雷鳴の孤独
イヴァンの言うことによれば、もう殆ど怪我は治ったので明日から仕事に完全復帰することにしたらしい。
しかし包帯を換える役目を担っていたエルネスタは、未だ完治していないことをよく知っている。しかしそれを指摘しても聞く耳を持ってもらえず、話はうやむやになってしまった。
そしてお互いに入浴を終えた今、エルネスタは恒例の手当を行なっている。
場所は国王夫妻の寝室、その絨毯の上だ。最後の包帯を巻き終えて、エルネスタはそっと息を吐いた。
「はい、終わり」
イヴァンは礼を言いながら寝巻きの合わせを直している。近頃は包帯の量も減って、しなやかな筋肉を意識するようになっていたので、それが隠されたことはエルネスタにとって有難いことだった。
「もう寝るか。良い時間だ」
「ええ、そうね」
イヴァンは先んじて立ち上がり、エルネスタに向かって手を差し出してきた。近頃はこうした扱いをしてくれるのだが、男性からの気遣いに慣れていない身としてはなんだかくすぐったい。
硬い掌に自らのそれを重ねると軽い力で立つことができた。エルネスタは礼を言ったが、イヴァンはなんでもないことだと微笑むばかりだ。
挨拶を交わしてすぐに寝台に潜り込む。遠い背中を安堵したような寂しいような気持ちで眺めながら、そっと目を閉じた。
*
エルネスタはコンラートの手を引いて歩いていた。弟は五歳程度の年齢に逆戻りしていて、柔らかい手を握る自身のそれも小さい。
「泣かないのよコンラート。もう大丈夫だから」
「うっ、うっ……! だってえ!」
コンラートは今でこそ小生意気になったけれど、この頃は素直で可愛かった。そうだ、これは弟がいじめられていたところを助けた、その帰り道の記憶だ。
エルネスタは暴力で返したりはしない。いじめっ子たちも説得したら虐めるのをやめてくれたので、本来は心根の優しい少年なのだろう。
「あなたもしっかりするのがだいじなのよ。自信をもってどうどうとするの」
「できないよ。こわいんだもん」
「できるわ、私が守ってあげるから。私にはこわいものなんてなーんにもないのよ」
「……ほんと?」
「うん! やくそくね」
「うん、やくそく。ぼく泣かない!」
エルネスタが明るく笑って見せると、コンラートもまた涙を拭い、元の笑顔を浮かべるのだった。
しかしその日の夜のこと。眠りにつこうとベッドに入ったエルネスタは、微かな音に目を開いた。
雷だ。まだ遠いようだし、気にすることはない。
幼い頃のエルネスタにとって、雷は怖いものではなかった。ただ音が鳴って光って、いつしか通り過ぎるだけ。
再び目を閉じたエルネスタだが、その日の雷は一味違った。徐々に近付いてきたかと思ったら、ついに家を震わす程の爆音を轟かせたのだ。
思わず体を硬直させてしまう。こんなに大きな雷は初めてだ。
一人で眠る部屋が光に照らし出され、同時に雷鳴が静寂を裂いた。エルネスタは今度こそ竦み上がって、耳を両手で塞いで硬く目を瞑る。
ーーこわい、こわい。家に落ちたらどうしよう。父さんと母さんのところに行こうかな。
そこまで考えた時、微かな泣き声が聞こえてきた。
弟が泣き出した声だと理解して、ベッドを飛び降りようとしていた足が動かなくなる。
そうだ、昼間に怖いものなんて無いと言っておいて、コンラートに情けない姿を見せるわけにはいかない。怯える姉を見たら、きっと弟は酷い恐怖に苛まれてしまうだろう。
それに今頃はイゾルテとブルーノも起き出して、幼い息子を宥めているに違いない。本当の娘でないエルネスタには、そこに割って入る権利などないのだ。
エルネスタは両手で耳を塞ぎ布団をかぶって丸くなった。ぬるい暗闇の中で震える体を押さえつけるが、少しも安堵を得ることができない。固く閉ざした目から溢れる涙もそのままに、雷雲が通り過ぎるまでの長い時間を過ごす。
その日から雷は孤独の象徴となり、忘れられない恐怖心が頭の片隅に刻まれることとなった。
*
その音が聞こえたことが、夢なのか現実なのか判断がつかなかった。
エルネスタはすっかり意識を覚醒させて、心拍数を増す心臓を抑えながら耳をすます。勘違いだと思いたかったが、先程よりもはっきりとその音を聞いて体を強張らせた。
