはとってもいい子ね。よしよし」
恐る恐る頭を撫でてみるが嫌がる様子はなく、顎をエルネスタの膝へと乗せてくる。
だめだこれは。可愛すぎる。
しかも想像以上に素晴らしい毛並みだ。ふわふわのもふもふ。気持ちが良いことこの上ない。
「ああもう、可愛い〜! よーしよし、いいこいいこ」
エルネスタは観念して、美しい毛並みに顔を埋めた。この衝動に抗える者が果たしているだろうか。いやいない。
手を回して抱きついて、そのまましばしの時間を過ごす。ミコラーシュの毛並みからは森の香りがして、エルネスタを癒しの極致へと連れていってくれた。
もういっそこのまま寝てしまいたい。
無理な願いを抱いたところで、幸せな時間は終わりを告げた。
「何をしているんだ、君は」
慌てて顔を上げた先には、続きの間の扉に佇むイヴァンの姿があった。その表情が明らかに訝しげなものであることに気付いたエルネスタは、失態を恥じて頬を赤く染め上げた。
「も、申し訳ありません! ミコラーシュがあまりにも可愛いので、ついっ……!」
「可愛い、だと?」
イヴァンは全くピンときていないと言った様子で、むしろその反応にこちらが驚く羽目になった。
「可愛いですよね、ミコラーシュ。そう思われませんか?」
「……よく解らない。狼なんて見慣れているしな」
そうか、そうだった。このひと達は自分で狼になれるのだから、いちいち可愛いなどという感想は抱かないのだ。
「そうなのですね。私からすれば、ふわふわの毛並みが素敵だと思いますけど……」
この感覚が共有できないのは残念だ。ここに動物好きのイゾルテやコンラートがいたら、喜ぶに決まっているのに。
「怖くはないのか。狼は普通、人に懐くことは無い 。ミコラは聡く優秀だが、動物であることに変わりはないのだから、いつ気が変わるとも知れないだろう」
その質問はやけに硬質に響いた。こんなに長く語りかけてくれるのは初めてのことなのに、エルネスタは少しも嬉しいと思えなかった。
相棒をそんな風に言い表す事はきっとこの方の心を傷つけている。
狼と人間が解り合うことは無い。そう告げたイヴァンは無表情だというのに、どこか苦しそうに見えたから。
「そうですね。たしかにそういった、当然の警戒心が無いといえば嘘になりますけど」
だから本当のことを話す。姫君らしいことは言えないけれど、自分の素直な言葉で。
「強い感情ってあるでしょう? 好きとか嫌いとか、欲しいとか。私の場合、ミコラが可愛い触りたいっていう思いが、警戒心なんて吹き飛ばしてくれたんです」
そう、かつてイゾルテが一人の赤子を助けた様に、誰しも譲れない一線というものがある。
あの時もそうだった。怪我をして大木の下に座り込んでいた狼を助けた時も、警戒心なんて気にする余裕すらなかった。
今頃あの狼は元気にしているだろうか?
「ありがたくも好きなようにさせて頂きました。陛下のお陰です」
最後には昼間投げかけられた言葉を引用して、エルネスタはにっこりと微笑んで見せた。
イヴァンは少し目を見開いたまま、何の言葉も返してくれない。流石に生意気が過ぎたかと冷や汗をかきはじめた頃、彼は無表情のままで小さな囁きを溢したのだった。
「変わっているな、君は」
褒められてはいないし、むしろけなされているのに近い言葉だ。
しかしエルネスタは今まで彼がくれた反応の中で一番嬉しく思った。だから素直な心のままに笑う。
「そうでもないですよ、普通です。……あ! 陛下、少しよろしいですか?」
あることを思い出したエルネスタは、イヴァンの元まで歩み寄ると、問答無用で彼の左手を掴んで手繰り寄せた。
気になっていたのは傷の具合だ。幸いきちんと手当がなされていて、腫れが起きている様子もない。
「良かった、手当を受けて下さったんですね。痛みはありませんか?」
尋ねつつ顔を上げた先、今までで一番近い位置に精悍な美貌があった。
あまりのことに言葉を失う。次いで自分から男の手を握ったというとんでもない状況に思い至り、エルネスタは一気に赤面した。
ーー馬鹿なの、私。つい弟に接するみたいに、無遠慮な態度を取ってしまうなんて。
このひとは気軽に触れて良い相手ではない。夫であって夫では無いひとであり、本来ならば雲の上の存在なのだ。
「ああ。問題ない」
動揺しきりのエルネスタに対して、国王陛下は冷静だった。
一瞬何を言われたのか解らなかった。質問の答えが返ってきたのだと理解する頃には手と手が離れ、イヴァンは既に踵を返していた。
「先に寝る。君も休め」
短く告げられてすぐに扉が閉ざされる。エルネスタはその場にへなへなと座り込んでしまい、心配したミコラーシュに擦り寄られることになった。
「大丈夫よミコラ。ちょっと、びっくりしただけ……」
咎められることはなかったが、一体どう思われただろうか。
無遠慮で不愉快だったことだろう。最低だ。何の自覚もない愚かな振る舞いと言える。
エルネスタは滑らかな顎の下を撫でてやりながら、二度とこんな失敗はしまいと心に誓うのだった。
***
扉が閉ざされても、イヴァンはその場を動けずにいた。
「変わっているな。本当に」
ポツリと落とした言葉は、静まり返った寝室に溶けて消えた。