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夢じゃない 2

 家族会議の後はイヴァンから色々と状況を聞くことができた。本格化する前に戦を終わらせたこと、ミコラーシュもシルヴェストルも無事だったこと、そしてエンゲバーグとエルメンガルトを罪に問うことはしていないと聞いて、エルネスタは全身の力が抜けるような思いだった。


 そうして家族もそれぞれの部屋に引き上げた後、手にした布団を客間のベッドの上に広げたエルネスタは、ためらいを覚えつつも後ろを振り返った。


 そこには風呂上がりのイヴァンが立っている。金の髪を湿らせた姿は相変わらず精悍な色気に満ちていて、エルネスタは直視するのが精一杯だった。ブルーノの麻のシャツと木綿のズボンは大して上等な品ではない上に、サイズが少しばかり横に大きいのだが、彼が着ると品格が漂うのだから不思議だ。


 対して今のエルネスタはまだ入浴を終えておらず、体を軽く拭いて格子柄のワンピースに着替えただけの状態だ。三つ編みはほつれていたから解いて一つにくくってしまったが、それはそれでみすぼらしく見える気がする。

 そんな姿で慕わしいひとの前に立つ恥ずかしさを押しやって、エルネスタは努めていつものように微笑んだ。


「寒いといけないから、多めに出しておいたわ」


「ああ。世話をかけたな」


 そう、彼はイゾルテの強引な勧めにより、このゲントナー家の客間に泊まることになったのである。

 まさか国王陛下をこんな狭い部屋に押し込むことになってしまうとは。エルネスタは母の暴挙を止めようとしたのだが、当のイヴァンはあっさりとその申し出を受け入れたのだから驚きだった。


「あの……この街にはもっと良い宿があったのに、こんな狭い部屋でごめんなさい。ベッドの長さが足りると良いんだけど」


 エルネスタは身を縮めて俯いた。

 忙しいイヴァンをこんなところまで出向かせてしまった。彼にこれ以上の負担をかけたくないと思うのに、まさかこんな展開になるなんて。


 網のように絡まる罪悪感に心を沈めていると、頭上から微かな吐息が降ってくる。恐る恐る顔を上げた先には、いつしか見慣れた綺麗な苦笑があった。


「俺はエリーの側にいたい。ここに泊めてもらえるなら、それ以上の宿など存在しないだろうな」


 ーー本当に、どうしてしまったの。


 さらりと告げられた言葉に、エルネスタは頬を紅色に染め上げた。二の句が継げなくなっているうちに腰に手が回ってきて、力強く引き寄せられる。


「君は違うのか」


「え……?」


 頬に触れる手は、その厚みに沿うだけの熱を帯びていた。切なげに細めた藍色に射すくめられたエルネスタは、その距離があまりに近いことに焦燥を覚えた。


「俺はエリーに会いたくてたまらなかった。その日の戦が終わるたびに、これでまた会える日が近付いたと思った。君が笑いかけてくれる夢を何度も見た」


 頬の丸みを辿る手が離れていき、今度は右手を捕らわれてしまう。手の平が合わさって指と指が絡み、その熱さに驚いていると、気付いた時には手の甲に唇を押し当てられていた。


「冷たいことを言わないでくれ。こうして抱きしめたまま、二度と離したくない程だと言うのに」


 無防備な手に低い声の振動を感じた頃には、エルネスタはあまりのことに涙目になっていた。

 やかましく鳴り響いているはずの心臓の音すら聞こえない。頬が燃えるように熱くて、つまりはその熱の分だけ赤くなっているであろうことに思い至り、無性に恥ずかしくなった。

 どうしたらいいのかわからない。彼がここにいるというだけで信じがたいのに、その上こんな。


「そ、そんなの……私だって、会いたかった」


 エルネスタは熱を帯びた双眸を直視できずに目を伏せた。そうでもしないと、もう話すことすらままならなかった。


「ついさっきまで二度と会えないと思っていたんだもの。嬉しくて……どうしたらいいか、わからないの」


 震える声で何とか想いを伝え切った瞬間、痛いほどの力で抱きしめられた。

 右手は解放されたものの、今度は全身を縫いとめられてしまう。風呂上がりの体は熱く、肩と腰にそれぞれ回された腕は鋼のように強靭だった。


「どうしてそんなに可愛いんだ? 君はいじらしくて、健気で……たまらない気持ちになる」


 エルネスタは何を言われたのか解らず、抱き返すことなどできなかった。それは今までのように身代わりの事実を慮ってのことではなく、突然の触れ合いが混乱を呼び込んだから。


