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練兵場へ行こう

 エルネスタは今日も今日とて朝からイヴァンの包帯を取り替えるつもりだった。しかし国王の部屋に入ったところで、信じられない光景を目の当たりにすることになる。


 昨日まで部屋の主が横たわっていたはずの寝台は、もぬけの殻となっていたのだ。


 エルネスタはにわかに部屋を飛び出した。

 確かにイヴァンは昨日には随分元気そうにしていたし、もう治ったなどとうそぶいてもいたが、まだヤロミールの指定した二週間は過ぎていない。もう少しの間は安静にしていなければならないはずなのに。

 当てもなく廊下を走っていると、前方に見知った背中を見つけて、エルネスタは足を早めた。


「ルージェナ、大変! 陛下がいらっしゃらないの、何か知らない?」


 こちらを振り返ったルージェナはいつもの無表情ではなかった。至極残念そうに顔をしかめた彼女は、やれやれとばかりに首を振って見せる。


「先程練兵場に行かれましたわ。いくらお止めしても聞いて下さらず」


「練兵場……⁉︎」


 エルネスタは顔色を失った。体を動かすことが主目的の施設に対して、怪我人が何の用事があるというのか。


「わ、私、様子を見てくるわ!」


 再度走り出したエルネスタは、背後で鋼鉄の侍女長が優しい笑みを浮かべていることなど、知る由もなかった。




 練兵場は王城の裏手に広大な敷地を有している。王都ラシュトフカの駐屯兵力はかなりの規模があり、所属する者なら誰でも利用することができるため、平民から貴族まで様々な者が入り乱れて訓練を行うのだ。


 エルネスタは特に用がないので訪れたことがなかったが、側を通りがかるといつも活気に溢れた声が聞こえてくることは知っていた。今日は射撃の訓練をしているようで、長大な壁の向こうからは銃声が轟いている。


 礼を取る衛兵に心の中で恐縮しつつ、エルネスタは練兵場へと足を踏み入れた。

 そこはだだっ広い運動場のような空間で、木刀の束や打ち込み稽古用の丸太、もはや何に使うのかよくわからない様々な器具が並んでいる。そこで各自鍛錬に励む人狼達は、エルネスタを物珍しそうに見つめていて、少し居心地の悪い思いがした。


 衛兵の一人によって壁で区切られた区画に案内される。分厚く高い壁が途切れたところから顔を出すと、そこは射撃訓練所であり、遠くにずらりと的が並べられていた。


 それに相対するように横一列になった人狼たちの中、一際目立つ金色を発見する。全員が後ろ姿なので顔は見えないものの、イヴァンであることはすぐにわかった。

 彼らは見たこともない程巨大なマスケット銃を構えていた。人狼の膂力ならば、ここまで大きな銃の反動にも耐えうるということなのだろう。


 それにしても怪我を負ったイヴァンが心配で見に来たはずなのに、場を支配する緊張感のせいで動けない。

 端に待機する男が号令をかけた瞬間、銃口が一斉に火を吹いた。


 それは凄まじい轟音だった。壁を隔てて聞いた時とは違う、風圧すら感じるほどの音が通り抜けていって、エルネスタは身を竦ませた。


 すごい迫力だ。実際の戦場は、いったいどれほど恐ろしいところなのだろう。

 イヴァンは相変わらずこちらに気付いておらず、視線の先の的は中央だけに穴が集中している。あちこちから驚嘆のため息が上がって、射撃場の空気がざわりと揺れた。


「全弾命中か。さすがは陛下だ」


「剣だけでなく銃の扱いもお手のものでいらっしゃる。頼もしい限りよ」


「しかし、なぜ陛下が撃っておられるんだ? 普通は号令をかける側だろう」


「よくわからんが、雑念を払って集中したいのだそうだ」


 近くで訓練を見物していた高官と思しき戦士二人が、そんなことを噂している。声をかけてみようかと足を踏み出したら、彼らの方が先に気付いて裂けた口をあんぐりと開けた。


「王妃様⁉︎ なぜこのようなむさ苦しいところへ?」


 その途端に、先程の比ではない程の騒めきが射撃場内に広がった。訓練中の面々も的から視線を外し、驚きの眼差しを王妃へと向けてくる。

 どうしよう、彼らの邪魔をしてしまった。そんなつもりはなかったのに……!


