夜天に乞う
エルネスタはすっかり顔色を無くしながらも、五歩分ほど離れたところにいる男を見つめていた。
幻聴に続いて幻覚まで見始めたのだろうか。いや違う、これは現実だ。頬を撫でる風も、遠く聞こえる虫の声も、全てが生々しい。
ーー無事だったのね。良かった。
それ以外にも気にするべき事はたくさんあったのに、まずはそれだけの感慨が頭に浮かんだ。しかしすぐに混乱ばかりが頭を満たし、エルネスタは消え入りそうな声で呟いた。
「どうして……」
ほとんど独り言のような疑問符に、イヴァンは溜息をついたようだった。それは重苦しいものではなく、仕方がないなと言わんばかりの軽やかなもの。
「君たちは揃いも揃って俺を甘く見過ぎだ。別人であることくらい、一目見ればわかる」
カラカラになった喉は答えを返してはくれず、ひゅっと無様な音だけが鳴った。
どうして。それが本当だとしても、どうしてこんなところに来たの。
恐怖に濁った頭が疑問を次々と生み出したが、エルネスタにはその答えよりも目の前の現実の方が重要だった。
ついにイヴァンに知られてしまったのだ。彼はどう思ったのだろう。人間などやはり信用に足るものではないと、深く失望したのではないだろうか。
もし夜空の瞳が侮蔑に濁り、明朗な声で非道を責められたら。そう考えるだけで全身から力が抜けたが、エルネスタはよろめきながらも立ち上がった。
「もう、すべて、ご存知なのですね……」
「ああ」
「申し訳、ございませんでした。わ、私は、どうなっても構いません。ですから、どうか」
懺悔の言葉は途中で途切れた。何故なら、ようやく間近で目の当たりにしたイヴァンの顔が、見たこともない程の悲しみを映していたから。
「もう、以前のように話してはくれないのか」
「……できません。私は、貴方の妻ではないのですから」
家族は敬語など使わないと言ってくれた時のことを思い出す。たぶんあれが初めてお互いに歩み寄れた瞬間だった。
二人の間には確かに積み重ねたものがあって、それがとても暖かいことを知っていたのに。
「そうだな。君は最初から俺の妻ではなかった」
だから、本当のことを言われたくらいで、泣きそうなほどに傷つくのはおかしい。
「だから俺は、君に本当の妻になってもらうために、ここへ来た」
その言葉はとても遠く聞こえて、エルネスタは蒼白になった顔をゆっくりと上げた。
「君を愛してる。一生をかけて守るから、俺と結婚して欲しい」
掠れた吐息が唇の端からこぼれていった。
いつしか夜空は星の輝きを宿し、薄く欠けた月が辺りを照らしている。黄昏の暗がりにあって、イヴァンの瞳が少しも揺らいでいない様子が見て取れた。
「な、にを、おっしゃるのですか……?」
反対にエルネスタの声はすっかり震えていた。このひとがここに居ること自体受け止めきれていないのに、更に予想外の事を言われて、思考回路が上滑りしていくのを感じる。
殆ど無意識のうちに、エルネスタは首を横に振った。その仕草にイヴァンが痛みを堪えるような表情をしたことは、もはや汲み取ることすらできなかった。
「どうして、そのような事を」
「どうしてと言われてもな。本心だから仕方がない」
その瞳も心も、嘘など一つも含まれていないことを、エルネスタはよく知っていた。
相変わらず頭が仕事をしてくれない。じっくりと時間をかけてイヴァンが放った言葉の意味にたどり着いたエルネスタは、顔を更に白く塗り替えた。
まさかそんな、そんな事あるはずない。このひとを騙していたのに。知られてしまった今、自分にもたらされるべきは糾弾のみのはずなのに。
「そんな。許されません……!」
叫んだ声は悲痛に響いた。一番欲しい言葉を貰ったはずなのに、心がばらばらに砕け散ってしまいそうだった。
それならば尚更この罪は重い。
イヴァンがくれたものを全部捨ててしまった。エルネスタは最低の裏切り者だ。
「誰が許さないんだ」
「全てです! シェンカのみなさんも、エンゲバーグ大使も、エルメンガルト様だって……!」
「皆が王妃として慕ったのは君だ。エンゲバーグ伯とエルメンガルト姫にも連れて帰って来いと言われている」
「ですが、ブラルの皇帝陛下が」
「捩じ伏せる。その為の準備ならしてきた」
淡々と反論を潰されて、エルネスタは息を詰めた。
そこでようやく気付く。彼の瞳が、藍色の炎を燃えたぎらせていることに。
「それでも、駄目なんです! 私は、私が許せない。身勝手な理由で貴方を、貴方が命をかけて守る国を、騙していました。それなのに、貴方の側になんて居られるはずないもの……!」
「君が許さないなら俺が許す。俺の隣に立つ資格など、俺が選んだという以外に必要ない」
黒い革ブーツに包まれた足が一歩を踏み出すので、エルネスタもまた一歩後ずさりをした。縮まらない距離に眉をひそめたイヴァンは、それでも視線を逸らすことはなかった。
