懐かしき故郷 2
エルネスタにとって、それからの家族との日々は幸せそのものだった。何せイゾルテが病に伏せる以前の日常が戻ってきたのだ。
それなのにふとした時にシェンカのことを思い出しては、戦はどうなったのかと焦燥を募らせる。夜はいろいろな事を考えてしまってよく眠れない。
それでもエルネスタは祈るだけに留めて、表向きは笑っているようにした。そうでなければ皆に心配をかけてしまうから。
あっという間に数日が過ぎて、エルネスタは表面上は元の調子を取り戻していた。
いつものように早起きをして、見慣れたブラウスとスカート、上からエプロンを身に纏う。仕上げに髪型をお下げにすれば、かつての暮らしに馴染むことができる気がした。
家族全員で朝食をとる。あまり食欲が湧かないが、心配をかけるわけにはいかないので無理矢理食べる。
仕事をする時間は気が紛れるから有難い。イゾルテと共に家事をこなした後は薬草摘みに向かう事になっていたので、エルネスタはまず店に隣接したブルーノの工房に向かった。
「父さん」
「おお、エリー。どうしたんだ」
ブルーノは煤で汚れた顔を拭いつつ、笑みを浮かべて歩いてきた。工房内は数名の弟子と炎の熱で活気付いており、鉄の溶ける香りが懐かしい。
「薬草摘みに行くの。足りない薬はある?」
「そうか、ありがとう。ちょっと待ってなさい」
薬の在庫確認の為にブルーノは奥の休憩室に消え、またすぐに戻ってきた。
「そろそろ炎症止めが無くなりそうだ。ここじゃ火傷が多いからな」
「わかったわ。後は木の実なんかも採ってくるから楽しみにしてて」
「無理をするんじゃないぞ。遅くならないようにな」
笑顔を浮かべてはいるものの、ブルーノはどこか心配そうだった。そういえば、狼の姿をしたイヴァンを手当てした時も、遅くなりすぎて随分怒られたっけ。
考えてはいけないことを考えてしまい、エルネスタは脳裏に浮かんだ金色を慌ててかき消した。
「……それじゃ、行ってきます」
「ああ、気をつけて行っておいで」
笑顔で工房を後にしたエルネスタは気が付かなかった。ブルーノが気遣わしげに、娘の背中を見つめていた事に。
今日の山歩きは、隣に住む親友のザーラと向かう事になっていた。天高く晴れ渡った空の下、愛犬ハンスと共に現れた彼女は、いつものように豪快に笑って見せる。
「エリーと山歩きなんて久しぶりだね! ほら、ハンスも挨拶!」
「ザーラ、ハンス。今日はよろしくね」
元気に吠える焦げ茶色の狩猟犬を、エルネスタは遠慮なく撫で回した。ハンスに懐いてもらう為にどれほどの時間を重ねた事か。
妙齢の二人は歩きながら会話に花を咲かせる。ザーラは何とこの三ヶ月で結婚を決めていて、主にその話題が多くを占めていた。
「わかってはいたけどさ、よく知りもしない人と夫婦になるって、不安だよ」
「そうよね。どんな人か解らないんだもの」
当人以外が婚約者を決めるのは、ブラルにおいては一般的な流れだ。同じ商売を営む家同士や、近所の口約束など理由は様々だが、殆どの場合は親が見つけてくる。
「でもさ、エリーはできるかもよ。好きになった人と一緒になる事が」
「え……」
予期せぬ言葉に心臓が大きな音を立てた。
ザーラはなぜそんな事を? まるで心の中の想いを見透かしたかのようなーー。
「だってエリー、前から可愛かったけど、帰ってきてから更に磨きがかかってるもん。色っぽいっていうの?たくさんの男どもに狙われてるんだから、その中で良さげなの見繕って恋しちゃえばいいんだよ」
エルネスタはひっそりと溜息をついた。
なんだ、そういう話か。磨きがかかっているとしたら、それはダシャ達による手入れや用意された香油などによるものだ。噂好きのザーラによって、随分と尾ひれがついているらしい。
「私は……今は考えられないわ」
「えー? なんでよ、勿体ない」
「こうして働いているのが楽しいのよ。いずれは嫁ぐことになると思うけど、父さんと母さんの見つけて来た人なら文句なんてないしね」
ザーラは心底残念そうに首を傾げていたが、エルネスタの態度はきっぱりとしたものだった。
イゾルテに周りを頼りなさいと言われたのに、ここで打ち明ける事ができなかったのは別の意味を持っている。
「忘れられないひとがいるから、恋はできない」などと口にだせば、何もかもが溢れ出して来そうだったのだ。
山を降りたのは日が落ちる少し前になっての事だった。薬草籠には大量の収穫物が収められていたので、二人の足取りは軽い。
