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戦地にて

 まさしく砲撃の号令を出そうとしていた時のこと。リュートラビア軍指揮官は、馬上にておかしなものをその視界に捉えた。


 シェンカのバジャント領に築かれた城壁の中から、一人の人狼が姿を現したのだ。

 鎧の隙間から見える毛並みは灰色、だろうか。今まで数十人の人狼が打って出てくる事はあったが、何故たった一人で戦場に立っているのか。


 こめかみを冷や汗が流れ落ちていく。だからシェンカへの侵攻など反対だったのだ。九年前どれほどの被害を被ったのか、我が君は忘れてしまったのか。


 男は大丈夫なはずだと自分に言い聞かせた。九年前の失敗を鑑みて、全兵力をこの城壁前に集結させているのだ。これ程までに強大な戦力を用いるのだから、今度こそ連中も太刀打ちできないだろう。

 大きく指揮刀を振りかぶって、裂帛の気合いとともに命ずる声をあげた。大砲が火を吹いて、何も持たないまま立ち尽くす人狼へと迫る。


 獲物も抜かないまま戦場に立つなど、リュートラビア軍を前にした愚行を思い知らせてやる。

 しかし男の意図は、信じられない光景によって裏切られた。


 何故か人狼の眼前で真っ二つに割れた砲弾が、地面に突き刺さって土煙を上げる。あっというまに戦士の姿が覆い隠される中、指揮刀を握る自身の右手が震え出すのを感じた。


 そうだ、あの人狼が砲弾を叩き切ったのだ。距離と速さのせいで捉えることができなかったが、神がかり的とも言える技には覚えがある。

 九年前、化け物の中の化け物とも称されたとある人狼。たった一振りの剣だけを頼りに戦場を駆けた戦士の名は。


「クデラ将軍か……!」


 恐怖の対象が鋭敏な動作で土煙の中から飛び出してくる。クデラは目にも留まらぬ速さで大剣を一閃し続け、叩き込んだはずの砲弾をことごとく討ち払っていく。


 幻のような出来事を前に、兵士たちの間にも動揺が広がった。これはまずい。あの恐ろしい男に挑むのなら、この数をもってしても覚悟が必要なことなど目の前の光景を見れば明らかだ。


 事前の報告によればクデラは王城勤務だと聞いていたのに、いくらなんでも到着が早すぎる。どうやら人狼族の機動力を甘く見ていたらしいが、その事実が意味するところを察して更に血の気が引いた。


「城壁の上だ!」


 誰かが大声を上げ、兵士たちの視線が一斉に城壁の上へと集まる。そこには人間には扱い得ない巨大な銃を構えた人狼たちがいて、ついに援軍が到着してしまったことを伝えていた。


 そして列をなす人狼達の中央、これもまた見覚えのある姿がそびえ立っている。当時はまだ若輩ながら、リュートラビアに敗北の辛酸を味わわせる大きな要因となった男。金の毛並みと並外れた実力を持ち、今や国王となった戦士の姿だ。


 イヴァン王だ、援軍が来たんだ、とさざ波のような怯えが広がって、戦陣が歪んでいくのが見て取れた。こうなっては手遅れだし、そもそもあのマスケットの射程と威力はーー。


「退却! 退却ーっ!」


 指揮官はあらん限りの大声を張り上げた。部下達が訳も分からないなりに下がり始めるのと同時、己も馬の手綱を引く。

 混乱のるつぼと化した戦場に弾丸が降り注いだのは、それから程なくしてのことだった。



 ***



 近頃のイヴァンは夕刻になると、アプリコットキャンディを食べながら思考を巡らすのが日課になっていた。ついに今日で無くなってしまったのが残念だ。


 夕日に染まる城壁の上でたった一人、戦に荒れ果てた平原を眺めながら、まずは戦のことを考える。そして一番時間を使って想うのが、この飴を作った人についてだった。


 今頃どうしているだろうか。近頃はだんだん秋めいてきたが、風邪などひいていなければいい。それにしても、あれだけ可愛いのだから男に言い寄られてはいないだろうか。王妃というだけで牽制にはなるが、恐れを知らないのが人狼族でもあるからーー。


[おいイヴァン。何食ってんだよ]


 ふと横を見ると、ミコラーシュが銀色の毛並みを夕日にそよがせていた。相棒が近寄ってくるのにも気付かなかったとは、よほど考えに没入していたらしい。


[もう最後だったから、知る必要はない]


[ああ? なーんだよそれ。ケチだなぁ]


 道中で農民の子供に分け与えはしたが、飽食の只中にいる狼にこの飴をやるつもりはない。それがたとえ戦において伝令の役目を果たした相棒であってもだ。

 イヴァンはすっかり小さくなったそれを尖った歯で噛み砕いて、連日の戦闘で荒れ果てた平原に視線を飛ばした。


[いいか、ミコラ。この戦は最短で終わらせるぞ]


