珍道中と知られざる苦悩 2
旅を続けて数日。今日も今日とて宿場町にたどり着いた一行は、御者に金を払って厩を後にした。
座り続けていた体は凝り固まっていて、エルネスタは大きく伸びをする。澄んだ空気が肺に入って、生まれ変わったような心地がした。
「空気が美味しいわね」
「ああ、やはり進むにつれ涼し……」
それは突然のことだった。穏やかに言葉を返そうとしたイヴァンが、急に息を潜めて暗い大通りを睨みつける。テオドルもまた目付きを鋭くして、同じ方向へと視線を飛ばした。
何事かと緊張を走らせたエルネスタは、そこでようやく何者かの足音を聞き留めた。
「王妃さまあああ!」
暗闇の中から突進してきたのは、他でもないダシャであった。
戦士二人は腰の剣を抜きかけたが、その正体が見知った者と気付いて寸でのところで踏み止まる。その短い時間のうちに、エルネスタは最も親しい侍女に抱きつかれていた。
「ダシャ……⁉︎」
「うわーん! やっとお会いできましたあ! すれ違っていたらどうしようかと……!」
ダシャは泣きべそをかいていた。エルネスタも久しぶりの再会に涙腺が緩みかけるが、それよりも驚きと困惑の方が勝った。
「ダシャ、あなたどうして」
「だって王妃様、あれは流石の私もおかしいと思いますよ! エルメンガルト様ってば、基本的に絵ばっかり描いていらっしゃるし、最近に至っては集中しすぎて色々なものをすっぽかすんです! お食事や、ご入浴すらもですよ⁉︎」
エルメンガルトの生活ぶりを知らされたエルネスタは、気が遠くなるような思いを味わった。
確かに自分には向いてないとは言っていたけれど、まさかそこまで自由人だったとは。侍女にまで見破られるなんて、エンゲバーグの気苦労が透けて見えるようだ。
「本当にそっくりでいらっしゃるので、最初は気付かなかったんですけどね。でもルージェナ様と二人、やっぱりおかしいということになって、半信半疑ながらも尋ねてみたんです。そうしましたら、あっさり教えてくださいました」
エルネスタは我慢できずに頭を抱えた。そこでもうちょっと粘らずにどうするのだ、姫様。
「私はルージェナ様の命をうけて王妃様をお迎えに参ったのです。エルメンガルト様との交代に当たっては、お世話係が必要でしょう?」
「あなたは、怒ってないの……?」
一番早くに打ち解けてくれた心優しい女の子。エルネスタは彼女の好意を裏切ったのだから、失望されても仕方がないというのに。
「怒りませんよ。私は王妃様が帰ってきてくださるなら、それが一番嬉しいです!」
「ダシャ……! ごめん、ごめんね。ありがとう……!」
いつしか友情を築いていた二人はひしと抱き合った。
どうしてこんなにも皆が皆、優しいのだろう。
ヨハンも無条件でイヴァンを送り出してくれたと言うし、テオドルも力を貸してくれた。ダシャによればルージェナも身代わりの件を知ったと言うのだから、きっとカンカンだ。戻ったら宰相閣下と合わせての説教を覚悟しておかなければ。
「早く、帰らなきゃね。皆に謝って、お礼を言いたいの」
「はい! 皆楽しみに待っておりますよ!」
どちらからともなく体を離すと、二人は同じように泣き笑いを浮かべた。そうしてしばしの時間を過ごした後、ダシャは冷静さを取り戻した様で、慌てて国王に向かって礼を取った。
「へ、陛下、大変失礼致しました! どうぞ私めの同行をお許しいただきたく!」
「ああ、よく来た。此度は騒がせてすまなかったな」
「いいえ、とんでもない事でございます。王妃様がお戻りになられて本当によろしゅうございました」
ダシャは恐る恐るといった様子で顔を上げ、そこでようやく国王陛下の隣に立つ男に気付いて動きを止めた。
「どうして、兄様がここに……⁉︎」
