満月の約束
エルネスタは作業の合間に早めの夕飯を取っていたので、部屋に戻ってすぐに入浴を済ませてしまうことにした。少し早い時間だが、もうやるべきこともないので構わないだろう。
いつものように全てを一人でこなして、寝支度を整えてから寝室に向かう。そこにはイヴァンの姿はなく、薄暗い部屋は夏だというのに寒々しく感じられた。
まだ仕事をしているのだろうか。明日は早朝から出発するらしいから、そろそろ眠らなければ障りが出るだろうに。
エルネスタはざわめく心をなんとかしたくて胸元を握りしめる。
一目でいいからイヴァンに会いたい。心の準備もできないまま迎えた最後の夜くらい、彼に挨拶をしてから眠りに就きたかった。
エルネスタは寝台の側のランプに火を入れようとして、ふと隣の部屋での物音に気付く。
逸る気持ちを抑えて続きの扉をノックすると、向こう側の空気が揺れる気配を感じた。それでも返事はなく、小さな声で部屋の主を呼ぶ。
「イヴァン……そこに、いるの?」
その呼びかけからたっぷり一拍の間をおいて、どこか壁のある声が帰ってきた。
「先に寝ていろ。俺はまだやることがある」
エルネスタは扉の取っ手に掛けていた手を震わせた。
やっぱり待っていては迷惑だったのだ。昼間に果樹園で交わした言葉のせいで怒らせてしまったのだろうか。
出陣の前夜にせめて武運を祈る言葉を贈りたいと、たったそれだけの願いすら抱くことは許されないらしい。
それも必然だ。エルネスタはこれだけ良くしてもらった相手に嘘をつく咎人。彼が戦に出ている間にそっと城を出る予定の、血も涙もない冷酷な人間なのだから。
けれど。
「入るわよ、イヴァン」
エルネスタは返事を待たずに扉を開け放った。
諦めるべきだったのだろう。それでも強く鼓動する心臓が、踵を返すことを拒絶していた。
イヴァンは黒のチョハを纏ったまま絨毯の上に座り込んで、驚きに目を丸くして妻を見つめている。彼の周りにはいくつかの剣と道具が広がっており、どうやら手入れをしていたことが察せられた。
「忙しいところをごめんなさい。ちょっとでいいから顔が見たかったの」
言いつつ一歩を踏み出すと、動きを手で制されてしまう。エルネスタは明確な拒絶に身が竦ませたが、その理由は違うところにあった。
「危ないから来るな。今片付ける」
人を斬るための道具を扱うイヴァンは、それなのに今までで一番清廉に見えた。
彼は次々と柄に刃をはめ込み、鞘に戻していく。無駄のない流麗な動きに目を奪われつつ、エルネスタは眉を下げた。
「終わっていないのでしょう? 何も片付けなくても」
「いや、もうほとんど終わっている。ただ何とはなしに磨いていた」
「……どうして?」
イヴァンが意味もなく時間を浪費するとは珍しい。不思議に思って問いかけたエルネスタは、彼の顔が自嘲に歪むのを目の当たりにすることになった。
「今日は満月だからな。……エリーにだけは、会いたくなかった」
その言葉の意味を理解するより前に、見慣れた藍色がざわりと揺れた。
いつのまにか室内はランプの灯りが目立つ程に暗くなって、突き当たりの窓の向こう、満月が紫紺の空を切り抜いている。
エルネスタはそこでようやく今夜が何の日なのかを悟った。
冴えた輝きを背にしたイヴァンの体が俄かに波打ち始める。金色の髪は獣の毛並みに、藍色の瞳は獣の虹彩に、人の形の手は獣の爪と毛皮を宿す。
目の前で起こった変身は、息を止めている間に終わりを迎えた。
「以前、君は言ったな。俺のことなど怖くないと」
イヴァンは鞘に収めた剣を脇に寄せて立ち上がる。二人の距離は部屋の広さの分だけ離れていて、仮初めの夫婦を隔てる見えない壁を表しているかのようだった。
「だが、俺は怖い。この牙も爪も、君に触れるにはあまりにも鋭すぎる」
それは夜空のような声だった。覆い尽くすような温かさに満ちているのに、手が届かないほど遠い。
エルネスタは金の毛並みが月光を纏って煌めくのを眺めながら、長屋で助けられた時のことを思い出していた。
そう、あの時のイヴァンは妻を抱え上げる前に人の姿に戻った。よく考えてみれば、わざわざ筋力で劣る人の姿に戻る必要は無いというのに。
