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身代わり生活の始まり 1

 満点の星空の下、金色の狼が横たわっている。

 大木の影に身をひそめるようにして傷ついた体を休めていた彼は、今や手当を終えて落ち着いたようだった。


「もしかして、痛くて動けないの? それなら一緒にいてあげる!」


 エルネスタはこの狼を一人にしたくないと思った。痛みを和らげてあげたかった。だから成長途中のか細い手を伸ばし、滑らかな毛並みを撫でてやる。


 ずっと触っていたくなるような心地に目を細めつつ、エルネスタはふと夜空を見上げた。


「見て。今日は星がとっても綺麗だから、きっと痛いのも忘れられるわ」


 驚くべきことに、狼は言われるままに顔を上げた。彼の瞳が星空を映して同じように輝く。


「知ってる? あの一番光ってる星が、ベガっていうの。夏の夜空で一番明るい星で、全部の星で比べても三番目に明るいのよ」


 もちろん狼からは反応など無いが、何故だか聞いてくれているという確信があった。


「ベガはこと座の一部。こと座っていうのはオルフェウスの琴なんだって。そのすぐ隣の天の川の中にデネブ、その向こうにアルタイル。三つ繋いで、夏の大三角形っていうの」


 エルネスタはわざと明るく話をした。星の話なんて狼に通じるものではないと解っていたけれど、それでも静かすぎるよりは気が紛れるだろうと思ったのだ。


「ふふっ! 私、詳しいでしょ? 私のお母さんね、昔は宮殿で天文学の先生をしていたんだって。だから私にも教えてくれるの」


 高名な学者だった養母が宮殿を辞したのは、エルネスタの出生の秘密によるものだ。狼に聞かせることでもないだろうから、自分の話はこのくらいにして星の話を続けていく。


「私、星って大好き。きらきらして綺麗で、不思議で、いくらだって眺めていられるわ。あなたもそう思わない?」


 問いかけても相変わらず返事はない。その横顔がじっと夜空を眺めているように見えたのが、エルネスタには何よりも嬉しかった。


「苦しい時は、星を数えるの。数え切れないほどの星に比べたら、自分の悩みなんてちっぽけなものに思えるもの」


 この雄大な景色に比べれば、どんな苦しみも大したことではない。


 そう教えてくれたのは他ならぬ養母だった。死ぬ寸前の自分を拾い上げてくれた人。その彼女が本当の親ではないと知った日も、エルネスタは星を数えた。


 そうして一人と一匹はしばしの時間を星を数えて過ごした。ふと視線を感じて隣を見ると、狼が星空の瞳でエルネスタを見つめていた。その輝きの奥に、今までとは違う強い意志を宿しているのがわかる。


 もしかしてと思っている間に、彼はゆっくりと立ち上がった。


「……もう行くの?」


 狼は返事をしない。彼に向き合うようにして立ち上がると手のひらに頭を擦り付けてきたので、導かれるようにして撫でることになった。まるでお礼を言っているようだ。


 それが最後の触れ合いになった。狼はしなやかな軀を翻し、暗い森へと歩き始める。


「ばいばい、狼さん! 無茶をしちゃだめよ!」


 その後ろ姿に声をかけると、彼は一度だけこちらを振り向いてくれた。そうして目を合わせたのもつかの間、金の体躯は暗闇へと溶け込んでいった。


 しんと静まり返った空き地は先程より随分と寒々しく見える。冴えた月と夜空を覆うような星々が照らすその空間は、今はただ寂しく、名残惜しさばかりが胸に残るのだった。


 *


 随分と懐かしい夢を見てしまった。


 エルネスタはぼんやりとした頭を引きずり起き上がった。夢の余韻は砂の如くこぼれ落ちてゆき、現実ばかりが襲いかかってくる。


 隣で眠っていたはずのイヴァンの姿は無く、もぬけの殻となった寝台に手を滑らせてみると、指先の温度を奪うばかりだった。

 夫婦生活というものに人並みの憧れを抱いていたエルネスタは、思わず深いため息を漏らした。


 これは自分の結婚ではないと解っていても堪えるものがある。政略結婚の夫婦とは、皆このように冷え切った関係を築くものなのだろうか。


 暗い思考に囚われていると、その掌が向かう先に赤茶色のシミを見つけてぎょっと手を引いた。

 そうだ、あれは酷い怪我だった。あまりにも硬質な態度に追求する事を諦めてしまったのだが、今になって心配になってくる。きちんと手当てをしなかったのだから、今頃炎症を起こしているかもしれない。


