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結婚式の夜

 結論から言えば、結婚式の記憶はあまり残らなかった。

 式の間中緊張しきっていて、とにかく何か失敗しないように必死だったのだ。


 お辞儀の仕方ひとつ取っても本物の姫君たる仕草を見せねばならないのは、エルネスタにとっては途方も無いほどの苦労を要した。


 歩き方は凛と背筋を伸ばして、それでいてたおやかに。

 契約書へのサインも、事前に練習しておいた本人の筆跡に似せる。

 どれだけ緊張していても、顔には幸せそうな笑みを浮かべて。

 さらには口調もお淑やかに、答えられないような質問はされないようになるべく静かに過ごす。


 ずっと気を張り続けていたエルネスタだが、一つだけ気になることがあった。


 この国王陛下は、笑顔というものをどこかに置き忘れてしまったのだろうか?




 ようやく解放されたのは夜も深まってからのことだった。

 エルネスタは煌びやかな衣装のまま寝台へと飛び込みたい衝動に駆られたが、その欲望に負けるよりも早くルージェナに声をかけられた。


「王妃様、まずはご入浴を。ご案内します、どうぞこちらへ」


 周囲にもすっかり王妃様呼びが定着してしまい、エルネスタはなんとも居心地が悪かった。生まれはどうあれ庶民なのだから、こんな待遇は落ち着かない。


 脱衣所に入ると、ルージェナはさっそく花嫁の衣装を脱がしにかかった。


「お一人でご入浴されるとの事ですが、本当によろしいのですか」


「ええ、大丈夫よ」


 強靭な締め付けのコルセットから解放され、エルネスタはため息をついた。

 何でも、人狼族には貴族でも入浴の際に人を付ける習慣がないらしい。市井育ちのエルネスタにはありがたいことだ。


「畏まりました。それでは、私はこれで失礼致します」


 ルージェナはニコリともしないまま、淑やかに礼をすると退室して行った。

 ようやく一人になったエルネスタは、頼りない下着姿のままへなへなと崩れ落ちる。


 疲れた。ただひたすらに疲れた。


 正直言ってもう何もしたくない。脱衣所がこんなに広いなら、適当な布でも敷いてこのまま眠ってもいいのに。


 しかしそんな事は許されないのだと解っていた。何せ今からはある意味何よりも大事な仕事が待っている。

 腹が痛くなってきた気がする。いや、大丈夫。エンゲバーグが言っていた事を思い出せばほら、少しは落ち着けるはずだ。


 *


「初夜についてですが、事を成さないように上手く誘導して頂きたいのです」


 それはシェンカでの道中、馬車の中で色々な確認事項を羅列していた時のこと。エンゲバーグからの指示に、エルネスタは両目を瞬いた。


「どうして? そんな事をしていいの?」


「ええ。むしろ、そうしていただかなければ困ります」


 驚愕を隠せないエルネスタに対して、有能な大使は気まずそうに咳払いをする。


「こんな事を男の私から言われるのはお嫌でしょうが……。つまりその、エルメンガルト様は純潔をお守りになっているはずなのです。ああその、違いますぞ。私は決して、女性のことをそんな目で見ているわけではありません。断じて。これはエルメンガルト様付きの侍女から聞き取った情報でありーー」


「解ったわ、大丈夫よ伯爵。変な誤解をしたりはしないから」


 長くなりそうな説明を苦笑含みで遮られ、自らの失態に気付いたエンゲバーグは頬を赤らめつつ話を戻した。


「つまりですな。エルメンガルト様にお戻りいただいた時に乙女であったなら、かなりの可能性で陛下はお気付きになるという訳です。既に体を重ねた相手がある日いきなり乙女に戻ったら、誰だって疑念を持つでしょう」


「確かに。それはそうよね」


 それは納得をせざるを得ない話だった。赤裸々な内容に羞恥を覚えつつ、エルネスタは赤くなった顔を上下に振る。


 正直に言って安心したのも事実だ。

 どんなことでも耐えて見せる覚悟はある。それでも、未知の行為への恐怖心はぬぐいきれなかったから。


「わかったわ。何とか回避できるように頑張ってみる」


「お願いします。エルネスタ様にとってもその方がよろしいでしょうから」


 意外にも労りの言葉をかけられてしまい、エルネスタは瞠目した。


「私のことを心配してくれるの?」


「勿論です。貴女様はご両親を大事にしておられる心の優しいお嬢さんで、我々はそんな貴女様にとんでもない無茶をお願いしてしまった。できることならそのままのお姿で帰して差し上げたいと思っております」


