狐と狸 2
ヨハンは鋭く舌を鳴らした。腕を組んで今後について考えてみるが、やれることはやってしまったという状況だ。
「狸め。少しも尻尾を出さないとは、流石にやる」
あれだけ牽制をしたのだから、いくら敏腕大使といえど動きにくくなっただろう。しかしそれだけを収穫とするしかない状況は何とも歯がゆい。
王妃の様子がおかしいのはヨハンにとっては明らかなのだ。近しい者ほど感じる違和感は雲のようで、正体を掴むことができないままに時ばかりが過ぎ去っていく。
チャイの水面を眺めながら考えを巡らせていると、扉がノックの音を響かせた。返事を受けて入室してきたのは、緊張に身を強張らせた少女だった。
「お呼びでしょうか、宰相閣下」
ダシャは恐々とした動作で礼を取る。この娘に苦手と思われているのは知っているので、ヨハンは特に感慨もなく座るように促した。
「今日は貴女に聞きたいことがあって呼び出しました」
「はい。王妃様について、ですよね」
流石に察しがいい。とは言っても、この侍女を呼び出した事などこれが初めてなのだから、用件も自ずと絞られようものだ。
ラグに座っても落ち着かない様子のダシャは、どうやら主が本当に心配で仕方がないらしい。
「その通りです。覚えている範囲で構いません。王妃様のご様子について、お変わりになられた頃のことを知りたいのです。それはいつ頃でしたか」
以前もダシャからは聞き取り調査を行っていた。というよりも、王妃様の様子がおかしいと真っ先に言い出したのがこの侍女だったのだ。
その時はダシャの直談判を聞くだけに留めたが、今回は聞き出す点を絞る事にした。
「お変わりになられた時期、ですか……正確な日にちは覚えていませんが、だいたい半月ほど前だったかと」
王妃の部屋を監視させていた密偵が、鳩に襲われた時期と合致する。
ただの偶然ではない。宰相として務めてきた年月が、これについて考えろと警鐘を鳴らしている。
「実はその前の晩に、王妃様とお話をさせていただいたのです」
「ほう。どういった話ですか」
かなり有力な情報が飛び出してきたので、つい視線を鋭くしてしまった。しかしダシャはひるむ事なく、眉を寄せつつ噛み付いてくる。
「あ、主との個人的な会話です! いくら宰相閣下と言えど……」
「これは国の問題であることを自覚しなさい。貴女と話す話さないを議論するような段階はとうに過ぎているのです」
淡々と、しかし有無を言わさぬ圧力をもって言葉をぶつけると、年若い娘はびくりと肩を竦めた。
こういう態度が嫌われる原因だと解ってはいるのだが、こと政となると手加減ができなくなってしまう。それはヨハンもまた「主君に仕える」という自負を戒めとしているからだ。
「……王妃様が、陛下のご出陣以降とても悲しそうにしていらっしゃるので、ご様子を伺いに参ったのです。ルージェナ様に頼まれたことではありましたが、私自身も非常に気を揉んでおりましたので」
ダシャは果敢にもヨハンを真正面から睨み据えていた。泣きそうに目を細めて、話さなければならない罪悪感に苛まれていても、決して顔を下げる様子はない。
この娘も随分強くなった。それは、あの王妃に仕えるようになってから。
「そうしましたら、王妃様はとても優しく、お部屋に迎え入れてくださって。ご心配申し上げていることをお伝えすると、大丈夫だからと。そう確か、このような事を仰いました。明日から人が変わったように元気になるから、無理はしてしまうと思うけど、気にしないで接して欲しい……と」
それはいかにもかの王妃が言いそうな言葉だった。
しかし、どこかひっかかる。今聞いた内容を噛みしめるように吟味してみると、少しの間を置いて閃くものがあった。
そうだ、心配を伝える者に対するには、どこか他人行儀にすぎる言葉なのだ。表面上は柔らかいが、放っておいて欲しいという拒絶を感じさせる。
「それで、今の貴女は王妃様に対してどう接しているのです」
「あまり、立ち入らないようにしています。本当に人が変わったようにお元気になられましたし、きっと王妃様にとってはそうした振るまいが一番楽なのだろうと思いまして」
「それをルージェナ殿にも伝えましたか」
「はい。ルージェナ様も侍女の皆様も、同じようになさっているはずです」
つまり王妃の望み通り、深く追求されない環境が出来上がっているわけだ。
頭の中に警鐘が鳴り響く。王妃は一体何を隠している? 追求されないことで、一体どんな得がある?
ーー本当に人が変わったように
不意に先程のダシャの証言が脳裏を過ぎった。
そう、王妃は変わった。風格を備え、王族然とした言動を取るようになった反面、身の回りへの配慮は無くなったように思える。何というか、自分第一主義にしか見えないのだ。
それがもし、真実人が入れ替わった事による差異だとしたら。
「ダシャ、他に話すことは」
「ありません。大好きって言われたことくらいです」
「そうですか、下がりなさい」
心なしか自慢げなダシャを追い払って、ヨハンは目まぐるしく蠢く思考回路に没入した。非現実的にも程があるこの結論が、考えれば考えるほど辻褄が合う事が恐ろしかった。
イヴァンに伝えるべきか……いや、そんな事を知った日には、あの男をいたずらに苦しめることになる。
きっとイヴァンは戦を放り出すことなどできない。いや、あの惚れっぷりならもしかすると放り出して戻ってくるかもしれないが、そのせいで罪悪感を背負うことにもなるだろう。
それならば知らない方がいい。確証の無いこの段階ではまだ言えない。せめて証拠が揃ってから、揃わなくとも終戦の報が届いてからだ。
ヨハンは悪魔になる覚悟を固めている。友に命を救われた瞬間から、その覚悟はより強固なものとなった。
たとえ死地に向かった友人から惚れた女の面倒を頼まれようとも、それが王の歩む道を邪魔するのなら非情な判断を下す。
宰相という仕事は国王の影だ。先代の宰相であった祖父から、幼い頃にそう教わった。
実際にこの職に就いてみて実感する。どこまでも過酷な覇道を歩む国王を支えるには、時に主君を上回る非情さでもって何かを切り捨てる必要があるのだと。
どれほど悪役になろうと構わない。王が心を殺すなら、自らも同じようにする。
ヨハンは命の恩人でもある友が、自身の望む道を進むことを願った。
「……王妃様。貴女はイヴァンの薬になると思っていたのですよ」
しかし今得た推測が事実なら、薬どころかとんでもない毒薬だったことになる。
口にはしなくとも、イヴァンが妻に安らぎを見出しているのは明らかだ。そんな彼女に裏切られていたと知ったら、一体どれほどの衝撃を受けることか。
ヨハンは今までで一番深いため息を吐き出した。まったく、本当に面倒なことだ。