 エルネスタは自らの両頬を軽くひっぱたいた。


 変なところで発揮される度胸だけが、自らの長所であることはよく知っている。怪我の状態が気になるのなら、聞きに行けばいいのだ。


 気合を入れて寝台から降りた途端に、ドアがノックされる音が響いた。恐る恐ると言った様子で顔をのぞかせたのは、やはりダシャだった。


「お、おはようございます、王妃様。よくお休みになれましたか?」


「おはよう、ダシャ。ぐっすり眠ってしまったわ」


 笑顔で返すと少女は幾分か安らいだ表情を見せてくれた。しかし室内へと入ってきたのもつかの間、絨毯に足を取られて大きく前につんのめってしまう。


「も、申し訳ありませぇん! 大変お騒がせをしてしまい……!」


「落ち着いて。大丈夫だった?」


 なだめたらすぐに落ち着きはしたものの、その後は燃え尽きた薪のように大人しくなってしまった。


 この萎縮振りは一体どこからくるのだろうか。王族だからと気を遣っているというより、異国の姫君だからこその態度に思えるのは、きっと気のせいではない筈だ。


「ねえ、ダシャ」


「は、はいぃっ!」


 ダシャはすっかり竦み上がって、叱責を待つかのように身を硬くしている。

 余計な事を尋ねでもしたら失神でもしそうな勢いに、国王の居場所を聞くだけに留めることにした。




 今日は王妃としての仕事は休みとの事で、イヴァンに会いたいと言ったら意外にもあっさりと許可が下りた。

 侍従によって案内されたのは国王の執務室で、エルネスタは俄かに緊張を覚える。


 どうしよう。昨日の今日でもう仕事をしていたとは、もしかしなくとも邪魔をしてしまったのでは。


 執務室はあいにく無人で、主は一時的に席を外しているのだという。案内してくれた侍従は中で待つようにと言い置いて去ってしまい、エルネスタは見知らぬ部屋に一人取り残されることになった。


 気を紛らわそうと周囲を見渡してみる。広さは程よいくらいで、やはり暖炉と絨毯がセットで設えられている。文机は王妃のそれと比べて数倍の大きさがあり、羊皮紙が雑然と積み上げられていた。


 静まり返った部屋に一人きりというのは、こんなにも人を落ち着かなくさせるものだっただろうか。


 やっぱり帰ろうかと考え始めたその時のこと。背後に気配を感じたので、エルネスタはゆるゆると振り返った。

 そこには予想外の珍客がいた。奥に備え付けられた扉が半開きになっており、その間を縫うようにして銀色の狼が姿を現したのだ。


 エルネスタはたっぷり五秒間固まった。


 どうして狼がこんなところに? ふわふわの毛並みが綺麗……って、まさか。


「……陛下? もしかして、陛下なのですか?」


 口に出してみると、その仮説は正しいとしか思えなかった。悠々と歩いてエルネスタの側までやってきた狼は、近くで見るほどに美しく、精悍な容貌をしている。


「やっぱり、イヴァン陛下なのですね? なぜ狼のお姿に」


 狼は一言も話そうとしない。彼らの体の仕組みについてはよく知らないが、もしや怪我で弱って変身してしまったとか。


「陛下、お身体は大丈夫なのですか? どうか答えて下さい。イヴァン陛下……!」


「何をなさっているのですか」


 来訪者の存在に全く気付いていなかったので、危うく飛び上がるところだった。エルネスタは弾かれたように背後を振り返り、そこに呆れ顔で佇む痩せた男の姿を捉えた。


「まさかそれが陛下だとでもお思いですか? そんな訳がないでしょう。常識に沿って物事をお考えなさい」


 男は小馬鹿にした様に水色の瞳を細めると、神経質な手付きで眼鏡を押し上げて見せた。


 ヨハン・オルジフ・スレザーク。英雄の証である黒のチョハを纏った彼は、イヴァンと同じ二十八歳という若年ながら宰相を勤め上げ、国王の右腕として辣腕を振るう大物である。エンゲバーグによれば、此度の同盟締結でも彼の力が大きな推進力となったらしい。


