前夜
どうやって戻ってきたのか良く覚えていない。
気が付くとエルネスタは自室にいて、目の前ではエンゲバーグが怪訝そうに首を傾げていた。
「エルメンガルト様、畏れながら聞いていらっしゃいますか?」
「あ……! ごめんなさい。なんて?」
エルネスタは誤魔化すように笑ったが、有能な大使は仮初めの王妃の動揺を察したようだった。
「無理もありません。まさかこのタイミングで戦が始まるとは、私も予想外でした」
「……ええ。そうね」
九年前までシェンカと戦争状態にあった国、リュートラビア。ブラルと並び立つ大国で、その軍事力は周辺諸国でも一、二を争う。
かの国から攻め入られたとの報告が上がったのはつい先ほどのこと。イヴァンは厳しい顔をして執務室に向かい、エルネスタは居場所のない身を自室へと押し込むことになった。
「ではもう一度申し上げます。先程伝書鳩にて一報が。ようやくをもって、エルメンガルト様を発見致しました」
エルネスタは今度こそ何も考えられなくなった。
あまりにも大きな情報が同時に二つも入ってきて、頭が麻痺してしまったらしい。
「シェンカ国内にあらせられたとの事で、近いうちにご到着されるかと。ブルーノ殿の提示された期限に間に合いそうで、よろしゅうございました」
エンゲバーグが安心したと言わんばかりの笑みを浮かべるが、その言葉はエルネスタの脳内を素通りしていった。
ここは喜ぶべき場面なのだから笑わなければ。そんな義務感だけが頭に浮かんで、強引に口の端を吊り上げる。
「そう……良かったわ。本当に、良かった」
しかしその笑顔は不発に終わったようだ。エンゲバーグは明らかに眉をしかめて、溜息をついて見せた。
「エルネスタ様」
久しぶりに名前を呼ばれて、エルネスタははっと顔を上げた。
「ご心配ですか? この国と、親しくされていた者達のことが」
あまりにも的確に図星を突かれて息を呑む。どうやら本当にこのシェンカ大使は洞察力に優れているらしい。
「貴女様の優しいお心は良く理解しているつもりです。その上であえて申し上げます。此度のことは幸運だと思いなさい」
「エンゲバーグ伯爵、何を言うの……⁉︎」
エルネスタは悲鳴の様な声を上げた。そう言う彼もまた思いやりのある人物だというのに、どうしてそんなにも残酷なことを口にするのか。
「これで城内も、城下すらも混乱をきたします。この分ならば、最大の関門……『エルメンガルト様との交代』も、容易に行うことができるでしょう」
「あ……」
確かにそうだ。エンゲバーグは事実を述べているだけ。
けれど、エルネスタには到底そんな風には思えそうになかった。
「よろしいですか。貴女様にこの国の行く末を案じる義務はありません。全てをエルメンガルト様に委ねてヴァイスベルクに戻り、ここでの出来事など忘れて優しいご家族の元で暮らすのです。それが貴女様のお役目にして望みであり、それをもう少しで果たすことができるはず。違いますか?」
いつになく厳しい口調で語りかけてくるのは、明らかにエンゲバーグの優しさによるものだった。
彼はとっくの昔に気付いていたのだろう。身代わりの娘がこの国に浅からぬ情を移してしまったことに。
「また続報が参りましたらお知らせいたします。どうか気を抜かれませぬよう」
「……わかり、ました。伯爵もどうぞ気をつけて」
エンゲバーグは一礼を残して退室する。途端に足腰の力が抜けて、エルネスタはその場にへたり込んでしまった。
到底現実の出来事とは信じることができない。それなのに扉の外は忙しなく往来があって、全ての出来事が紛れも無い真実なのだと伝えている。
エルネスタは己の頬を叩いて立ち上がった。
あと数日の事だったとしても、今の自分はこの国の王妃なのだ。
こういう時のための度胸ではないか。戦が怖いとか、何をしたらいいかわからないとか、そんなことを言っている場合ではない。
勢い込んで廊下へと飛び出したエルネスタは、まず侍女の支度部屋へと向かった。扉をノックしようとしたところで、中から出てきた誰かと鉢合わせてしまう。