[わかってるよ。さっさとお前さんをエリーの元に帰してやるから楽しみにしてな]


 ミコラーシュの言い草に、イヴァンはわかりやすく動揺を示してしまった。真面目な覚悟を伝えようとしたのに、どうしてそんな話が出てくるのだ。


[な、にを、言うんだ。まったく脈絡がないぞ]


[そうでもないだろ? お前がとんでもない鬼神ぶりを発揮したのも、エリーの事が心配だからじゃねえか]


 ーーなんでバレているんだ。俺が言ったのか? いや、言っていないはずだ。


 予想外の追求に揺れる胸の内を嘲笑うかのように、ミコラーシュは国王の背後に視線を飛ばした。何者かの気配が発したのを受けて、イヴァンもまた振り返る。

 そこには昼間も一騎当千の活躍を見せた英雄の姿があった。灰色の毛並みの人狼はいつものごとく落ち着いた佇まいで、瞳には思いやりの色を乗せていた。


[陛下、ミコラも。こちらにいらっしゃったのですね]


[おう親分! あんたも来たんだな!]


 嬉しそうにしっぽを振るミコラーシュの頭を撫で、シルヴェストルもまた隣に立ち並ぶ。

 いつしか身長を追い越しはしても、英雄の存在が大きいことには少しの違いもない。しかし本来なら隠居していてもおかしくない年齢の師に無理を強いていることは、少なからずイヴァンの胸中にさざ波を生んだ。


「シルヴェストル、いつも無茶ばかり押し付けてすまないな」


「なんのなんの。この老体がお役に立てるのであれば、望外の喜びにございますれば」


 シルヴェストルは柔らかな笑みを浮かべている。そして頼もしい輝きを宿した瞳を平原に向け、独り言のような呟きを落とし始めた。


「我が主君は清濁合わせ飲む事を良しとしながら、それを苦しんできたお方です。だからこそ臣下は皆、幸せになって頂きたいと思っているのですよ」


 イヴァンの脳裏にいつかの夜に彼と話した事が思い出された。そう、これは最後に言いかけた言葉の続きだ。

 あの時のシルヴェストルは王妃と話すべきだと進言に来たのだったか。それをすげなく追い返したことについては、今となっては気恥ずかしいような思いがする。


「……改めて考えてみると、この国を治めることは俺にとっての幸せだったんだ」


 この国を愛していたからこそ、私を殺すこと自体は大した苦労ではなかった。民が豊かになっていくのを見るたびに、努めようと心に誓った。


 イヴァンは飴を舐めながら考えたのだ。それに気付く事が出来たのが一体誰のおかげなのか。その答えに至った時、国王になって初めて仕事を投げ出したいと思った。

 渇望と罪悪感が少し。それでも、あの笑顔に会いたいと思わずにはいられなかった。


「貴方様は望ましい方向にお変わりになられた。……さて陛下、改めて申し上げましょう。貴方様は王妃様と、きちんとお話をなさっておられますかな」


「そうだな。きっと、足りなかったのだろう」


 以前よりも話す時間は増えたと思っていたが、十分ではなかったのだろう。何せ彼女は悩みの一つすら打ち明けてはくれなかったのだ。

 しかしそんな考えは、人生の先達によってあっさりと否定された。


「会話は大事ですが、ただ話せばいいというものではありません。私がお伺いしているのは、きちんとお気持ちを言葉で伝えているのかということです」


「言葉で、伝える……?」


 その瞬間の国王の表情は、一人と一匹の目にとてつもなく無防備に映った。

 そんなこととは知らず、イヴァンはあまりにも大きな衝撃を受け止めきれずに呆けるしかない。


「そうか、伝える……。そう、だな。考えたこともなかった」


 イヴァンにとって、その行為は幸せの希求そのものだった。

 愛する者など今まではできたことがなく、だからこそ気持ちを伝えたいと、想いを返してもらいたいという発想すら持たない。生きとし生けるものすべてが行うごく自然な行動が、頭からすっぽり抜け落ちていたのだ。


 今までそんなことは追い求めて来なかったのだから無理もない……などと考えるには、あまりにも悲惨すぎる愚鈍ぶりだ。


[……どうしたらいいかな、ミコラ。私は無性に心が痛い]


[俺もだぜ親分。なんつーか、どれだけストイックに生きてきたら、こんな仕上がりになるのかね]


 師と相棒は途方にくれたような目をして会話を交わしたが、イヴァンの尖った耳はその内容を拾わなかった。

 どうやらやるべきことが山ほどあるらしい。その事実に突き当たれば、ますます彼女に会いたいという思いが膨らんでいく。


 以前の自分なら考えられないような有様だ。国の命運を左右するであろう戦の最中に、一人の女のことばかり考えているとは。


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