震える手で兄を指差す少女は、すっかり顔面蒼白になっていた。見事な百面相である。
対するテオドルは、めんどくさい事になったと言わんばかりに口元を引きつらせている。
「あ、兄様! あなたは今、監獄にいるはずでしょう⁉︎」
「あーまて、落ち着けダシャ。まずは話を聞いてくれ」
「よく王妃様の前に顔を出せたものだわ。なんのつもりか知らないけど、これ以上王妃様に近づかないで!」
「正論なのは認めるから話を聞け! ったく、こういう事になるから一人で帰りたかったんだよ……!」
珍しく弱り切った様な声を上げるテオドルに、遣り取りを眺めていた二人は顔を見合わせて笑う。妹の物心がつく前に生き別れた兄妹は、いつのまにか口喧嘩ができるくらいには打ち解けていたらしい。
こうして、シェンカへの旅はより賑やかなものになった。
***
イヴァンは途方に暮れていた。何故なら、侍女の登場によって罪人を監視するという大義名分が無くなってしまったから。
ダシャは得意顔で兄の監視を買って出てくれた。断る理由を見出すことは叶わず、今のイヴァンはしかめ面で湯を浴びている。
全身の泡を洗い流してから浴室を出た。水気を拭き取って前合わせの寝間着を身に纏いながら、今日この夜をどう乗り切るかについて考える。
すると先程のエルネスタの、無防備な寝巻き姿を思い出してしまった。
ーーまずい。流石にまずいかもしれない。
いくらなんでもあんなに可愛らしい姿を見せられたら、自制心が保つか自信がない。
いやでも、既に対策は打ってある。エルネスタには先に寝ておくようにと伝えたし、己は寝込みの女を襲うような屑ではないはずだ。
イヴァンは手拭いを首にかけると、慎重な手つきで寝室への扉を押し開いた。
エルネスタは眠っていた。しかし予想と違っていたのは、クッションを抱え込むようにして毛皮のラグの上で丸くなっていたことだった。
傍に転がっているのは道中で買い求めた流行の小説。白い寝間着の上に纏うのは薄手のストールのみで、無防備な寝顔を艶やかな髪が横切っている。
どうやら彼女が夫を待つうちに眠ってしまったことは容易に想像がついた。
そのあまりの健気さに、あどけない寝姿そのものに、胸が引きしぼられるような痛みを訴える。
イヴァンは茫洋とした足取りでエルネスタの側へ向かった。音を立てないようにして片膝をつくと、この寝顔を眺める幸福を、ほんの数秒間だけ自らに許すことにする。
こんなにも誰かを愛おしく想う日が来るとは考えもしなかった。この狂おしい程の渇望は、一体どうすれば抑え込むことができるのだろうか。
知らずのうちに苦笑が漏れた。これでは風邪を引いてしまうから、早く寝台に運んでやらなければならない。その為に触れるのは流石に例外として許されるはずだ。
そうして手をのばしかけたところで異変が起こった。
ブルネットのまつげが震え、狭間から深緑が現れる。エルネスタは数度瞬きをすると、寝ぼけ眼のまま起き上がった。
「……イヴァン?」
眠気に霞んだ声で名前を呼ばれた。その愛らしさに返事ができなくなっているうちに、エルネスタは完全に目を覚ましたようだった。
「ごめんなさい、寝てしまったのね。待っていようと思ったのに……」
頬を薔薇色に染めて恥じ入るように俯く彼女の、なんと魅惑的なことか。
イヴァンはまたしても顔を出した煩悩を、頭の中で切り捨てなければならなかった。
「先に寝ていいと言っただろう。そんなに気を遣わないでくれ」
「ううん、私が待っていたかったの。貴方が起きているのに、眠る気なんてしなかったから」
だから、この人はどうしてこんなに可愛いことばかり言うのだろう。まさか自制心を試されているのか。
「……あ。イヴァン、ちょっといい?」
