片われ
季節はめぐる。冬の長いシェンカに向けて旅を続けるうちに、急速に秋が深まってくる。
いつだって天は高く、鳥のいない街には虫の声ばかりが響いて夏との別れを告げる。しかし風が冷たさを増しても、賑やかな道中は初秋の寂しさを弾き返してくれた。
そうして朝晩は薄手の外套が必要なほどに冷え込んだ頃のこと。エルネスタたちは三週間の旅を終え、ついにラシュトフカへと到着したのだった。
エルネスタは王城の片隅、例の小屋の中にいた。
それぞれが理由を偽って城を出てきたという異常事態に、方々解散してから城に戻ることになったのだ。ダシャがエルメンガルトを呼びに行ってくれたので、エルネスタは今それを待っているところである。
妙に長く感じる時が過ぎ去り、小屋の扉がノックされた。返事を返すと、扉から最も見慣れたようで最も見慣れない顔が覗く。
「ああ良かった、本当に帰ってきてくれたんだね。助かったよ」
「エルメンガルト様!」
エルメンガルトは最後に見た時と全く変わらない様子で現れた。泰然とした笑みに、落ち着いた口調。一度しか会っていないはずなのに、なぜだか酷く懐かしい。
「君が望んでここへ来たと思っていいんだよね?」
「……はい。その通りです」
「そうか、それなら何より。全てが収まるべきところに収まったわけだ」
エルメンガルトは軽快に笑った。それは今まで見た中でもっとも心からのものだと信じられる笑み。
それでもエルネスタは何と言ったらいいのかわからなかった。この旅の間中考えていたはずなのに、それでも上手い言葉が見つからない。
彼女の名と立場を貰い受け生きていく。その事実をどう思われているのか、考えると怖くて。
「エルメンガルト様、私……本当にあなたの代わりに、ここへ来ていいのかと、ずっと」
「しっ。それ以上は言いっこなしだよ」
しかし悲痛な訴えは、いたずらっぽい笑みに断ち切られた。
「言ったろう、全てが収まるべきところに収まったんだ。これは最初から君の役目であり、そして私は絵を描くためだけに生まれてきた。かと言って、私達は生まれる順番を間違えたわけじゃない。それぞれの人生を生きてきたこと、後悔はしないだろう? だってそうでなければ、私達はここには居なかったのだから。君はこの先の人生を選び、私もまた選んだ。それだけのことさ」
選んだ。その言葉が胸のうちに染み渡り、心を強くしてくれる。
そう、エルネスタは選んだ。ここで生きていくことを。自分の足で立って歩くことを。
それは彼女もまた同じで、その事実に上下はない。
光を宿した瞳で頷くと、エルメンガルトも微笑み返してくれた。すると服の交換を提案されたので、二人は同時に着替えを始めた。
「そうそう、先に謝っておくけど、私はやっぱり仕事が下手でね。すごく溜まっているので頑張っておくれ」
「はい。もちろんです」
「あとね、一部屋もらって絵を描いていたんだけど、持ち歩ける量じゃないから置いてきてしまった。だから適当に処分しておいてくれるかな」
「そんな、捨てたりしませんよ。大事に飾っておきます」
「はは、気に入ったならそれもいいかもね。任せるよ」
雑談を交わしながら服を脱いでいく。お互いの服を渡したところで、エルメンガルトが思い出したとばかりに声を上げた。
「そうだ、少し前に沢山の衣装が届いたよ。私は袖を通していないから安心していい」
「あ……」
大変なことがありすぎたし、そもそも自分の物ではないと思っていたのですっかり忘れていた。そういえば秋冬用の衣装を仕立てていたのだったか。
「イヴァン王からの贈り物だそうだね。大事にしてもらっているようで安心したよ」
手渡されたクリーム色のアークリグを身につけながら、エルネスタは赤面した。これ以上からかわれる前に話題を変えることにする。
「あの、エルメンガルト様はこれからどうなさるんですか?」