今の夢は現実の雷鳴を聞いてのものだったのだろうか。音の小ささから察するにまだ遠いものの、聞こえているだけで駄目なのだ。エルネスタにとって、雷だけはこの世の何をおいても恐ろしいものだった。
体が勝手に震え出す。手が無意識に耳を塞いだが、そんなことでこの恐怖心が薄らぐことはない。
窓の向こうは雨模様で、雷光がその景色を照らし出したのを見てぎゅっと目を瞑った。
「エリー、起きているのか」
エルネスタは頭の中が恐怖で一杯になっていたので、後ろからそっと声をかけられた瞬間に思い切り肩を跳ねさせてしまった。
「すまない、驚かせた。どうしたんだ」
すっかり硬直した体は言うことを聞いてくれなかった。背を向けたまま口を開こうとしないエルネスタに、イヴァンは焦燥を覚えたらしい。
「……震えているのか⁉︎」
背後で寝台の軋む音が発して、次いで空気の揺れる気配があった。恐る恐る目を開けると、端正な顔が覆い被さるようにしてこちらを覗き込んでいる。
「もしかして、雷が怖いのか」
図星を指されてしまって、エルネスタはますます体を強張らせた。
いい大人なのだから、エルメンガルトは雷なんて物ともしないに決まっている。だから絶対に頷くわけにはいかない。
しかしその時、全ての思考を打ち払うような雷鳴が轟いたので、エルネスタは再び目を瞑って体を丸くしてしまった。
「いやぁっ……!」
その悲鳴は思ったよりも掠れて弱々しく聞こえた。喉がからからになっていて、息を吸うと痛みすら感じる。
ーー怖い。お願い、お願い、早く通り過ぎて……!
祈りのように念じた時のことだった。体の向きが180度反転したと思ったら、エルネスタは次の瞬間には温かい腕の中にいた。
「大丈夫だ……大丈夫。そのまま耳を塞いでいるといい。目は俺が引き受けるから」
後頭部に大きな掌が添えられて、顔が硬い胸に密着した。瞼の裏側まで照らしていたはずの光は消え去り、体から直に響く低い声だけが世界の全てになる。腰に回された腕は力強く、押し包む体温はどこまでも心地良い。
駄目だ、否定しないと。驚いただけだと言って、笑って見せなければ。
そうと解っているのに、体が勝手に強張りを解いていく。こんな時でも素直な反応を示す自身の心に、エルネスタは途方に暮れた。
「何も心配はいらない、雷なんてここには届かないんだ。何せ人狼族の方が雷より強いからな」
イヴァンは真面目に言っているようで、その内容は冗談めいていた。髪を梳く手付きは胸が詰まるほど優しく、反比例するように目の端に雫が盛り上がる。
「君が眠るまでこうしていてやる。少しは安心してくれるか?」
このひとの優しさをどれ程利用してきたのだろう。
それなのに今、エルネスタはまたしても縋ろうとしている。自身の浅ましさに吐き気がしそうだというのに、どうしようもない程の安堵をこの体温に見出してしまう。
「……うん。すごく、ほっとする」
エルネスタはようやくそれだけを呟いた。また雷が轟音を響かせたが、もう先程の心細さは無くなっていた。
それからは短いような長いような時を過ごした。いつしか雷雲は通り過ぎて行き、その頃には再び眠りにつくことができたのだった。
***
眠れない。惚れた女が腕の中にいるのに、簡単に眠れるはずがない。
イヴァンは嘆息して穏やかな寝顔をじっと見つめた。先ほどまでは酷く震えていた体も、今は規則正しい鼓動を刻んでいる。
涙の跡が痛ましい。白く薄い肌だ。己などが触れれば、その場で壊れてしまいそうな程に。
ーー守りたいのに、どうにも上手くいかないな。
この人のことを何も知らないのだと、今更のように思い知らされた。
寝台の隅で震えていた小さな背中。これ程までに雷が苦手でも、彼女は頑として夫を頼ろうとしなかった。
一言声をかけてくれたなら、もっと早く気付くことができたのに。すぐにでもこの腕の中に抱きしめて、一人で震えさせはしなかったのに。
好きも嫌いも口にせず、素直なくせにどこか霞のような印象のある人。ここまで雷を嫌うには理由がありそうなものだが、それを尋ねることが果たして許されるのだろうか。
イヴァンはもう一度嘆息して、今度は柔らかい苦笑を浮かべた。
そろそろ聞いてみるべきなのだ。この寝顔を守りたいと願うのならば。




