珍道中と知られざる苦悩 1
馬車での旅はとても楽しいものになった。どうやらテオドルは口を回し続けることができるようで、常に話題が尽きないのだ。
何よりイヴァンが自然な笑みを見せてくれるので、エルネスタは嬉しかった。
彼等にはこの後様々な壁が待ち受けているけれど、それが終わったらまたこんなふうに話せるようになるだろう。そう信じられる時間は柔らかく過ぎていく。
過去を含めた会話をしては、それぞれ本や新聞を読み、景色を眺める。そうして過ごすうちに一日は終わり、一行は予定通りの行程で宿場町へとたどり着いていた。
「お前は何でそんなにクソ真面目なんだよ! 俺は逃げたりしないって言ってんだろ⁉︎」
「駄目だ。エリーが個室、俺とお前は相部屋。これは決定事項だ」
「三週間も野郎と相部屋なんて冗談じゃないぜ! いいから夫婦は同じ部屋で仲良く寝ろよ!」
部屋の扉の前で言い争いを始めた男共に、エルネスタは大きな溜息をついた。
これだけ喧嘩ができるのだから、やっぱりこのひとたちは仲が良い。ここにヨハンまでいたらもっと面倒なことになっていたのではないだろうか。
二人とも大概頑なだとは思うが、言い分としてはイヴァンの方が正しい気がする。そう考えたエルネスタは苦笑を浮かべつつ、援護射撃を行うことにした。
「テオドルさん、あんまり騒ぐと迷惑になるわ。良いじゃない、イヴァンとは積もる話もあるでしょう?」
「無ぇよんなもん! おい、あんたはそれで良いのか?」
「え、私? 構わないけど」
別段良い悪いについて考えたこともなかったので、エルネスタはあっさりと頷いた。建前上は「囚人を護送している」という状況でもあるのだから、必要なことなのだろう。
「……そうかよ。わかった、それならいい」
テオドルはあからさまに肩を落とした。「せっかく気いつかってやってんのに、何なんだよこいつら……」とよくわからない独り言を呟いていたが、イヴァンが友人の背中を押して二人部屋へと押し込んだので、それについて聞き返すことはできなかった。
「エリー、お休み」
「お休みなさい、イヴァン」
挨拶をして彼らと別れたエルネスタもまた、隣の部屋の扉をくぐる。
部屋に入ったらようやく人心地つくことができた。真っ先に寝台に倒れ込み、天井の木目を意味もなく眺める。
もうここはシェンカの地。本当に帰るのだと実感が湧き始めて、なんだかそわそわと落ち着かない。
「……やっぱり、これで良かったのかも」
いきなりイヴァンと相部屋などということになったら、緊張で死んでしまうところだった。あの晩からは殆ど二人きりにもなっていないし、心の準備すらできていない。
エルネスタはゆっくりとした動作で起き上がり、隣の部屋とを隔てる壁を見つめた。
ほっとしたのは事実でも、やっぱり少し寂しい。
身勝手な感情を持て余した乙女は、疲れた体を引きずり入浴の準備を整え始めるのだった。
***
「あーあ、まさかお前がここまで堅物とは思わなかった。あのさ、もうちょっと恋人らしい態度、取った方がいいんじゃねえの?」
部屋に入るなり溜息交じりの助言が放り投げられたので、イヴァンは荷物を置きつつ真紅の瞳を睨んだ。テオドルは凍てつく視線にもまったく怯む様子がない。
この男は国王夫妻の間に何があったか詳しく知るわけではないが、それでもようやく想いを交わしたことは察しているらしかった。
「殆ど意識されてないだろ、あれ。いいのかよ」
「……今はそれでいいんだ」
イヴァンは絨毯に座り込んで荷解きを始めることにした。
中に収められた黒のチョハを見るなり苦笑が浮かぶ。エルネスタによってすっかり洗い上げられたそれは、今回の旅で身に纏うことはない。
黒は英雄の色のため、目立ちすぎるのだ。着替えすらしないまま城を飛び出してきたとはらしくない失態だった。
「どういう意味だ?」
残念ながらテオドルは追求を諦めていないらしい。自らもしゃがんで着替えを取り出しつつ、未だにその口は回り続けている。
「別段意味はない」
「そんなことないだろ。今はって言ったじゃねえか」
「……お前は昔から、馬鹿なようでいて鋭い」
「一言余計なんだよ!」
イヴァンは一つため息をつくと、観念して友と向き直った。テオドルは改まった様子に怪訝な顔をしていたが、胡座をかいて聞く姿勢を取ってくれた。
「実はブルーノ殿に釘を刺されたんだ。きちんと結婚の誓いを立てるまで手を出すなと」
「はあ。それで?」
「だが、俺は二人きりになろうものなら何をしでかすかわからない。お前には協力してもらうぞ」
「……はあ⁉︎」
テオドルは素っ頓狂な声を上げた。しかし今度は盛大に吹き出すと、世界で一番面白い話を聞いたとばかりに笑い始めた。
「お前、お前の理性が持たないって⁉︎ 後腐れのない関係しか望まなかったお前が? 数えきれないほどの勘違い女を切って捨てたお前がか⁉︎」
やっぱり言うんじゃなかった。
瞬時に後悔に襲われたイヴァンは、爆笑ぶりに負けじと眉を釣り上げて怒鳴り返す。
「そんな話を蒸し返すな! ひとが珍しく頼みごとをしているというのに、黙って頷くくらいの対応ができないのか! どこまでくそ野郎なんだ!」
「おいおい、口が悪いぜ陛下! あっはははははは!」
友が腹を抱えて絨毯に転がる中、イヴァンは奥歯を噛んでこの屈辱に耐えた。こいつはやっぱり終身刑で良いのではないだろうか。いや、いっそのこと……!
ひとしきり笑い転げたテオドルは、目の端に滲んだ涙をぬぐい、体を起こしたところでようやく落ち着いたようだった。
「もうさ、正直に言えばいいじゃん、それ。案外『父さんのことは気にしなくて良いよ♡』って言ってくれるかもよ」
「気色の悪い演技をやめろ。殺すぞ」
「お前が言うと洒落になんねーよ……」
本気で殺意を漲らせる国王を前にして、テオドルは露骨に引いたようだった。しかし友の反応も意識の外に締め出したイヴァンは、腕の中で身を硬くする愛しい人の姿を思い描いていた。
やはり駄目だ。気が急いて彼女を傷つけるようなことは、絶対にしたくない。
「……家族と滅多に会えない場所へと引き離すなら、せめてその家族が願うことは叶えねば。それに俺がエリーに与えてやれるのは、誓いくらいなものだからな」
エルネスタの全てを大事にして、守り抜く。それは背負うもの以外は何も持たない男の不器用な想い。
そのために我慢することは、絶大な苦しみを生みはしても不可能ではない。既にシェンカにいた頃から我慢に我慢を重ねて来たのだから、その期間が少々伸びるだけだ。ああ、断じてそれだけのはず。
だからこそヴァイスベルク滞在中もなるべく二人きりにならないように、指一本触れないように気をつけて来たのだ。最後にちょっと触れてしまったが、あれだけはお目溢し願いたい。
「損な性格だね、お前も」
テオドルはポツリと言った。その表情に馬鹿にした色は無く、純粋な苦笑だけが浮かんでいたのだった。




