小話 ピクニック2〈完〉
想像した言葉が現実になったことを受けて、エルネスタは思わず微笑んだまま表情を止めた。
しかしすぐに心の中で自らを叱咤し、そうとは気づかれない程度にバスケットのハンドルを握りしめる。
ショックを受けたような顔をしては駄目だ。イヴァンが心置きなく仕事に向かえるように、笑顔を見せなければ。
「あ、そ、そうなのね。何があったの? 大丈夫?」
「コチュカ山の近隣の山で、今度は鉄鋼脈が発見された。大事はないが対応を検討しなければならない」
それは確かに大変なことだ。まずは箝口令を出し、状況の確認、調査団の結成と、なるべく迅速に動く必要がある。ヨハンもまたその表情に焦燥を浮かべているし、宰相としても予想し得なかった事態なのだろう。
しかし隣から剣呑な気配が放たれているのが気にかかる。ちらりと視線を滑らせると、ダシャはその顔に「約束を破るんですか?」と書いて男二人を睥睨していた。
「……えっと、私にできることはある?」
「ありがとう、この件については俺だけで大丈夫だ。なるべく早く終わらせてくるから、待っていてくれ」
イヴァンは申し訳なさそうに眉を下げている。本当にすまないと繰り返してエルネスタの額に口付けを落とすと、ヨハンを連れて早足でその場を去って行った。
慌ただしく臣下達が行き交う廊下にて、ダシャの気遣わしげな視線が心に染みる。
エルネスタは泣きそうに顔を歪める歳下の侍女に、精一杯の笑顔を向けた。
「お、王妃様あ……」
「そんな顔しないで、ダシャ。イヴァンは忙しいんだもの、仕方ないわ」
そう、これは仕方のないことなのだ。
イヴァンはこの国の王様で、誰よりもシェンカのことを想っている。
エルネスタはそんな彼のことを好きになった。もしも約束を優先しようとしたのならば、そんなことは気にしなくていいと怒らなければならないところだ。
「なるべく早く終わらせるって言ってくれたもの。十分すぎるくらいよ」
それならばエルネスタは楽しみに待つだけ。バスケットの中で食べられるのを待つ料理達も、きっと無駄になったわけではない。
「そんな……王妃様は優しすぎますよ」
「ふふ、そんなことないわ。ねえダシャ、立ちっぱなしで疲れちゃったから、お茶にしましょうか」
あえて明るく言って促すと、ダシャは納得していない様子ながらも微笑んでくれた。
その後は自室に戻り、朝食を兼ねたお茶を侍女と楽しんだ。空いた時間で勉強をして、やがて正午を迎えたのだが、イヴァンが戻ってくることはついになかったのだ。
こうして時計を見上げるのが何度目なのか、もう数えることもできなくなってしまった。エルネスタは小さくため息をついて、意味もなく西日の差し込む窓の前に立った。
外はいい天気だ。柔らかな風が吹いているのが見て取れるが、既に午後二時を回った現在、外に出かけるのはもう無理だろう。
たまの休みくらいは気分転換をして貰いたかった。しかしこんなに忙しいのでは、外に出るより部屋で体を休めたほうが良かったのかもしれない。
テーブルの上に置かれたバスケットが目に留まって、エルネスタは小さな笑みを落とした。
だいぶ涼しくなってきたから傷んではいないと思うが、それでも野菜は萎びてしまっただろうし、全体的に乾燥しているだろう。
悲しいけれどイヴァンは忙しいのだから仕方がない。お昼を食べ損ねてしまったし、これは自分で食べることにしよう。
エルネスタはバスケットの上蓋を外した。相変わらず行儀良く並んだ料理に苦笑を浮かべた、その時のことだった。
遠くから鋭敏な足音が聞こえてくる。凄まじい速さの音はもしかしてと思っている間にも大きくなり、そのままの勢いでドアがノックされた。
エルネスタは膨らんだ期待を抱えたまま走り、ドアを押し開いた。
「イヴァン……!」
「す、まない、エリー。随分、待たせてしまった……!」
