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貴方の幸せを祈る

 エルネスタは大使と共に廊下を歩く。走ると目立つのであえて普通の速度で進んでいくと、たまに誰かにすれ違っても何も言われない。そうしてたどり着いたのは、王城の片隅にぽつんと佇む古びた小屋だった。


「こちらで女中のお仕着せにお着替えください」


 小屋の中には女中の衣装とストールが用意されていた。エンゲバーグに言われた通り着替えて外に出ると、彼は感心したような顔をして見せる。


「これならばわかりますまい。エルネスタ様、変装がお上手ですな」


「庶民だもの。こちらの方がしっくりくるのよ」


 エルネスタは明るく微笑んだ。その余裕のある態度に安堵したのか、エンゲバーグもまた笑みを浮かべてくれた。


「エルネスタ様、本当にありがとうございました。このご恩は決して忘れませぬ」


「恩だなんて。私も母の病気を治してもらったこと、心から感謝しています」


「いいえ。私達は本来なら、貴女様を育てて下さったご恩返しとしてでも、イゾルテ殿を治療しなければならない立場でした。むしろ彼女を人質に取ったようなものです」


 それは自らの罪を暴く言葉だった。言わなくてもいい事だろうに、彼もまた良心に苛まれながらも仕事を果たす者の一人なのだ。


「貴方が気に病むことではないわ。助けてくれた、その事実だけで十分よ」


 この優しく真面目な大使には、沢山苦労をかけて、いつも助けて貰ったものだ。二ヶ月以上もの時間を秘密を共有して過ごした相手との別れに、またしても涙腺が緩んでしまう。


「私、何もできなくて……貴方にも随分心配をかけてしまったわね」


「確かにずっとご心配申し上げておりましたぞ。貴女様ときたら、何でもご自分の判断でこなしてしまわれるのですから」


「う……ごめんなさい」


 最後の最後で小言を言われてしまい、エルネスタは肩を竦ませた。しかしエンゲバーグがその目に宿す光は優しく、彼はすぐに微笑んで首を横に振った。


「貴女様は精一杯の努力を重ね、皆の信頼すら手にしてしまわれた。ご自分を卑下するのはおやめ下さい。貴女様は持てうる限りの全てを尽くして、王妃としてお振る舞いになられた。我々の身勝手な依頼に応じただけなのです。そこに罪はございません」


「エンゲバーグ伯爵……」


「改めて感謝申し上げます、エルネスタ様。貴女様のこれからの幸福をお祈り申し上げておりますぞ」


 彼は身代わりの苦しみを察して励ましてくれたのだと解ってしまえば、もう何も言えなかった。

 最後に浮かべた笑みはきっと歪んでいたことだろう。エルネスタは深々と一礼すると、ついに踵を返して歩き始めた。


 そして勝手口からあっさりと外に出て、離れたところに佇んでいた馬車に乗り込む。中には往路で世話になった近衛騎士がいて、深い礼を捧げてくれた。


 車輪が軋みをあげて動き出す。徐々に流れ始めた黎明の街並みを、エルネスタはぼんやりと見つめた。


 来る時はあんなに不安だったのに、帰りの道行は喪失感ばかりが体中を満たしている。

 エルネスタはわかっていなかった。こんなに苦しいだなんて、役目を引き受けた時は想像すらしていなかった。


 最初にエンゲバーグが計画を説明してくれたとき、「付かず離れずの距離を保て」と言われたのではなかったか。その時はなぜそんな事を言うのかと反論してしまったが、今ならわかる。

 あれはエルネスタを救うための言葉だった。こんなに苦しい思いをさせないための、彼の思いやりだったのだ。


 目の裏が刺すように痛む。今まで我慢してきた全てが込み上げてきて、堤防を容易く押し流していく。エルネスタは溢れた雫を拭うことすらしないまま、霞む視界に抗わずに目を閉じた。

 暗闇の中で思い浮かぶのは、世話になったひとの笑顔ばかり。その中でも人生で唯一愛した男の顔だけは、思い出すと爛れるような熱さが胸を焼いた。


 イヴァンはエルメンガルトに触れるのだろう。優しい眼差しで見つめ、不器用な言葉を贈るのだろう。いつしか底知れぬ魅力を秘めた妻のことを愛し、愛される日も来るのかも知れない。