 全身が強張り、息の仕方すらわからなくなる。視界が霞むのは眩暈のせいか、涙が膜を作っているせいか。

 こんなに幸せでいいのだろうか。まるで夢の中にいるみたいで、砂に足を取られたような焦燥感が頭の片隅に居座っている。


「エリー」


 名前を呼ばれておずおずと顔を上げた。視線が交わったのは一瞬で、エルネスタは口付けられる寸前で目を閉じていた。

 柔らかい熱が唇、鼻、頬と移動して、いつしか首筋に辿り着く。白く薄い肌に男の唇が触れた瞬間、露骨に肩を跳ねさせてしまった。


 ーーどうしよう、恥ずかしい。ここは家なのに。でも、幸せで。好きなんだもの。だから、だから……どうしたら、いいの。


 まともな思考回路はとうに働かなくなっていて、エルネスタは固く目を瞑ったまま体を震わせていた。

 やがて触れる唇が遠ざかり、間を置いて苦笑が空気を震わせたのを感じ取る。どうしたのかと不思議に思って目を開いたのと、額に口付けが落とされたのは、殆ど同時だった。


 彼の微笑みは優しいのにどこか切なげに見えるような気もした。大きな手が肩を包み、ゆっくりと体が離れていく。

 寂しい。咄嗟にそう思ってしまって、エルネスタは頬を抑えた。先程まであんなに動揺していたのに、こんな感情は矛盾している。


「……そういえば、あの飴。美味かった」


 それは唐突な話題転換ではあったが、その言葉の意味にはすぐに思い至った。


「あ……! アプリコット味、大丈夫だった?」


「ああ。すごく力になった」


 イヴァンは出陣前に渡した飴を食べてくれたのだ。もしかすると荷物になって迷惑かもしれないと思っていたので、エルネスタは顔を赤くしたまま微笑んだ。


「良かった……」


 するとイヴァンは一瞬だけ瞠目して、それからすぐに目を逸らしてしまった。何か変なことを言っただろうか。



 *



 エルネスタはコンラートの部屋で正座をしていた。目の前で仁王立ちになった部屋の主は、機嫌の悪さを隠そうともしていない。


「朝からバタバタとうるさいよ」


「はい、ごめんなさい」


「こっちは昨日の緊急家族会議のせいで寝不足なんだけど。学生の安眠を妨害するなんて、それでも大人なわけ?」


「はい、仰る通りです……」


 殊勝に謝罪を述べる姉に飽きたのか、コンラートは鼻を鳴らすと、床に散らばった機材の一つを取り上げた。

 実のところ、コンラートの部屋は本格的な天体観測所である。我が家が鍛冶屋であることを活かして、自身で考案した計測器をブルーノと作ったりしているらしい。


 姉とは違い学問として星へと向き合うことを選んだこの弟は、母親譲りの聡明さで地元でも評判の俊才なのだ。


「しばらく見ないうちにまた知らない物が増えたわね。今はどんな研究をしてるの?」


「地動説の証明。母さんと研究を重ねに重ね、実はまさに昨日完成したんだけどね」


「ちどうせつ? なあに、それ」


「発表を終えたら教えてやるよ。信じるかは姉さん次第だけどね」


「ふーん……?」


 勿体ぶった言い回しに首をひねったところで、階下からイゾルテが呼ぶ声が聞こえてきた。どうやら朝ご飯の手伝いの要請らしい。


「行かないと。コンラートはもうちょっと寝てて」


「ん。あ、そうそう姉さん、結婚おめでとう。せいぜい美形旦那に愛想をつかされないよう頑張ってよね」


 コンラートはからかうような笑みを浮かべた。それは久しぶりに見る、弟の表裏のない笑顔だった。


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