どうやら本当に全力疾走してきたのか、見たこともないほど息を乱したイヴァンがそこに居た。
疲れていただろうに、彼は約束を果たすために急いでくれたのだ。申し訳ないのに嬉しくて、本当に帰ってきてくれたことが幸せで、上手く言葉が紡げない。
「あ、の。急がせて、ごめんなさい。こんなに走らなくても良かったのに……」
目が合わせられずに少しだけ下を向いたまま、仕事を終えた夫を室内へと招き入れる。ドアが閉まって、午後の静寂が二人を包む。
流石の体力というべきか、イヴァンはすぐに息を整えたようだった。
「……怒っているのか?」
思いもよらないことを言われて顔を上げると、イヴァンは金の眉を寄せて、痛みを堪えるような表情をしていた。
「悪かった。せっかく君が誘ってくれたのに、約束を守れなかった。でも俺は本当に楽しみにしていたんだ。エリーさえ良ければ……今からでも、出掛けないか?」
藍色の瞳が切実な色を纏って訴えかけている。エルネスタは驚きのあまり、思ったことをそのまま口に出してしまった。
「……そんなに、楽しみだったの?」
「俺は昨日の晩、楽しみだと言ったはずだが」
怪訝そうに言い返されてしまい、エルネスタはますます言い募る。
「それは社交辞令みたいなものかと思って。それに廊下で会った時は、そこまで残念そうでもなかったし」
行けなくなったと知った時はすごく残念で、エルネスタは無理に笑ったのだ。しかしイヴァンはいつも通りに見えたと思ったのに。
「……俺も見栄くらいは張る。ヨハンが居るのに残念だの行きたかっただの、子供みたいにごねるわけにもいかないだろう」
イヴァンは口元に手を当てて目を逸らした。ほのかに耳が赤くなっているのは、彼が照れている時の証だ。
つまりはヨハンがいなければごねるイヴァンが見られたということか。もしそうなら、惜しいことをしたのかも——。
違う、そうじゃない。エルネスタは珍しい想像に思考が脱線しかけていることに気付いて、慌てて首を振った。
「私、怒ったりしてないわ。急いで来てくれたのが嬉しくて、何と言うか、照れてしまって……」
幸せだと心から思う。
このひとがどれほど妻を大切にしてくれているのか、日毎に思い知らされているような気がする。
「あのね、私、果樹園に行きたいのだけど、どうかしら」
「……そんな所でいいのか?」
「もちろん。イヴァンは城の外に出たい?」
「いや、俺はエリーと一緒ならどこでもいい」
予想だにしない殺し文句が降りかかってきたので、エルネスタは為す術もなく赤面した。
イヴァンは照れ屋なままのはずなのに、こういった事はさらりと口にするようになった。いつ繰り出されるのか予測が立たないので、心の準備ができないのが最近の悩みだ。
返す言葉もなく視線を横へと向けると、ふとテーブルの上に佇むバスケットが目に留まった。
「あ……」
エルネスタはつい声を上げてしまった。
どうしよう。もう古くなっているからイヴァンに食べてもらうつもりはないが、このままピクニックに行くとなると、この料理は行き場がなくなってしまう。
これは自分用にしてイヴァンの分を新しく貰ってくるべきか。でも彼の目の前で別の物を食べていたら確実に不審がられるだろうし。
そんな事を考えていると、イヴァンが迷いのない足取りで歩き始めた。
止める間もない出来事だった。開きっぱなしになっていたバスケットの中を覗き込んだイヴァンが、目を丸くしてこちらを振り返るので、エルネスタは観念して苦笑いをした。
「見たことのない料理だ。まさか、君が作ったのか」
「……えっと、実はそうなの。でも、もう古くなってしまったから」
自分で食べようと思って。
続けようとした言葉が出てこなかったのは、イヴァンに力一杯抱きしめられたからだった。
「ありがとう。本当に、待たせてすまなかった」
