果樹園にて
身代わりの期限まであと一週間を切った週末。エルネスタはイヴァンと共に果樹園を訪れていた。
日差しは強くともからりとした空気のおかげで暑さは感じない。王城の敷地内の小高い丘に造られたそこは風通しが良く、ラシュトフカの街並みが一望できる。
果実の実った木々と黒い釉薬の屋根瓦が映え、夏の空が青く冴え渡る。エルネスタはその美しい風景に歓声を上げた。
「綺麗なところ……! イヴァン、連れてきてくれてありがとう」
「ああ。気に入ってくれたなら何よりだ」
清涼な空気を胸一杯に吸い込むと、イヴァンは穏やかな笑みを見せてくれた。
さて、見渡す限りは熟れた果実がいくつもあるようだ。手入れは行き届いているが、虫を取ったり雑草を抜いたりする必要もあるかもしれない。
「それで、私は何をすればいいの?」
いつまでも好意に胡座をかいているわけにはいかない。エルメンガルトとてこうした作業を覚えねばならないのだから、自分だけが逃げるつもりは毛頭なかった。
むしろ恩返しのつもりでバリバリ働きたい。それくらいの気合を込めてイヴァンを見上げれば、意外そうに瞬きされてしまった。
「驚いたな。本気で農作業をするつもりなのか」
「もちろん! 恵みを収穫するだけじゃ、仕事とはいえないわ」
今日のエルネスタは、ルージェナに頼んで軽装を用意してもらっている。
軽い生地のアークリグは裾が短めで、その下にはズボンとブーツ。手袋と手布も用意して、備えは万全だ。
「妙に気合の入った格好をしているとは思ったが……俺としては仕事ではなく、ただ、君と」
イヴァンは何だか微妙な顔をしていたが、不自然に口を噤むと、結局いつもの苦笑を浮かべた。
「いや、そうだな。エリーが望むなら、少し作業をしていこう」
「はい! よろしくお願いします、先生!」
エルネスタは大真面目に、やる気をみなぎらせて返事をした。
しかしその瞬間、高い位置にある美貌が堪え切れないとばかりに吹き出したので、驚いて両目を丸くする。
「……っはは! 俺が、先生? それは初めて言われた。新鮮な響きだ」
それはとても軽快な笑い声だった。
初めて目にするその表情に、エルネスタは性懲りも無く鼓動を速めた。また彼の一面を知れたことが嬉しい。やっぱりこれくらい笑っていた方が親しみやすいし、何よりその精悍な顔立ちによく似合っている。
エルネスタは甘い苦しみを訴える胸を無視して、意地の悪い笑みを浮かべた。
「イヴァン先生?」
「……! やめろ、面白いから」
イヴァンは腹でも抱え始めそうな勢いだ。本当に楽しそうに笑う彼を見ていると、こちらまで胸が温かくなってきて、エルネスタも声を上げて笑った。
こうして笑っていてくれたらいい。この先も、ずっと。
エルネスタは雑草の小山を前に満足げだった。手袋の土を払いつつイヴァンの方へと歩いていくと、彼もまた芋畑の雑草取りをしている。
なんだか大きな背中を丸くしている様が可愛らしい。失礼にも程がある考えに頭を左右に振ったエルネスタは、ふと広い肩に芋虫が乗っているのに気付いてしまった。
「あ、芋虫」
山歩きに慣れた体が勝手に動き、気付いた時には芋虫をつまんで放り投げていた。あまりにもがさつな行いだと気付いたのは、イヴァンの目が驚きに見開かれてからのことだった。
「君はつくづく変わっているな。女には虫が苦手な者が多いだろう」
「その……あ、あはは! なぜか昔から平気なのよね!」
今まで犯した中では一番「姫君らしくない」失態だ。エルネスタは作業による火照りも虚しく顔を蒼白にして、苦しすぎる言い訳を連ねていく。
「だって、害があるものでもないもの! さすがにムカデとか、毛虫とかは駄目よ? でも、ここで生きているんだし、連れて帰ったらかわいそうじゃない⁉︎」
自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。いや、一応本心ではあったのだが、わざわざ今言うべきことではない気がする。
混迷する思考のせいで目眩すら感じ始めたその時。まるで励ましているかのように、イヴァンの口元が弧を描いた。
「確かにな。虫にだって家があるだろう」
馬鹿みたいなことを言った自覚はあった。それなのに、イヴァンはあっさりと肯定してくれる。
やっぱり彼はどこまでも優しい。そんな風に優しくされると、蓋をしたはずの気持ちが顔を出しそうになる。