しかしイヴァンの葛藤など知る由もないエルネスタは、か細い手をゆっくりと伸ばしてくる。
一体何をと問う前に、首にかけた布に触れる感触があった。そのまま頭に移動した布が、優しい動きで髪の毛を拭い始める。
「ちゃんと乾かさないと駄目よ。風邪を引いてしまうわ」
手拭いで影になった視界の向こう、可憐な笑顔が眩しく映る。
幸せすぎて死にそうだ。馬鹿げたことに、イヴァンは本気でそう思った。
思い返してみると、エルネスタはふとした時に長女気質を見せることがあった。なんのてらいもなく他者の世話を焼き、率先して働き、歳下のダシャを気に掛ける。しっかり者なところも時折抜けているところも、愛おしくて仕方がない。
この優しい手を堪能できるなら、これからは水気を滴らせたまま風呂を上がるといいのでは。迷惑千万なことを考えていたら、不意に硬い声で名前を呼ばれた。視線を上げるとそこには緊張を湛えた深緑がある。
「実はね、頼みごとがあって」
「頼みごと?」
「ええ。あの、嫌なら断ってくれて構わないのだけど」
言いにくそうに目を逸らすエルネスタに、イヴァンは俄かに目を輝かせた。この控えめな妻が自ら望みを口にするなど、記憶が間違いでなければ初めてのことだ。
「あのね! 差し支えなければ、狼の姿を見せて欲しいの!」
決死の様子で放たれた願い事は、完全に予想外のものだった。
何を置いても叶えてやろうと身構えていたイヴァンは、あまりのことに呆けた表情を晒してしまった。
「……やっぱり、駄目よね」
エルネスタは夫の反応を否と捉えたようで、すっかり落ち込んで俯いている。
己の失態を悟ったイヴァンは、散らばった意識を慌てて搔き集めると、一も二もなく頷いた。
「全く問題ない。今からでも見せてやろう」
「……本当に? 無理しなくていいのよ」
「驚いただけで、別に変身くらい何も特別なことじゃないさ」
安心して欲しくて微笑むと、エルネスタもまた柔らかい笑みを見せてくれた。
ああ、本当に変身くらい何のことはない。この笑顔が見られるなら、どんな苦労をしたって一向に構わないのだから。
イヴァンはすぐさま狼へと姿を変えた。途端に視界が下へと流れ、毛皮に覆われた前足が地面をつく。
エルネスタが抱きついてきたのは、まとわりつく寝間着から抜け出した瞬間のことだった。
何が起きたのか把握するのに時間を要した。細い腕が狼の首に回され、石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。突然の事態に混乱する頭は、それでも彼女がもたらした幸福感をしっかりと受け取っていた。
[……エリー?]
名を呼ぶ声は狼の鳴き声に取って代わる。
彼女からの願いごとも初めてなら、抱きついてくれたのも初めてだ。柔らかな感触が胸を突いて、まともな反応を返すことができない。
「……本当に。本当に、貴方だったのね。狼さん」
囁くような掠れ声が空気を震わせて、ようやく彼女が泣くのを我慢していることを知る。
ゆっくりと体を離したエルネスタは目を潤ませていたが、その表情はどこまでも優しかった。
「ようやく実感が湧いたわ。狼さんが……イヴァンが無事で良かった。生きていてくれて、ありがとう」
その儚げな笑みを見ていたら、幸せと喜び、そしてずっと礼を言えなかった後悔が混ざり合い、甘い痛みとなって沁み渡っていった。
八年前の少女との思い出を話した時、彼女はどんな思いで聞いてくれていたのだろうか。
[それはこちらの台詞だ。ありがとう、エリー]
感情のままに返した言葉は、やはり狼の鳴き声にしかならなかった。
それでもエルネスタは意味を正確に受け取ったようで、花のように笑うのだった。