「ルージェナ!」
「王妃様、どうなさいました」
ルージェナはいつも以上に厳しくしていた表情を、わずかながらに緩めたようだった。そしてエルネスタの意図を問う割に、その瞳には何かを確信した光を宿している。
「私が今すべきことを教えて。何もわからないから、あなたの力を貸して欲しいの」
「承知いたしました。私もそのお話の為に参ろうとしていたところです」
侍女長の笑みを目にしたのは、これが初めてのことだった。
エルネスタは意表を突かれて開口してしまったが、すぐに口の端を上げて頷き返した。
食料庫は戦場の様相を呈していた。
行き交う者全てが人狼の姿を取っている。侍女も女中も関係なく入り乱れ、保存食を担ぎ出してはすぐにまた中へと戻っていく。どうやら兵糧の準備をしていることはすぐに知れた。
エルネスタを連れて内部を通り過ぎたルージェナもまた人狼へと変身し、その先の作業場でようやく足を止める。
「皆、聞きなさい」
侍女長が一声かけるだけで作業場はしんと静まりかえった。改めて彼女の統率力に感心しつつ、エルネスタは背筋を伸ばす。
「これより王妃様がお仕事をなさいます。失礼のなきように」
一斉に華やかな返事が返ってくるが、彼女たちが突然の王妃の登場に驚いているのは確かだった。エルネスタは一歩前に出て、決意を込めた瞳で部屋中を見渡した。
「できる限りの働きをします。私に対する遠慮はいりません。この危機を乗り越えるために、皆の力を貸して下さい」
そしてシェンカ式の礼を取ると、静まり返った場が沸き返った。温かい空気に満たされた作業場で、エルネスタは恐々と顔を上げる。
「はい! お役に立てるよう頑張ります!」
勢い込んで叫んだのはダシャだった。彼女の宣言を皮切りに、四方から励ます声が飛んでくる。
「もちろんです! バリバリ働きますよ!」
「この仕事は大変ですよ〜? 王妃様ならサボる権利があったのに」
「頑張りましょう。女の大切な仕事です」
この一月ですっかり見知った顔たちが、頼もしい笑みを浮かべている。彼女たちの家族が、友が、あるいは恋人が、戦へと向かうのだろうに。
エルネスタはしっかりと頷いた。そして輪の中に飛び込んで、夜まで働き続けたのである。
***
侍女達は疲れた体を引きずり、支度部屋へと帰ろうとしていた。既に人の姿に戻った面々は、不安を押し隠しはしても顔に現れた疲労の色だけは誤魔化しようがない。
太陽も傾きかけた頃合いになって、ようやく出兵の準備が完了したのだ。今は日の長い夏場だから時間としてはもう遅い。
「それにしても、王妃様の仕事ぶりは凄かったわね」
一人の侍女が言うと、それに賛同する声が次々と上がる。
「ほんと、びっくりしちゃった。人間のお姫様ってあんなに働くものなのね」
「手際が良かったわね。終いには薬の調合まで手伝っておられたし」
「嫁いで来られた頃は、話しかけることも憚られたのにね。誰にでも分け隔てなくお優しいし、よくお気付きになって」
疲れているにも関わらずおしゃべりに花が咲くあたり、まだまだ元気そうである。しかし最年少のダシャが放った言葉は、侍女たちに暗澹とした気持ちをもたらした。
「王妃様、大丈夫でしょうか。陛下がご出陣なさるなんて……一報が入った時、とても、悲しそうなお顔を」
それでもすぐに笑顔を浮かべて仕事を再開した王妃には、皆頭が下がる思いだった。その姿は年齢からは考えられないほどに冷静で、誇り高く見えた。
「心配よね……」
「明日からはより一層、私たちで王妃様をお支えしなきゃ」
「そうね。ダシャ、あなたが一番王妃様と近いんだから、暗い顔をしてちゃダメよ」
「はい! もちろんです」
ダシャは決意をみなぎらせた瞳で頷いた。彼女もまたこの一月で随分と強くなっていたのだが、本人だけが気付いていない。
拳を握りしめつつふと窓の外を見上げれば、夕日が空を紫色に染め上げていた。
もう少しの時間が経てば、人狼たちの夜がやってくる。そう、二十八日ぶりの満月の夜が。




