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狐と狸 1

 エンゲバーグは一つの扉の前に立っていた。

 これからこの部屋の主と顔を付き合わせなければならないと思うと心底肝が冷えるが、呼び出された以上は無視するわけにもいかない。


 深呼吸をしてノックすると、返事はすぐに返ってきた。エンゲバーグは表情から緊張を消し去り部屋へと入る。

 そこにはシェンカ国宰相ヨハン・オルジフ・スレザークが待ち構えていた。彼はエンゲバーグを見るなり笑顔を浮かべると、毛皮のラグの上に座るよう手で示して見せた。


「ようこそいらっしゃいました、エンゲバーグ伯爵。お呼び立てして申し訳ございません」


「とんでもございません、宰相閣下。では失礼して」


 床に直接座ることは、全く違う文化圏の国に来たのだと実感するばかりで落ち着かない。エンゲバーグは相も変わらず正座をすると、こちらは慣れた様子で胡座をかいたヨハンに視線を送った。


 宰相閣下は秘書官を呼び出してお茶を淹れるよう命じている。その様子には特に変わったところはなく、他国からの客人に向ける丁寧さで覆い尽くされていた。

 しかしエンゲバーグは確信を得ているのだ。以前部屋の中に侵入し探ってきた何者かが、この宰相の手先であることを。


「こちらにいらしてからもう二ヶ月ですね。どうでしょう、何かお困りの点はございませんか」


 社交辞令を述べる整然とした笑顔に、エンゲバーグは更に心拍数を高めた。そう、この国へ来てそろそろ二ヶ月が経つ。つまり「王妃の交代」を行なってから、二週間が経過したところでこの呼び出しだ。


「とんでもございません、閣下。お陰様で大変過ごしやすくさせて頂いております」


「それは良かった。大陸西部からのお客様は初めてですから、何かとご迷惑をお掛けしてはいないかと気にかかっていたのですよ」


「いえいえ、何の困り事もございません。こちらの食事は美味いですなあ。いつもつい食べ過ぎてしまいます」


「おや、伯爵は香辛料にもお強いのですね。でしたら今度我が家にもおいで下さい。自家製の酒などもご用意いたしますので」


「おお! お誘いいただき光栄にございます。楽しみにしておりますぞ」


 表面上は和やかな会話が続く。しかしこの二人の間に漂う凄絶な緊張感は、チャイを運んできた秘書官を縮み上がらせるに至っていた。


 エンゲバーグは同盟への反対意見が大勢を占めていた頃から大使となり、この才気あふれる若者と渡り合ってきたのだ。話の主導権を渡したら一巻の終わりだということは、この切れ者が老獪な政治家を斬り伏せてきた場面を思い出しても明らかだった。


「食事を気に入っていただけるのは嬉しいものですね。王妃様におかれましても、お口に合わないということはありませんでしたか」


 自然と王妃について話が及び、エンゲバーグは自らの心臓が大きく脈打ったのを感じた。しかし動揺はおくびにも出さず、何気ない動作で供されたチャイに口をつける。


「特にそのようなことはお伺いしておりませんが」


「そうでしたか。いえ、実は料理人から近頃の王妃様は食が細いと聞き及びまして」


 完全に初耳だ。どうやらエルメンガルトはこの国の味に馴染めていないらしい。本物の王妃が身代わりの王妃よりも無理をしない質だということを、エンゲバーグはよく知っていた。


「想像でしか申し上げることができませんが、国王陛下がご出陣なさって気落ちあそばされたのでしょうな」


「然もありなんといったところですね。お二人はとても仲睦まじくていらっしゃいますから」


「ええ、まことに素晴らしいことでございます。ですから私個人といたしましても、イヴァン陛下にはどうかご無事にお戻り頂きたいと思っております。戦況は優勢とのこと、実に結構でございますな」


 このまま話を逸らしたい。何とか戦争の話題でもって、王妃についてはぐらかすことができないだろうか。


「エンゲバーグ伯。実は今日お呼び立てしましたのも、王妃様についてお話を伺いたかったからなのです」


 心臓が破裂せんばかりに高鳴って、エンゲバーグは胸を抑えそうになるのを必死で堪えなければならなかった。

 あえて婉曲な話題を選び、ここぞというところで一気に流れを引き寄せる。この緩急を自在に操る話術のせいで、どれほどのブラルの貴族連中が沈められてきたことか。


 ヨハンが何かに勘付いていることはもはや疑いようがない。ここはこちらの手を明かさず、どこまで情報を得たのか確認せねばならないだろう。


「王妃様についてですか。はて、私に何をお尋ねになりたいのですか」


「実は先ほども申し上げましたように、近頃の王妃様はご様子がおかしいのです」


「それは例えば、どういったことでしょうか」


 ヨハンは白々しくも腕を組んだ。この期に及んで考えることなどないだろうに。


「そうですね、以前よりも堂々としておられます。何というか……雰囲気が変わられた、とでも申し上げればいいのでしょうか。あと最たる部分では、絵をお描きになるようですね」