「そろそろ終わりにしよう。最後に果物を食べていくか」
イヴァンは立ち上がって膝についた土を払っている。視線がそらされた隙を狙い、エルネスタは土に冷えた手を頬に当てておくことにした。
一番見晴らしの良い場所で、収穫した果物を頂くことになった。
辿り着いたのはガゼボで、心地よい風が吹いて周囲の草木を揺らしていた。素晴らしい景色も相まって、とても清々しい気分だ。
木製のベンチに二人して座り、道中でもいだアプリコットを手に取る。エルネスタは王城から持ってきた籠からナイフを取り出し、皮を剥き始めた。
イヴァンは適当に手で剥いて噛り付いている。やっぱりこういうところは王族と言うよりは狼っぽい。
「なんだ、虫は平気な割に皮はナイフで剥くのか」
「その二つは直接関係ないじゃない。意地悪ね」
エルネスタは赤くなって反論しつつ、するすると皮を剥いていった。女としての面目はだいぶ前から丸つぶれな気がするが、自分のためにもできることくらいは抑えたい。
「……上手いものだな」
「そう? 普通だと思うわ」
なんだろう、手元にイヴァンの物言いたげな視線を感じる。そんなに見られるとやりにくいのだが、何かおかしなことをしただろうか。
エルネスタは緊張しつつも八等分にして、皿の上に並べてみる。フォークで刺して口に含むと、程よい酸味とみずみずしい甘みが口の中一杯に広がった。
「美味しい!」
これはいくらでもいける美味しさだ。作業に疲れた体に滋養が沁み渡り、腹の底から元気が湧いてくる。
「本当に美味しいわ。シェンカに来てから、どんなものも美味しい」
「そうか、良かった」
イヴァンは短く言った。それはいつもの微笑みのようでいて、瞳にどこか物憂げな色が浮かんでいるようにも見える。
「エリー。俺に何か相談したいことはないか」
心臓が飛び出そうなほどに脈を打った。
エルネスタが何も言えないでいると、静かな声が次の言葉を紡ぎ始める。
「心配事や、悩み事でもいい。絶対に悪いようにはしないし、君を悲しませないと約束する。だから何かあるなら俺に話せ」
まっすぐな藍色に射すくめられて、エルネスタは息を詰めた。
彼はどうしてそんなことを聞くのだろう。どうしてこんなにも誠実な瞳で見つめるのだろう。
「どうしたの、イヴァン。私、何か不安そうに見えた?」
エルネスタはできうる限り溌剌と笑った。彼の意図がわからないからこそ、何も知らないふりをしなければならなかった。
「そんなもの一つもないわ。私ね、毎日凄く幸せ。皆に良くしてもらっているし、何より貴方は私を心から気遣ってくれているもの」
イヴァンは何かに勘付いているのだろうか。
だとしたらそれはどこまで?
もしかするとこの場で問い質される?
エルネスタは絶望感に身を縮めた。しかし返ってきたのは、この一ヶ月間でも見たことのない、擦り切れたような微笑みだった。
「……そうか。それならいい」
彼を落胆させてしまったことは、すぐに察することができた。
やはりイヴァンは何かを感じ取っている。
投獄されないということは答えは得ていない筈だ。つまり彼はエルネスタの苦しみを感じて、助けようとしてくれたのか。
だとしたら先程の返答は、彼を拒絶する意味を伴っている。
謝らなければと咄嗟に思った。しかしそんなことをしたら嘘を認めるようなものだと気付いて、開いた口を再び閉じる。
永遠のような静寂は、感じたよりも短い時間で打ち破られた。丘の下から国王付きの侍従が駆け上がってきたのである。
イヴァンは一度の瞬きで視線を鋭くした。その表情は既にこの国の頂点としての威厳を備えていて、エルネスタは話をする機会を失ったことを悟る。
「ご歓談中失礼致します! 国王陛下と王妃殿下に、おかれましては、本日も……」
「前置きはいい。話せ」
息切れをする侍従の挨拶を遮って、イヴァンは厳しい声で言う。
「は! 先程バジャント領より伝令が到着! リュートラビアが国境に兵を集結させつつあるとのことです!」
その瞬間、エルネスタはイヴァンが無表情のまま拳を握りしめるのをただ眺めていた。
後悔は先に立たず、時が経つのはいつだって必然だ。
そんなことは解っていた筈だったのに。どうして現実を見ないまま役目を終える事ができるのだと、愚かにも思い込んでいたのだろう。