「いやー、大漁大漁! アケビやワイルドベリーなんかも採れたしラッキー!」
「良かったわ。これでしばらくは困らずに済みそうね」
夏の名残を残したこの街でも、夜になると心地の良い風が吹く。調子良く街はずれまで歩いて来たところで、勝手に両足が動きを止めた。
見慣れた大木の周りには、相も変わらず雑然とした空間が広がっている。否応無しにそこでの出会いについて反芻してしまい、エルネスタは後悔に襲われた。
どうしてこんなにも思い出してしまうのだろう。王城を出てそろそろ一月が経つというのに、一向に苦しみが和らぐ気配がない。
「どうしたの、エリー」
ザーラは不思議そうにこちらを見ていたが、不意に両手を打って明るく笑った。
「あっ、そうだ! ハンスと遊ぶ? ボール投げでもしよっか。私、取ってくるからさ」
その気遣いにすら銀色の狼と戯れた思い出が蘇ってきて、顔を歪めないように必死に堪えなければならなかった。
「ううん。ザーラ、ごめんね。ちょっと寄るところがあるから、先に帰ってて」
「……そっか、わかった。何だかよくわかんないけど、元気出しなよ。今度甘いものでも持ってってあげるからさ」
心のこもった優しさを向けられて、エルネスタは思わず苦笑をこぼした。つくづく自分は周囲の人々に恵まれているようだ。
友人とその飼い犬が帰っていくのを見送って、空き地へと足を踏み入れる。久しぶりに訪れたそこは記憶の中とほとんど違いはなく、大木だけがその背丈を増していた。
エルネスタは木の幹にそっと触れる。ざらついた表皮は落陽によって心地いい熱を宿しており、空き地を満たす蝉の鳴き声は寂寥を含んでいた。
ここへ来るのは怖いような気がしていたのに、実際に来てみると楽しい思い出ばかりが蘇って視界が滲む。
ここで祈ろう。エルネスタはそう思い至って、薬草籠を降ろして座り込んだ。
手を胸の前で組み、顔を下に向けて目を閉じる。頭の中から雑念を追い出してひたすら祈っていると、時間の経過すら曖昧になる。
再び目を開けた時には、山の合間から世界を照らしていたはずの太陽が消え、空は黄昏時のあわいを見せていた。
そろそろ帰らないと家族に心配をかけてしまう。そこまで考えても動くことができず、エルネスタは己の膝に顔を埋めて丸くなった。
ーー本当に馬鹿。二度と会えないことなんて、わかりきっていたのに。
一目でいいからイヴァンに会いたいなどと、なんて未練がましい願いだろう。そんな事、考えることすら許されない。
私は何をしたの? あの優しいひと達に、どれほど酷い事をしたと思うの?
もし真実を知れば、きっと私のことなんて嫌いになる。もしかしたら、人間それ自体すら。
エルネスタは閉ざされた視界の中で歯を食いしばった。こういう時は感情の波が過ぎ去るまで耐えるしかないことは、子供の頃からの経験で知っていた。
醜く澱んだ顔のままでは、家に帰ることすらままならない。星が出るまで待って、少しだけ空を見て、それで。
遠くに何者かの足音が発したのは、その時のことだった。
どうやら通りを全力疾走しているらしい。凄まじい速さの靴音が響いたと思ったら、それは空き地の前に差し掛かったあたりで唐突に止まった。
エルネスタは顔を伏せたまま、この期に及んで自分には関係のない事だと思い込んでいた。しかし足音の主が、今度はゆっくりとした足取りで空き地に踏み込んでくる。
誰かが探しに来たのだろうか。それにしては、なかなか声をかけて来ないけどーー。
「エルネスタ」
それは焦がれ続けた声だった。
心臓が食い破りそうなほどに脈動する。違う、彼はここには居ないし、そもそも名前だって知るはずがないのに。
幻聴を聞くだなんてそろそろいい加減にするべきだ。早くその正体を確かめて、自らの愚かさを思い知った方がいい。
エルネスタはゆっくりと顔を上げた。熱を失くした風が頬を撫で、二本の三つ編みを揺らめかせる。視界をブルネットが横切ったが、声をかけてきたのが誰なのかを確かめられない程ではなかった。
その時、世界から音が消えたような気がした。
夏の終わりを示す蝉の音も、木の葉が擦れ合う音も、自らの鼓動すらも、じっと影を潜めている。
イヴァンは金の髪を夜風にそよがせながらそこに立っていた。いつものチョハはくたびれて、月明かりに照らされた輪郭が痩せたように見えたが、藍色の瞳に宿した輝きには少しの違いも見当たらないままに。