その一言に、彼が得た後悔が全て詰め込まれていた。
黒のチョハで視界が埋まって何も見えないのに、低く掠れた声のせいで、イヴァンがどんな顔をしているのか分かってしまう。
「私、何も気にしていないわ。イヴァンが休めるなら、それで良かったの」
小さく首を振って言うと腕の力が強さを増したので、エルネスタは気付かれないように小さく微笑んだのだった。
結局のところ、イヴァンはバスケットの中身を食べると言って聞いてくれず、エルネスタは白旗を上げざるを得なかった。
久しぶりの果樹園は相変わらず清々としていて、秋の日差しが柔らかく心地良い。いつかのようにガゼボに腰掛けて、バスケットを開いたエルネスタは、節立った指がサンドイッチを掴んで口に運ぶのを緊張の面持ちで見つめた。
「……何だこれは⁉︎ 美味すぎる!」
イヴァンが目を見開いて叫ぶので、エルネスタは安堵のため息をついた。
「良かった。一応聞くけど、傷んだりはしてないわよね?」
「してない。美味すぎる」
イヴァンの語彙力はどうやら一つの単語のみに退化してしまったらしい。驚くべきことにたった数口でサンドイッチを平らげて、今度はシュニッツェルにフォークを突き刺している。
そして一口齧り付くと、またしても目を見開いた。
「何だこれは! 美味すぎるぞ……!」
すると飽きもせず同じセリフが飛び出してくるのだから、エルネスタは笑ってしまった。
先程聞いたところによると、イヴァンはピクニックのために昼食を取っていなかったそうだ。空腹は最高のスパイスと言うこともあるだろうが、ここまで感動してもらえるとは。
「エリー、君も早く食べろ。でないと俺が全部食ってしまう」
言いつつ、イヴァンは二個目のサンドイッチを手に取っている。サンドイッチは五個、シュニッツェルは八個が元々の数だ。
「私はサンドイッチ一つと、少しのシュニッツェルで十分。イヴァンが食べて。もちろん、無理しなくていいけど」
手にしたサンドイッチをゆっくりと咀嚼してから言うと、イヴァンは信じられないとばかりに口を開けた。
「な、何を言っているんだ、こんな美味い物を……! 後悔しないのか⁉︎」
「ええと、自作だからそんなに珍しくないし、大丈夫よ」
エルネスタはもともとそれなりに食べる方ではあるが、今日に関してはもうお腹いっぱいだ。
イヴァンが喜んでくれたことが本当に嬉しくて、胸が満たされているから。
「そうなのか……? そう言うことなら、遠慮なく頂くぞ」
「ええ、どうぞ召し上がれ」
促すと、イヴァンはまた黙々と食べ始めた。人は美味しいものを食べると無言になると言うけれど、人狼族も同じだと思ってもいいのだろうか。
静かな空間を心地の良い風が揺らした。傾きかけた太陽が照らす果樹園は葡萄が旬を迎えていて、見渡す限りふくよかな黒い実がぶら下がっている。一本だけ植えられた花梨の木から放たれる芳香が鼻の奥をくすぐり、エルネスタは整った横顔を見つめる目を細めた。
「……こんなに穏やかな時間は、いつぶりだろうな」
ぽろりと転がり出た低い声は、エルネスタの胸の内に深く染み渡っていった。
この果樹園にはイヴァンとのかけがえのない思い出があるけれど、同時に別れの時を悟った場所でもあった。あの時の地の底に落ちていくような記憶が、温かなもので塗り替えられていく。
「私も、同じ事を思っていたわ」
言葉には出さずとも、包み込むような幸福がそこにはあった。
夕刻の日差しは柔らかく、寄り添う二人の影を長く伸ばしている。何のことはない日常を語る時間は、夜が色を濃くするまで続いた。
〈終〉
お読みいただきありがとうございました。
また番外編など更新することがあるかもしれませんので、その時はお読み頂けましたら幸いです。
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