身代わり生活の始まり 2
正面の扉から現れたのはイヴァンだった。彼はいつもの無表情で、エルネスタと視線を合わせるや否や眉をしかめて見せた。
やはり相棒の元が一番落ち着くのか、ミコラーシュはすぐにイヴァンの元に寄り添っている。殆ど触ることができなかったので、エルネスタは至極残念に思った。
「何か用か、王妃」
怒られるかと身構えたのだが、案外普通に用件を尋ねられて拍子抜けしてしまった。
しかし用事は彼が秘密を守るために負った怪我についてだ。ヨハンの居るこの場で話題にするわけにはいかない。
「い、いえ……ただ、ご様子を伺いに。お仕事の邪魔をしてしまって申し訳ありません。失礼致します」
手袋をしていてよく判らなかったが、怪我をした左手で何やら書籍を抱えているのを見るに、別段問題は無いのだろう。
エルネスタは尋ねるのを諦めて退室しようとしたのだが、扉をくぐる寸前で呼び止められたので、再度室内へと振り返った。
「はい、陛下。何でしょうか」
「無理をしなくてもいい。好きに暮らせ」
それは労りとも、拒絶とも取れる言葉だった。
本当にこのひとのことが解らない。
出会ってからの態度を見るに後者の可能性が高いのだろうが、だからこそエルネスタは知りたいと思ってしまうのだ。冷たい反応ばかりを返してくるその理由を。
「お気遣いありがとうございます。ですが、不束者なりに努めさせていただきたく思っております」
好きにするのは簡単だ。けれど、それでは夫婦の関係が破綻してしまう。
それなりに仲良くなること。拒絶されている現状では難しいにも程がある使命だが、できうる限りのことはしてみよう。
「明日から仕事をします。沢山のことを知りたいと思っています。ご迷惑をおかけするかと思いますが、至らない点があれば仰ってください。よろしくお願いしますね」
ヨハンにも伝えたかった事なので、二人の目を見ながら堂々と告げた。口答えをするという暴挙に心臓が嫌な音を立てていたが、何とか動揺を隠し切ったエルネスタは、最後には微笑んで見せたのだった。
***
王妃が退室して行ってしばらく、イヴァンは茫洋とした視線を空中に漂わせたままでいた。
今見聞きしたもの全てが意外過ぎて、受け止めるのに時間を要したのだ。ヨハンも同じ気持ちだった事だろうが、立ち直るのは早かったようで、彼は主君へと向き直ると開口一番こう言った。
「陛下。王妃様との会話を聞いていましたね?」
図星を指されたイヴァンは、それでも目を細めるだけに留めて肯定を示す。
悪いことをしたとは思うが、扉を開けようとしたら会話が聞こえて来たので、動くに動けなくなってしまったのだ。
「人間は人狼族を恐れ、遠ざけようとするものだ。あれは一見、そうは見えないが」
エルメンガルトは成る程、よくよく言い含められているのだろう。良い関係を築け、さもなくば同盟が破綻し戦争になるかもしれない、と。
大したものだ。尊敬に値する勇気と責任感だ。
しかし言動の端々に垣間見える恐怖心と不安は、隠しきれるものでは無かったらしい。
「演技まですることは無いのだがな。元より姫君一人の態度にかこつけて、同盟を破棄するつもりなど毛頭無い」
自らも足を運び、ヨハンを筆頭とした臣下の努力の末、八年越しで実現した同盟だ。その苦労を無下にすることなどできるはずもない。
国を良い方向へと導くこと。イヴァンにとってはそれだけで十分なのだから。
***
エルネスタはとぼとぼと自室への帰路を辿っていた。こちらに到着して三日目になるのだが、未だに誰とも打ち解けられていないとは。
廊下の先では二人の侍女が会話を楽しんでいる。彼らは人狼族同士ではとても気安いやりとりをするをするのに、エルネスタが姿を表すと途端に身を硬くしてしまうのだ。
案の定、侍女たちは王妃の存在に気付いた途端に顔を強張らせ、そそくさと立ち去っていった。
どうしてなのだろう。他国の姫君への腫れ物扱いといえど、流石に限度があるような気がする。