 エルネスタはついにしゃくりあげて顔を膝に埋めた。先程は聞き分けのいいふりをしたのだ。本当はこんなにも苦しくて、体中が嫌だと叫んでいたのに。


 胸が、痛くて。痛くて痛くて、たまらない。


 私はこの罪を一生背負っていく。だからせめてこの国を、貴方を想うこの気持ちだけは。

 許してほしい。遠方より貴方の武運を祈ることを。幸せを願うことを。


 エルネスタは押し殺すようにして涙を流し続ける。斜向かいに座った近衛騎士が沈痛な面持ちをしているのがわかったが、それでも泣き止むことができなかった。


 一つの終焉を乗せた馬車は、影のようにひっそりとした足取りで早朝の町を進む。その中に乗る者の正体など、誰ひとりとして知ることのないままに。





 ***



「……ええ。約束、するわ。ここであなたを待ってる」


 満月の青白い光を浴びて、儚げな美しさをたたえた妻が笑う。


 彼女の全てがイヴァンにとってはかけがえのない宝と成り得た。触れてくれたのは傷付かないことを証明するためだとわかっていても、その心の優しさと微かに感じた唇の熱そのものに対する喜びは、同じだけ大きかった。


「ああ、約束だ」


 聞いたこともないほど柔らかな、自身の声。

 この温かさに身を浸して良いはずがない。それなのに心に刺さった棘が、許しもないまま抜け落ちていく。

 結局のところ、彼女の前では王としての矜持も使命も、何もかもが無意味だった。


 優しい日々を遠ざけて感情を封じ込めることは、それを享受する罪悪感を覚えるよりもよほど楽で、背負いこんだものをこぼさないためには必要だった。しかし彼女を幸せにするためなら、見ないようにしてきたものすら受け止めることができると思える。


 待っていろなどと、何と傲慢な約束を強いたのだろう。どれ程の自己嫌悪に苛まれようとも、そうでもしなければ到底側を離れることなどできなかった。彼女がどんな人生を歩んできて、何が好きで、何を望むのかわからないからこそ、目を離した隙に幻のように消え失せてしまうような気がした。


 それでもイヴァンは信じると誓った。だからこの約束を胸に、信じて出立しなければ。

 深緑の瞳がこちらをしかと見つめている。その色はどこまでも澄んで、狼の情けない顔を映し出していた。


「イヴァン。これ、良かったら」


 彼女が不意にガウンのポケットを探り、出てきた何かを差し出してくる。


 イヴァンは狼の毛並みを纏った手で、華奢な指先からそっと包みを受け取った。

 中を開けてみると、そこには沢山の飴玉が詰め込まれていた。一つ一つ薄布で包まれたそれはどこか素朴な風体を醸し出していて、まさかと思いつつも顔を上げる。


「日持ちのする甘いものがあるといいと思って、作ってみたの。出兵のお手伝いを終えた後に厨房を借りて。……結局みんなが手伝ってくれて、沢山できたから兵糧にも入れておいたんだけどね」


 照れ臭そうに笑う彼女に、少しだけ落胆する。

 これは俺のためだけに作られたものではなかったのか。ついそんな事を思ってしまい、イヴァンはその思考の身勝手さに衝撃を覚えた。


 何を考えているのだろう。彼女は出兵の準備を取り仕切ってくれたのだ。更には愛してもいない夫のために、こんな気遣いさえ見せてくれたと言うのに。


「アプリコットは好きなのよね?」


「ああ、好きだが」


「良かった。実はイヴァンにはアプリコット味の飴をつくったの。それしかできなかったから、内緒ね」


 その言葉には動揺せざるを得なかった。

 先程の落胆が高揚に打って変わり、狂おしいほどの想いが募っていく。


「疲れたら甘いものを食べてね。無理しないで。それで……きっと無事に、帰ってきて」


 切なげな笑みを見ていたら、意味もなく叫び出したいような気持ちがして、イヴァンは包みを握る手に力を込めた。


 この爪が、牙が、今日という夜を選ばずにいてくれたなら、俺は君を酷く傷つけていたかもしれない。

 君は俺のことを優しく誠実だなどと言うが、決してそんなことはないんだ。

 俺は待つと言ったことすらも、君と眠るたびに忘れそうになる不埒者。君に嫌われることは耐え難いと思う、ただの獣だ。


「ありがとう。エリー」


 きっと心配をかけている。口にはしなくとも、優しい彼女が戦に心を痛めていないはずがない。

 だからイヴァンは心の中で誓いを立てる。


 君が誰なのかはわからない。

 せめて今はただ君を守ろう。この国と共に、俺を待つ君のことを。


 *


 目を覚ますと味気のない天幕が視界いっぱいに広がっていた。

 イヴァンは夢の余韻を追いかけようと霞む視界を閉ざす。それなのに華奢な姿は霧のように溶けて、どんな内容だったのかすら朧げになってしまった。


「……元気にしているだろうか」


 焦がれるような独り言は、薄暗い天幕内に放り出されて落ちていく。

 イヴァンは荷物の中から飴を取り出して口に含んでから、仕事を始めるべく外へと向かった。


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