愛しき者たち 2
それからは慌ただしい日々が過ぎた。
エルネスタはひたすらに働いた。ヨハンに怒られながらの仕事は大変ではあったが、折り重なるような苦しみに苛まれるよりは、何かしていた方が余程楽だった。
そうして数日が経ったある夜、自室で日記を書いていたときのこと。
エンゲバーグが訪ねてきたので、エルネスタはそっと彼を迎え入れた。訪問の理由は真剣な眼差しを見れば一目瞭然だ。
「エルメンガルト様がラシュトフカにご到着なさいました。明日にはお迎えに上がり、王城内で交代する予定です」
エルネスタは静かに頷いた。覚悟ならとっくの昔に決めていて、今更驚く必要も無かった。
「ご無事に到着なさって本当に良かった。私はここで待っていればいいのよね」
「はい。ご起床頂いた後、こちらの衣装に着替えてお待ち下さい」
エンゲバーグが手渡してきたのは、王妃のワードローブの中の一着とそっくりな品物だった。その精度に舌を巻いたエルネスタは、クローゼットの中から同じものを取り出して彼に渡す。
これで同じ衣装が二つになった。エンゲバーグに渡した本物は、エルメンガルトが身につける予定だ。
「入れ替わるのは早朝です。ご起床が大変かとは思いますが……」
「大丈夫よ。ちゃんと早起きして待っているわね」
柔らかく微笑む身代わりの娘に、エンゲバーグはぎこちなく笑った。労りが透けて見えるような表情にまた一つ胸を痛めつつ、エルネスタは有能な大使を送り出す。
まずは渡された衣装をクローゼットにしまった。そしてゆっくりと背後を振り返り、静寂に満ちた部屋をぐるりと見渡してみる。
一月半をここで暮らした。苦しいことも大変なこともあったけれど、楽しい思い出の方が圧倒的に多い。
エルネスタは様々な記憶が蘇りそうになって目を瞑ったが、再びのノックが響いたので、小走りに扉へと向かった。
やってきたのはダシャであった。そろそろ帰らないと家族が心配するだろうに、もしかして何かあったのだろうか。
「その……王妃様に、お話が」
「話? とにかく入って。座りましょう」
ダシャが言いにくそうに目を伏せるので、手を取って部屋へと招き入れた。温かなラグの上に座らせて、丸い瞳を正面から覗き込む。
「お茶を出すわ。少し待っていて」
「え…っ! そ、そんな、王妃様にそのようなことをして頂くわけには」
「貴方が置いていってくれたポットから注ぐだけよ。待っていて、ね?」
細い肩を叩いて落ち着かせると、エルネスタはチェストの上のポットを手に取りグラスに注いだ。冷めても美味しいこのお茶は、ダシャお得意の一品だ。
恐縮しきりの侍女にグラスを渡し、エルネスタも同じものを用意して口に含む。そうして喉を潤してから、俯いたままの侍女に微笑みかけた。
「それで、話って?」
「……実は。ルージェナ様に、ご様子をお伺いするようにと」
エルネスタは深緑の双眸を丸くした。無言で話の続きを促し、ほとんど無意識のうちに手の中のグラスを握りしめる。
「ルージェナ様は、私がお相手では楽しくもないだろうと仰いまして。王妃様は陛下がご出陣なさって以降、明らかにご無理をされていると。皆、心配しております」
おずおずと紡がれた言葉のあまりの温かさに、エルネスタは全てをぶちまけたいような衝動に駆られた。
お願い、やめて。心の底から願っても、純粋な心配を向けてくれる侍女の瞳は揺らがない。
「あの、大変恐れ多いことではありますが、皆王妃様が大好きなのです。それはもちろん、私もですよ! ですから、ご無理をなさるお姿を見てはいられないのです。お辛いのならもっと表にーー」
「ダシャ。私は大丈夫よ」
エルネスタは柔らかくも有無を言わさない声音で、専属侍女の進言を遮った。
悲しそうに細められた瞳が、息を飲むと同時に見開かれる。その無防備な表情を見ているだけで胸が痛んだが、エルネスタは精一杯の笑顔を浮かべた。
「ごめんなさい。いつも通り振舞っていたつもりで、心配をかけていただなんて気がつかなかったの。けど、もう大丈夫」
「王妃様……?」
「明日から、私はそれこそ人が変わったように元気になる。今決めたの。きっと無理はしてしまうと思うけど……あまり気にしないで接してくれたら、それが一番嬉しい」
ーーごめんね、ダシャ。
あなたには心から感謝してる。この国で一番初めに打ち解けてくれた、同世代の女の子。あなたがいなければ、私はとっくに挫けていたかもしれない。
エルネスタは両手を伸ばして、一番身近な存在である少女を抱きしめた。
「王妃様⁉︎ どうなさったのです」
「心配してくれてありがとう。私も貴女が大好きよ」
ダシャだけではない。この国で出会ったひとたち、その全てが愛おしい。
こんなに良くしてもらっておきながら挨拶すらせずに立ち去る自分は、もはや薄情を通り越している。いくら謝っても許されないとわかっているけれど、心の中で呟かずにはいられなかった。
皆ごめんなさい。今まで助けてくれてありがとう。
「え⁉︎ ほんとですか! どうしよう、嬉しいです! えへへ……」
ダシャは何やら喜んでいて、その様子がさらなる苦しみを生み出した。
罪悪感に苛まれたまま彼女を見送ってから、エルネスタは自室の寝台に横たわる。今夜は胸の痛みばかりが気になって、眠れないような予感がした。
エルネスタは夜も明けきらないうちに起き上がった。
色々な事が頭を駆け巡って一睡もできなかったが、それでも構わないだろう。どうせこれからは長旅なのだから、馬車の中で眠ればいい。
顔を洗ってから昨日手渡されたアークリグを身に纏う。次に顔色が悪いことに思い至って、ランプを頼りに頬紅を差すと、幾分かましに見えた。
しばらくはただそこに佇んでいた。その間にも徐々に空が白んできて、室内が黎明の光に浮かび上がっていく。そろそろかと思った瞬間、ついに扉が微かな音を立てた。
そうして入室してきた人物を見るなり、エルネスタは両目を目一杯見開いた。震える口元に手を当てる。そうでもしなければ、驚きの叫び声をあげてしまいそうだった。
彼女は非常に堂々とした姿でそこに居た。全く同じアークリグを着て、エルネスタと一片の差もないであろう顔立ちを晒したまま。
「やあ、会いたかったよ。我が妹よ」
鷹揚な口調で微笑むエルメンガルトは、身代わりの妹などよりよっぽど泰然とした佇まいの持ち主だった。
エルネスタは想像以上の衝撃に揺れる頭を持て余し、少しの間自分と全く同じ顔を眺めることになった。