その時は何の疑問も感じなかったが、今になってようやく理解する。
イヴァンが人以外の姿を見せようとしなかったのは、怖がらせないようにするためだけじゃない。万が一にも傷付けないように、エルネスタを守ろうとしてのことだったのだ。
「私は傷付いたりしない。貴方が私を傷付けるはずない……!」
叫んだのと同時、目の奥が焼けつくように痛んだ。あまりにも優しく繊細なこのひとの心を、エルネスタもまた守りたいと思った。
吐息が震える。視界がぼやけて精悍な立ち姿が定まらない。それでも力任せに目元を拭って、大股の一歩を踏み出した。
狼の顔が無防備なほどの驚きを宿している。イヴァンが何も言えないでいる間に、エルネスタは彼の目の前に辿り着いていた。
満月が室内を青白く照らし、輪郭の違う二つの影を絨毯へと落とし込む。藍色の瞳はいつもと変わらない輝きを放って、真っ直ぐに深緑のそれを見返している。
エルネスタはたくましい肩に両手をついて背伸びをすると、金色の毛並みが美しい口元に、そっと唇を重ねた。
ーー傷付くわけがない。だって私は、貴方のことが。
言葉に出せない代わりに、全ての想いを込めて愛しい男に触れる。酷い女だ。人のものにこんなことをしては、いくら懺悔をしても許されはしないだろう。
どんな姿でも、いついかなる時も、この想いはまるで制御できないままに育ち続けてしまった。しかし狂おしいほどの想いが自分の物だとしても、今こうして触れ合う時は違う。
返さなければ、全て。恐ろしく分不相応な願いを抱く前に。
それはほんのわずかな時間だった。エルネスタは名残惜しさを感じながら、それでも静かに体を離す。
「どうか、ご無事で」
ようやくそれだけ言って、エルネスタは微笑んだ。本当はもっと伝えたいことがあったけれど、それは口にしてはならないことだった。
お元気で。
もう怪我なんてしないで。
この国の安寧を祈っている。
どうか、幸せに。
狼の顔は表情がわかりにくかったが、彼がどうやら呆然としていることは伝わってきた。ややあって目をそらしたイヴァンは、がしがしと後頭部をかきむしって、全ての空気を出し尽くすような溜息をついた。
「……今日が満月で良かった。そうでなければ到底耐えられない」
なんのことかと問おうと口を開きかけた時、いつもよりふた回りは太そうな腕が伸びてきて、エルネスタの体を抱き寄せた。
ふわりと柔らかい感触がする腕の中、滲む涙をごまかす為にそっと目を閉じる。
「君もだ、無茶はするな。外に出る仕事はやらなくていい。寒くなってくるから風邪をひかないようにな」
イヴァンが落とす一つ一つの言葉が胸を焼いた。エルネスタは顔を上げないままぎこちなく頷く。抱き返すことはできず、力の入らない両手で彼の胸に縋り付いた。
静寂の時が過ぎた後、そっと顔を覗き込まれた。みっともない表情をしている自覚はあったのでとっさに隠そうとするが、次には手を握られてしまってそれも叶わない。
「エリー。一つだけ約束してほしい。ここで俺を待っていると」
心臓が痛い程に跳ねた。
狼の瞳には一つの冗談も見当たらない。そのまっすぐな輝きに押し包まれると、その場にうずくまりたいような衝動に駆られてしまう。
「い、嫌だわ、イヴァン。そんなことわざわざ確認しなくてもーー」
「エリー」
間を持たせようとする言葉は静かに遮られた。
今の二人には間の抜けた会話も能天気な笑顔もふさわしくない。エルネスタはただ彼の瞳を見つめることしかできず、全身が痛みを訴えるのを無視し続けていた。
「お願いだから頷いてくれ。それだけで、俺はここへ帰ってこれる」
切実さばかりが滲んだ声に、エルネスタはもう抗うことができなかった。
そして嘘をつく。今までで一番最低な嘘を。
「……ええ。約束、するわ。ここで貴方を待ってる」
エルネスタは己の心が潰れる音を聞いた気がした。震えそうになる声を精一杯張って、泣き笑いのような笑みを作る。
確かなのは、この約束によって購いきれない罪を背負ったということ。
狼の顔が描いた微笑みは、今までで一番優しかった。
エルネスタは仮初めの夫を見つめ続ける。二度と出会えないその表情を、決して忘れないよう脳裏に焼き付けるために。




