謀略の終わり
皇帝カールハインツは、今まさに届いた親書に目を通しているところだった。
最後に押されたウルバーシェク王家の印章を見た瞬間、こらえようのない怒りが湧き上がって来て、親書を握りしめた拳を卓上に叩きつける。
卓上に乗せられた灰皿やペンが耳障りな音を立て、一拍遅れて右手が痺れるような痛みを訴えたが、そんなことはどうでもいい。これは一体どういうことだ。あんな蛮族どもに、こんな舐めた親書を叩きつけられるとは。
「コンスタンツェ! お前が任せろと言うから任せたのに、この有様はどうしたことか!」
「申し訳ございません、陛下。事の次第は先ほどお話しした通りですので、これ以上申し開きすることはございませんわ」
皇帝の怒りようにも、皇后コンスタンツェは静かな無表情を崩そうとしない。その様子にさらなる怒りが呼び起こされたが、この窮地を脱する方法は浮かんでこなかった。
絶対的に下と見なしていた連中に足を掬われた不快感は筆舌に尽くしがたい。こんなことがあってたまるものか。こんな不平等な条件など飲めるはずがない。
「陛下、わたくしはよく分かりました。彼らを見下し、謀った事自体がそもそもの間違いだったのです」
「……何だと?」
「最初から謝れば良かったのですわ。さすれば、何事も起こらなかったでしょうに」
コンスタンツェは相変わらずの無表情だ。しかしその瞳には哀れみが浮かんでいる気がして、カールハインツは言葉に詰まる。
なぜ今更そんな目で見る? 今まで何一つ口出しする事なく、粛々と従ってきたくせに。夫のすることになど興味がないと言わんばかりだったというのに。
臣下に無能と陰で囁かれようとも、必死で虚勢を張ってきた。カールハインツのまとう鎧は、今まさに崩れ落ちようとしていた。
「黙れ……! 政治のことなど何も知らぬ女が生意気な口を叩くな!」
一喝する声にはどこか悲痛な色が混じっていた。しかし自分ではその事実に気付かない。
「見誤ったのです。ただそれだけのこと」
「そんなことはない! そんなはずが……!」
「同盟における最大の利点を失いましたが、開戦とならなかっただけ僥倖ですわ。そうお考えいただかなくては」
カールハインツは反論材料を持たなかった。煮えたぎる怒りが認めるのを拒んでいても、彼女が言うことが正論であることは、頭では理解していた。
「なんたることだ。これでは我が国は笑いものだ……」
「ええ、そうですわね。ですが、違った見方をする事もできます」
「……何?」
「たしかにシェンカの一番の価値は軍ですから、その貸し出しがされなくなったことは不平等と言えます。ですがお互いの派兵を無しにせよとのことですから、シェンカをごく普通の国と仮定した場合、ただの貿易同盟に変化しただけとの見方が生まれるのです」
目から鱗が落ちるような衝撃に、カールハインツは音にならない呻きを吐き出した。
確かにその通りだ。奴らの軍事力に固執するあまり、そんな簡単なことも見えなくなっていたのか。
「イヴァン王は賢明なお方。不平等条約を結んでは、後に禍根を残す事になるのをよく理解しておいでです。もしかすると、これを機にシェンカの資源は軍事力のみという状況を、打破するおつもりなのかもしれませんね。ええ、今回の件をすっかり利用されてしまったかと」
「お前は……なぜ急に、そんなことを勉強したんだ」
呆然と呟いた皇帝に、コンスタンツェは微笑んで見せた。それは久しぶりに目にする妻の笑顔だった。
「昔からですわ陛下。わたくし、教育係のおかげで勉強が好きになったのです。……あと、最後に一つだけ。エルネスタが元気でお過ごし下さいと、申しておりましたわ」
カールハインツは瞠目した。これだけのことをされて、何故そんなことが言えるのか。
産まれてきた時以来一度も会っていない、もう一人の娘。
そうだ、双子だと聞いた時、確かに絶望を感じたはずだった。娘を捨てざるを得ない罪悪感を忘れるために、非情に徹して、最後には利用して。
様々な記憶が去来して、カールハインツは足元がぐらつく様な気分を味わった。
「……わけが、わからん」
「そうでしょうね」
「……エルメンガルトは、どうしているんだ?」
「その条件を見るに、悪い様にはなさらないでしょう。二度と会えないことは、確かですが」
それは夫婦の抱えた共通の罪であった。子供と向き合ってこなかった結果、そっぽを向かれた。これはただそれだけのことなのだ。
今はただ打ちのめされたまま下を向く夫に、コンスタンツェが向けた瞳は悲しくも優しかった。それが最初の救いとなることを、カールハインツが知るのはまだまだ先の話である。