「訓練の見学においでですか? いやあ、嬉しいですなあ」


「兵たちにとっては何よりの励みになりますよ。さあ、こちらへどうぞ」


 手で示された先にある木椅子を、一人の戦士が慌てて掃除している。王妃の登場によって明らかに場内の空気が変わってしまったようだ。


「い、いいえ……! 私は、少し顔を出しただけで!」


「そう仰らずに。さあさあ」


 エルネスタは狼狽するままに首を横に振ったが、嬉しそうに顔を綻ばせた戦士は引く気配がない。その間にも近くにいた人狼達が集まって来て、エルネスタは焦燥を募らせる羽目になった。


「わあ、本物だ!」


「可愛い方だなー」


「陛下を見にいらしたんで?」


「訓練中の陛下は俺たちから見てもかっこいいんで、おすすめっすよ」


 どうやら言葉遣いから察するに、彼らは平民出身の戦士らしい。突然の事態に狼狽えるあまりに、もはや何を言われているのかわからなくなったあたりで、鋭い号令が場内の空気を裂いた。


「整列!」


 それはこの場にいる全戦士に向けてのものだったらしい。彼らは一斉に駆け出したと思ったら、一糸乱れぬ動きで整列してみせた。エルネスタは彼らの前に立つのがイヴァンであることに気付いて、先程の号令は彼が放ったものであることをようやく悟る。


「大概懲りない連中だな。この俺の前で余所事に現を抜かすとは、その度胸だけは買ってやってもいい」


 イヴァンは狼の顔に明らかな怒気を宿していた。竦み上がった男たちの中で、一人だけ飄々とした笑みを浮かべた人狼が口を開く。


「いやでも陛下、今のは流石にしょうがなーー」


「黙れ、ヤーミル。戦場で言い訳が通用すると思うのか? 練兵場100周に素振り1000本、昼食までに終えられなければ倍にして追加だ。行け!」


 戦士達は命令が下されるや否や、一斉に駆け出した。全員が壁の向こうに消えた段階になって、エルネスタは自らがしでかしたことの重大さに気付いて青ざめる。

 訓練を邪魔したばかりか、戦士達に要らぬ罰則を与える要因になってしまった。謝ろうと思っても罪悪感に喉が詰まって声が出てこない。


 二人きりになった射撃場は、戦士達が周回する足音を除けば静寂に包まれている。イヴァンはエルネスタの元に歩み寄りながらも人間の姿になって、目の前に立つと同時に肩を掴んできた。


「何もされていないな⁉︎」


 切羽詰まったように問われた意味がわからず、エルネスタは瞬きを繰り返した。

 しかし王妃の呆けぶりと反比例するように、イヴァンはますます焦りを募らせていく。


「あいつらは垣根が無いんだ。無理に会話に引き入れられたり、無礼なことを言われたり、遠慮なく肩を組まれたり、そういうことはなかっただろうな」


「ええ、なかったけど……?」


 何も考えずに事実だけで頷くと、イヴァンはあからさまな溜息をついた。

 何故そんなことを聞くのだろうか。それくらいなら彼が気にすることでも無いと思うのだが。


「いいか、これからは練兵場に来るならダシャかルージェナを連れてこい。ここは君みたいな女がふらっと立ち寄っていいところじゃないんだ」


「はい。邪魔をしてしまってごめんなさい……」


 エルネスタは自らの軽率な行いを恥じて肩を落とした。

 心配するあまりに国王の仕事の邪魔をしているようでは話にならない。本当の王妃ならそれも良いかもしれないが、自分にはそんな資格などないのだから。

 しかしエルネスタが素直に謝ると、何故だかイヴァンはその表情に更なる焦りを滲ませた。


「そうじゃない! 邪魔だとか、そんな話ではなく……危ないから気をつけて欲しいと言っているんだ」


 確かに言われた通りだ。ここには銃も置かれている事だし、素人が気軽に入り込んでいい場所ではないのだろう。


「そうよね、ごめんなさい。これからは気をつけるわ」


「……あまりわかっていない気がする」


 力強く頷いたのに、イヴァンは何故だか困ったような顔をしていた。エルネスタは彼に余計な面倒をかけてしまったことを申し訳なく思った。


「私のせいで練兵場100周に、素振り1000回だなんて」


 改めて口に出してみるととんでもない数字である。しかしイヴァンはしれっとしており、何ら特別なこととは思っていないようだ。


「それなら、罰則としては生温いくらいだがな。そもそも訓練中に気を散らしたあいつらが悪いんだ、君のせいじゃない」

 

 そういうものだろうか。エルネスタは釈然としなかったが、その話はそのまま終わりとなった。


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