 エルネスタにとっては昨日の結婚式で挨拶を交わしただけの間柄だが、このネチネチとした物言いが印象的だったのでよく覚えている。


「スレザーク卿。では、この子は……」


「陛下の相棒で、名をミコラーシュと言います。正真正銘、人狼族ではない本物の雄狼ですよ。そもそも我々は理由もなく狼の姿になったりはしません」


 普段のエルネスタなら良かったと叫んで座り込んでいただろう。それくらい本当にイヴァンだと思い込んでいたし、怪我の具合が心配だったのだ。


 安堵の後に猛烈な羞恥心が襲いかかってきて、絨毯の上を転げ回りたい衝動に駆られた。恥ずかしすぎる勘違いをバッチリ見られてしまうなんて、できることなら消えて無くなりたい。


 真っ赤になった王妃を、宰相は鼻で笑った。中々に容赦のない男である。


「よく御覧なさい。ミコラは銀色ですが、陛下の御髪は金色です。目の色もこの子は鳶色でしょう」


「あ、ああ……そうでしたか。狼の姿でも、色はそのまま引き継がれるのね。ということは、スレザーク卿は黒色の狼になるの?」


「当然でしょう。貴女様は今更何を仰るのです」


 今度は思い切り睨まれてしまった。この歯に衣着せぬ物言いは怖いと感じなくもなかったが、むしろ今まで出会った人狼族の中で、最も正面から接してくれているような気もした。


「そんな事もご存知ないとは。仕方ありません、ここで軽く説明しておきましょう」


「でも、お忙しいんでしょう? 今も何か用があってこちらにいらしたんじゃ」


「この無知っぷりを放っておく方が宰相として怠慢です。いいですか、よくお聞き下さい」


 ヨハンは心底めんどくさそうだったが、律儀にも講義を開いてくれる事になった。

 彼の説明によれば、人狼族は三つの姿を持つのだと言う。


 一つ目は人の姿。彼らは特別な理由がない限り普段はこの姿を取っている。


 二つ目は狼の姿。狼そのものの特性を得ることができるので、場合に応じてこの姿になる事もある。


 そして三つ目は人狼の姿。まさしく物語に出てくる人狼と同じで、二本足で歩き道具を扱う狼と言ってしまえば解りやすい。元から発達している身体能力がさらに跳ね上がるため、力仕事や戦闘の際はこの姿になるそうだ。


 ヴァイスベルクを訪れる人狼族は常に人の姿をしているので、エルネスタはそれ以外の姿を見たことがない。するりと変身する様を想像して、その不思議な光景に頬を緩めた。


「変身自体はいついかなる時でも自由に行うことができます。ただし狼の姿だと服が邪魔になりますし、戻った後の着替えが面倒なので用がない限りは人の姿です」


「意外と合理的なのね」


「そんなものですよ。あと目ぼしい特徴といえば、狼とは意思疎通が取れます。人狼か、もしくは狼の姿の時だけですが」


 あまりにも興味深い話に、エルネスタは目を輝かせた。


「凄いわ。どうやって話すの?」


「感覚としか言いようがありませんが、鳴き声が脳内で変換されると言ったところでしょうか」


 なんて夢のようなんだろう。変身も狼と話ができることも、エルネスタからすれば全く解らない感覚で、だからこそ憧れを覚える。


 ヨハンは生徒が良い反応をするのでそこはかとなく機嫌が良さそうだ。しかし彼は、次の言葉だけは少し躊躇いがちに吐き出した。


「……ただし変身能力にも例外がありまして、満月の夜だけは人狼の姿に変異します。朝になれば戻りますが」


 エルネスタは両目を瞬かせた。月夜に人狼が闊歩する光景は、まるで夢のように幻想的だろう。


「素敵。人狼族はきっと、月に愛されているのね」


「素敵……?」


 思った事をそのまま述べただけのつもりだったのだが、ヨハンが虚を突かれたように鸚鵡返しをするので、こちらがびっくりしてしまった。

 また何か失言をしたかと身構えたその時。ノック無しで扉が開き始め、その先には待ちびとが立っていたのだった。


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