少しの間足を止めていた事に気付き、エルネスタはまた歩き出した。いつのまにか自室へと到着してしまい、暗い気持ちのまま扉を押し開く。
中には先客の姿があった。
ダシャは背を向けて何やら作業をしていた。文机以外に机が存在しないこの国の習慣に従って、絨毯の上には色とりどりの菓子と茶が並べられている。
「ダシャ、お茶を淹れてくれたの?」
「ひゃっ! お、王妃様!」
ダシャはわかりやすく肩を震わせると、手に持っていた茶器を滑らせて派手な音を立てた。
割れていない事を反射的に確認して胸を撫で下ろしたエルネスタだが、少女は自らの失態に顔を紙のように白くしてしまった。
「も、もうしわけありませぇん! 大変な失礼を致しまして、なんとお詫びすればよろしいのか」
気の毒なほどに竦み上がったダシャを前に、エルネスタは困惑を隠せなかった。王族の前で失態を犯す事は、こんなにも萎縮するようなことなのだろうか。
わからない。しかし目の前で少女が真っ青になっているのに、取り澄ました王妃のままでいて良いはずがない。
「どうか気にしないで、誰だって手を滑らせることくらいあるわ。怪我はない?」
「王妃様……」
安心させるようになるべく優しく話すと、ダシャは信じられないとばかりに顔を上げた。
その反応にも驚きを覚えたエルネスタは、疑問を素直に口にすることにした。
「どうしてそんなに怯えているの? 私はあなたと仲良くしたいと思っているから、できればもっと楽に接して欲しいのだけど」
「え……!?」
ダシャはどうやら正直な性格の持ち主のようで、わかりやすいほどの驚きを表情で伝えてくる。そんなにおかしな事を言ったつもりはないのに。
「王妃様は、私達のことが恐ろしくはないのですか……?」
「恐ろしい?」
逆に質問で返され、その意図を読めずに首をかしげる。要領を得ない主に観念したらしいダシャは、おずおずと言葉を続けた。
「人は、人狼族を恐れ、忌避するものです。私は……怖がられる事が、悲しいです」
エルネスタはようやく納得した。
どうやら考えていたよりも、人狼族と人間との間には大きな隔たりがあるらしい。
ブラルでは人狼族に対する畏怖の感情は根強く、エルネスタのような国境暮らしでもなければ会ったことすらない者が殆どだという。同盟を結んだからといって、はいそうですかと打ち解けられるわけではない。
現実を理解していても、一方的に怯えた眼差しを向けられることは悲しい。そんな当たり前の感情を、ダシャは至極素直に話してくれたのだ。
「怖がられることに対して緊張して怯えているだなんて、ダシャは優しい子ね」
彼らには力がある。
人間の姿の時は抜きん出た身体能力を。
狼の姿の時は獣のしなやかさを。
人狼の姿の時は強さを。
その事実をもってすれば、人間を見下し、迫害してもおかしくはないはずなのに、この少女はそうはしなかった。
「あなたみたいな子がいてくれて嬉しい。知らない国に行くことは、やっぱり少しは怖かったから」
ここまでエルネスタには、両国の関係性が良くないことにあまり自覚がなかった。自身に偏見が無いが為に、いくらエンゲバーグに注意を促されても、なかなか理解ができなかったのである。
きっとダシャのような者ばかりではなく、この短い期間でも様々な考え方に出会うことだろう。
それでもせめてできるかぎりのことはしよう。この二つの国がうまくやっていけるように。
「私も頑張るわ。だからよろしくね、ダシャ」
「は、はい、王妃様。こちらこそ、よろしくお願いします!」
ダシャはパッと顔を輝かせて、勢いよく頭を下げた。それまでとは打って変わって、緊張の取れた笑みにこちらまで嬉しくなる。
「ねえダシャ、一緒にお茶にしましょう」
「私でよろしければ、喜んで!」
ダシャは嬉しそうに頷いてお茶の準備を再開した。
その表裏のない表情に救いを感じながら、エルネスタはしばしの休息を得たのだった。