「私かい? そうだね、まずは親書が返ってくるまでは城下で待機だ。皇帝陛下にはもはや条件を飲む以外の選択肢は無いから、よっぽど出番はないと思うけどね。そうなれば晴れて自由の身、速やかに国外に出る。君の旦那様から、今後一切シェンカへの入国を禁ずると言い渡されてしまったからね」
エルネスタは弾かれたように姉を振り返った。彼女は既に旅用の軽いアークリグを隙なく着こなしていて、悠然と微笑んでいる。
「そんなことがあったのですか……⁉︎」
「ああ、そうだよ。これくらいで済まそうだなんて、あのお方は本当に君が好きなんだね」
また話が元に戻ってしまったので、エルネスタはむきになって訴えた。
「そんな話をしている場合では……! だって、この国をとても楽しそうに描いてらしたのに」
「いいんだよ。君を知る者に出会ってしまう可能性も、今後どんどん増していくのだから当然だ。むしろイヴァン王の温情に感謝しなければね」
エルメンガルトはエルネスタの着替えが終わったのを確認すると、自らの荷物を担ぎ上げた。あらかじめ小屋に置いてあったそれは、どうやら絵の具の入った布袋だ。
「私は君に自由を与えてもらった。あの息苦しい宮殿を抜け出すことができてどんなに嬉しいか、言葉では伝えきれない。心から君と、この国の者たちに感謝するよ」
エルメンガルトは手を差し出してきた。今生の別れにしてはずいぶんさっぱりとしたその態度に、エルネスタも思わず笑ってしまう。
これは必然の別離。あの時のようにお互い後悔を抱き、望まぬ道を歩むための別れではない。
握り返した手は自分のそれよりもしなやかだった。姫君として生きてきたはずのこの人は、随分と順応性が高く、大胆にして天衣無縫。だからきっと、この先も上手くやっていくだろう。
「私からも感謝を、エルメンガルト様。またどこかでお会いしましょう」
「そうだね。またどこかで、エルネスタ」
エルメンガルトは最後に手を挙げて見せると、そのまま小屋を出て行った。その何気無い足取りに、また戻ってくるのではないのかと錯覚するほどの、不思議な親しみやすさを残して。
「王妃様、ご無事で」
小屋を後にするなり、心配したダシャが駆け寄ってきた。
「ありがとう、ダシャ。面倒ばかりかけてごめんね」
「そんなこと仰らないでください。私は本当に嬉しいんですから」
二人連れ立って王城内を進む。そして王妃の部屋へと辿り着く直前、ダシャが唐突に足を止めた。
「あの、ここが絵を描かれていたお部屋です」
ダシャは誰がとは言わなかったが、もちろんその余白の正体はすぐに知れた。
室内は油の匂いで満たされていた。不思議と不快な匂いではなく、どこか懐かしいような気分になる。
壁には穏やかな色彩の絵が何枚か立てかけられていて、それ以外には何も残されていなかった。彼の人の面影すらも。
「だいたいここに篭ってらしたんです。うう……私は鼻がいいので、ちょっと辛くて」
ダシャが渋面を作りつつ、一枚の絵を手渡してくれた。背丈の三分の一程の画面の中で、見知った顔が笑みを浮かべている。
「これは……エルメンガルト様の自画像?」
「いいえ、これは王妃様ですよ。誰がどう見たってそう言います」
きっぱりと微笑むダシャに言われて、まじまじとその絵を眺めてみる。教会の天井画のような写実ではなく、柔らかな筆致で描かれていて、淡い色彩が光を取り込むかのようだ。何より、その微笑みはとても優しい。
「私、こんな顔してるのかしら?」
いまいちピンとこず、エルネスタは丸くした目を瞬かせた。これは流石に美しく描きすぎているような。
「私はすごくいい絵だと思います! 嘘だと思うなら、裏を見てみてください」
促されるまま絵を裏返す。ざらついた布地の右下に、こう書かれていた。
『題 私から君へ』
その後、エルメンガルトは著名な画家となり、ウルバーシェク王家に一大コレクションを残すことになるのだが、それは未だ遠い未来の話である。