「俺は君を愛していると言った。聞かせて欲しいのはその返事だけだ」
エルネスタはまたしても怖いと思った。しかし今度のそれは嫌われる恐怖ではなくて、今までで一番の熱を宿した藍色の瞳を見つめての事だった。
どれほどの祈りを捧げれば償えるのだろう。どれほど謝れば、もう一度このひとの笑顔に出会えるのだろう。
許されていいはずがない。エルネスタは酷い嘘をついたのだから、この想いを受け止めることなどできるはずもないのだ。
それなのに。
「私……約束を、守れなかった……」
いつしか付け焼き刃の敬語は消えて、頼りなげな声だけが薄闇に溶けていく。
ようやく溢れた本心と共に、透き通るような涙が頬を伝った。エルネスタはむせかえるような喜びと罪の意識に引き裂かれ、胸から血が流れるような錯覚すら覚えていた。
「待っているって、言ったのに……うら、ぎって。貴方も、みんなも、ずっと優しかったのに。ずっと、嘘をついてた」
何もわからない。どうすればいいのかも、どうしたいのかも。
それでも口は勝手に動いて、秘めた想いを紡ぎ出してゆく。
「身代わりの役目、引き受けたのだって、対価があったからなの。だから苦しいだなんて、思ったらいけないって、わかっていたのに。どんどん、帰りたくない、って」
しゃくり上げながらの告白は要領を得なかったし、聞き取りにくい程だったが、イヴァンは黙って聞いてくれていた。
なんて身勝手なことを言っているのだろう。エルネスタは消えてしまいたいような心地がして、藍色の瞳を見ていられずに固く目を閉じる。
「本当に、ごめんなさい……! それなのに私はっ、イヴァンのことが、好き。ごめ、なさ」
言い終わるか終わらないかのうちに、乱暴なまでの性急さで唇を奪われていた。
イヴァンのそれは熱いのにかさついていて、ここに来るまでの長い道のりを忍ばせている。
角度を変えて二度、三度と口付けられる間、エルネスタは固く閉じた瞳から涙をこぼし続けた。自分の身に起きた事への実感が湧かないのに、それでもこの体温が愛おしいのだからどうしようもなかった。
「謝るな。エリーを責める者などひとりもいない。こんなに追い詰めて泣かせるくらいなら、約束などしなければ良かった」
不意に唇から熱が離れて、掠れた声が真上から降ってくる。そっと目を開けると、間近に悲痛な後悔を宿した顔があったが、涙のせいでよく見えなかった。大きな両手が頬を包み、愛おしむように目の縁を拭っていく。
「俺は君に救われてばかりだな。八年前も、今も」
八年前という単語が何を指しているか理解して、エルネスタは霞む瞳を細めた。
「いつ、気付いたの」
「今さっきだ。ヴァイスベルクと聞いて、まさかと思った。けどこの空き地を通り過ぎようとしたら、君がいて……そのとき確信したんだ」
あの狼にもう一度会えたなら、思い切り抱きついて無事を喜びたいと思っていた。ふたりここに座り込んで、声もなく夜空を見上げる彼の金色の背を撫でながら星の話がしたかった。
エルネスタは震える手を伸ばして広い背中に触れる。すると切なさを多く含んだ表情が、幸せそうにほころんだように見えた。
「わ、たし……八年前も、今も、無事でいてくれたらって」
「ああ、君のおかげで無事だった。今も、あの時も」
絶え間なく溢れる雫は、いくら拭って貰っても止まるところを知らなかった。
優しいその手が現実のものだったから。ただこのひとの腕の中にいることが、どれ程の幸せをもたらすのかを思い知ってしまったから。
「もう離さないからな。君がどれほど家族と離れたくないと泣いても、こればかりは叶えてやれそうもない」
膜を張った視界の先に、焦がれ続けた笑顔があった。
そう、エルネスタはイヴァンの笑った顔が好きだった。声を上げての笑顔も、静かな苦笑も、この優しい微笑みも。
「……側にいても、いいの?」
「ああ、側にいてほしい」
交わした言葉は短かくとも十分に過ぎた。
この国王陛下が何かを望むことがどれほど得難いことなのか、エルネスタは痛い程に知っているのだから。
不器用なひと。愛おしいひと。どれほど会いたかっただろう。どれほどその身を案じたことだろう。
長旅で乱れた金糸の上では、姿を見せはじめた星々が変わらぬ輝きを見せつけている。薄青を残した黄昏時の空は、イヴァンの瞳の色に一番よく似ているようだった。
ーー神さま、感謝します。
このひとを守ってくださってありがとう。そして願わくばこれからも、この誰よりも優しい国王陛下を守らんことを。
星の話をしよう。今度は素直に、自分の好きなものについて話をしてみよう。幾億もの瞬きを二人で数えたいと言ったら、彼はどんな顔をするのだろうか。
これからは勇気を持って、藍色の瞳が映すものを共に見つめていたい。
彼が望んでくれるのなら、いつまでも。