 エルネスタの両親はブルーノとイゾルテだ。それを他者から認められる事がこんなに嬉しいのだとは、彼は想像もしていないだろう。

 改めて大使がエンゲバーグであったことに感謝したエルネスタは、礼を述べて力強く頷くのだった。


 *


 何とか風呂を出た頃には余計に疲労困憊していた。頭の中は「どうやってこの難局を乗り越えるか」を考えるばかりで一杯だ。

 いくつか案を授かったにせよ、今まで恋人の一人もできたことのない自分が、そう器用な方であるはずもない。


 ルージェナはすぐにやってきて、エルネスタを磨き上げ始めた。顔に粉を叩かれ、薄く紅を引かれたあたりで、そろそろ現実がのしかかってきて息が詰まる。


「お綺麗です、王妃様」


「ありがとう」


 侍女長の抑揚のない賛辞を、エルネスタはお世辞と断じた。こんなに綺麗な白い寝間着だなんて、似合わないに決まっている。


 けれど実際には、エルネスタは誰の目から見ても美しい姫君と映っていた。三週間の努力と元々の整った目鼻立ちが、何ら恥じるところのない完璧な姫を作り上げていたのだ。


「お笑いなさい。これはこの国の王妃となった、貴女様の務めです」


 ルージェナは感情を排除した瞳でこちらを見据えている。

 そう、確かにこれは当然の務めなのだ。その務めを放棄するつもりだと知ったら、この鋼鉄の侍女長はどう思うのだろうか。




 案内されたのは自室ではなく、続きの扉の向こうの寝室だった。扉が閉ざされた音に体を強張らせたエルネスタは、恐々と先客の元へと歩んでいく。


 イヴァンは毛皮で作られたラグの上に座り込んで、何やら羊皮紙を確認しているようだった。もしかすると随分と待たせてしまったのかもしれない。


 それにしても本当に緊張してきた。今喋ったら歯の根が音を立てるに違いない。それなりに度胸のある方だと自負していたのに、この難局にあってはそんなものは何の役にも立たないようだ。


 このとき極限状態に陥った頭が、急に一つの気付きをもたらした。


 ーー彼と二人きりで向き合うのはこれが初めてではないか。


 このひとはどういうひとなのだろう。


 人狼族の王様にして、周辺諸国に恐れられる程の才気を持つ男。生まれながらにして尊ばれてきたこのひとには、本来ならば会うことすら叶わないはずだった。


「まるで狼を前にした兎だな。……いや、まるでというより、本当にそうなのか」


 初めて目にした笑顔は、皮肉げに歪んでいた。

 なぜそんな顔をするのか、そして何を言われたのか理解できず、つい体を震わせてしまう。

 するとイヴァンはますます顔を歪めた。


 そこにエルネスタへの侮蔑の色はなく、だからこそ何故そんな笑い方をするのかが解らない。


「王妃殿。そんなに怖がらなくても、無理に取って食ったりはしない」


 エルネスタは瞠目した。今、このひとはなんと言った?

 額面通り受け取るなら、その意味は。


「今日は寝よう。俺も疲れた」


 望みもしない展開である。まさか向こうから断ってくれるとは。

 目の前が明るく開けたような気がした。エルネスタは安堵のあまり崩れ落ちそうな程で、微かに漏らした溜息を聞き留められていたとは思いもしなかった。


 既に無表情を取り戻したイヴァンが、ふと立ち上がって歩き始める。その足は明らかに寝台へと向かっていて、エルネスタもそれに続くべきかと足を踏み出す。


 しかし、彼がチェストから短刀を取り出したのを見て体を凍りつかせた。


 一体どうしてそんなものを。護身用? いいえ、まさか最初から知られて……?


 そこまでの思考を目まぐるしく駆け抜けたものの、まったくの杞憂に終わった。


 彼は何のためらいもなく自らの掌を斬りつけたのだ。

 あまりのことに言葉を失う。滴る赤がシーツに染みを付けた段階で、エルネスタは殆ど無意識に走り出していた。


「何をなさっているのですか!?」


 怒涛の勢いで彼の手を取ると、ぱっくりと開いた傷が鮮血を滲ませていた。

 回らない頭で何かないかと思案した末に、自らの胸元のリボンを引き抜いて掌に巻き付けていく。ちなみにこのリボンはただの飾りなので、取ってしまっても何ら問題はない。


「酷い傷……! どうして突然こんな事を?」


「お互いに務めを果たしたことにするためだ」


 確かに理屈は通る。しかし、そこまでする意味がわからない。


 エルネスタは思わず驚愕に見張った瞳をイヴァンへと向ける。すると何故だか彼もまた意外そうに目を瞬かせていた。それは幻かと思う程に一瞬のことで、すぐに鉄面皮を被り直すと、エルネスタの手をやんわりと振り払う。


「待って下さい、ちゃんと手当をしなければ」


「放っておけば治る。必要ない」


「ですが!」


「くどい。俺は要らぬと言ったんだ」


 一喝する声は静かだったが、むしろ凄みを孕んで闇を割いた。

 イヴァンの瞳が凍てつく夜の色を帯びている。その藍色が語る明確な拒絶に、エルネスタは動けなくなってしまった。


 先の提案は幸運などではなく必然で、この国王陛下は自らの妻を疎ましく思っているのだ。


 そこからは取り付く島もなかった。


 イヴァンは黒々と染まった純白のリボンを手に巻き付けたまま、話は終わったとばかりに寝台に横たわる。寝息を立て始めた背中をしばし呆然と眺めたエルネスタは、やがて小さく溜息をついて肩の力を抜いた。


 どうやら仮初めの夫はかなりの難物のようだ。


 何故こんなにも拒絶を露わにするのか。冷酷にして残酷な人狼王という評判は本当だったのか。

 何もかもがわからないからこそ、エルネスタは知りたいと思った。この冷たい目をした男の心の内を。


 それが役目に必要の無い願いであることは解っていたが、それを咎める考えは湧く前に睡魔の海に沈んで行った。緊張から解き放たれた頭が思考を拒否し、視界すらおぼろげになってくる。


 今日はとにかく眠ろう。色々考えなければいけないことがあるけれど、流石に今くらいは許してほしい。

 エルネスタはのろのろと寝台に潜り込むと、すぐさま夢の世界へと旅立つのだった。


ブクマや評価で応援して頂けますと、今後の創作の糧になります。

どうぞよろしくお願い致します!

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