 しばらくは絵を描かないで欲しいと散々言い含めておいたはずなのに。

 エンゲバーグは頭を抱えたくなったが、それでも飄々とした笑顔を崩さないままでいた。


 この男は一体どこまで勘付いているのだろう。もしかすると全てを知った上で、相手の自爆を待っているのだろうか。

 だとしたら恐ろしいことだが、真実がどうあれ動揺を悟られたら終わりだ。


「エルメンガルト様は、元より絵がお好きなのです。近頃はこちらでの生活にも馴染まれ、余裕が出てきたので再開なさったのでしょう」


「ほう、それは初耳でした。ぜひ拝見したいものですね」


 にこりと笑うヨハンからは、なかなかボロを出さない大使への苛立ちは感じられない。

 エンゲバーグは内心で滝のような冷や汗をかきつつ、眉を下げて悲しげな表情を貼り付けた。


「雰囲気が変わられたことは、私もご心配申し上げております。よほど陛下がご出陣なさったことがお寂しいのでしょう」


 そうして何も知らないことを言外に匂わす台詞を放つ。心配だとまで言ってしまえば、誰しもつっこみ難くなるものだ。

 何の動揺も見せない振る舞いの裏では、鼓動が食い破らんばかりに主張している。二人の強者の間に落ちた沈黙は一瞬で、ヨハンもまた憂い顔で溜息をついたのだった。


「エンゲバーグ伯もそう思われるのですね。ええ、わかりました。王妃様につきましては、侍女たちによくお支えするように申し伝えるのが一番でしょう」


「そうしていただけるとありがたく存じます」


 何とか切り抜けたか。エンゲバーグがひっそりと胸を撫で下ろした、その時のことだった。


「時にエンゲバーグ伯爵、鳥はお好きですか?」


「鳥ですか? 美しい生き物だと思いますが」


 反射的に答えた途端、ヨハンが口元を釣り上げるので血の気が引いた。彼の瞳は今に限って反射した眼鏡に覆われ、どんな感情を宿しているのか見定めることができない。

 何だ。私は何を間違えた?


「伯爵は鳥がお好きなのですね。しかし、ここでは鳥をあまり見かけないでしょう? 残念ながら街中には殆どやってこないのです。狼と鳥は相入れませんから」


 ヨハンは面白そうに首を傾げ、反射を失った眼鏡の奥の瞳が鋭さを増す。初めて耳にする事実にエンゲバーグは色をなくしたが、辣腕宰相は容赦がなかった。


「しかし最近妙なことがありまして、部下が任務中に鳩に襲われたというのですよ。どこから来たのか不思議ですが……そうまで勇敢な鳩なら手懐けてみたいものです。鳥がお好きな貴方ならそう思われませんか」


 王妃の周囲に張り付く謎の密偵の存在には、以前から気付いていた。

 だから王妃の交代に際して、目隠しのために伝書鳩に襲わせたのだ。かなり危険な手段だが、こちらが悟ったことを知らせないためにはそれしかなかった。


 彼の言う部下がその密偵であることは明らかだ。そして今わざわざその話題を選ぶ理由とは。


「ほう、それはどうしたことでしょうな。部下の方はご無事で?」


「ええお陰様で。手加減してくれたのでしょうね」


「ただの鳩にそのようなことはできますまい。案外面白い冗談をおっしゃるのですな」


「おや、酷い言い様ですね。私とて冗談を申し上げることくらいございますとも」


 にこやかな笑みを浮かべる二人の間には、苛烈なまでの腹の探り合いがあった。

 それはさながら背後に猛獣を背負っているような有様で、お茶を継ぎ足しにきた秘書官は背筋を凍りつかせて動けなくなる程だった。


「さて宰相閣下、私はそろそろお暇いたします。本日は民間の事業者と交易についての会談がございます故」


「ええ、お時間を頂きありがとうございました。交易についてもどうぞお力添えください」


 最後に握手を交わし、エンゲバーグは這々の体で鬼の住処を脱出した。


 途端に全身の力が抜けて座り込みたいような衝動に駆られたが、何とかそれだけは我慢してのろのろと歩き出す。


 間違いない。ヨハンはかなりの確信をもって王妃を疑っている。


 その場でしょっぴかれなかったところを見るに、疑いはしてもその真相は分からずといったところか。身代わりなどと言う荒唐無稽な真実に重ねて、双子の姫君はエンゲバーグですら見分けがつかないほどそっくりなのだから、それも当然の話だ。


 しかしこうしていられるのも時間の問題かもしれない。ここまでの牽制を行ってきた以上、ヨハンはブラルの内情を探らせているだろう。密偵が真実を掴んで戻ればどんな言い訳も通用しない。


 密偵を消すよう伝書鳩で指示を出すか。しかし鳩の存在が掴まれた以上は、使った時点で露見する可能性が高い。そもそもここで行動を起こす事こそが、かの宰相の狙いだとも考えられる。


「……狼でなく、あれは狐だ。まこと、恐ろしい者たちよ」


 これだけ人材が揃っているなら、いっそ一人くらい分けてもらえないだろうか。

 小声で呟いたエンゲバーグは、一番自然な行き先である自室へと戻ることにした。


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