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今はされど遠く 3

 その後は何とかヨハンと合流することに成功した。

 友人は自力で歩くイヴァンを見て驚いたが、やれやれとばかりにため息をついただけで何も聞かなかった。


 そして次の街で人狼の姿に戻った時、荷物の中に見覚えのないハンカチを発見する。

 イヴァンはそれを手にとって眺めてみた。血の跡が残って無残な有様ではあるが、そのハンカチは藍色に染めて星の刺繍を施してあり、いかにもあの少女が作りそうな品物だった。どうやら道中で手当てをし直した際に、まめなヨハンが洗って入れておいてくれたらしい。


 それを見ていると、不思議なことに久しぶりの笑みが浮かんでくる。


 次にブラルを訪れる時は彼女を探そう。礼くらい言わなければ人狼の戦士の名が廃る。顔も判然としないのだから難しいだろうが、ヴァイスベルクに住んでいる可能性が高いし何とかなるかもしれない。


 そう、イヴァンの折れかけた心は見ず知らずの少女によって添え木をされ、ハンカチで縛り上げられてしまったのだ。


 王城に着くと臣下たちは全員が無事に帰還していて、王子の帰りを今か今かと待ち構えていた。反対派はその場で討ち取られたとのことで、感じた胸の痛みも無視を決め込んだ。


 父王が崩御したのはそのすぐ後。

 イヴァンは王となり、再びブラルを訪問するのは自身の結婚話が出てからのこととなる。



 ***



 話が終わるのと手当てが終わるのはほぼ同時だった。

 エルネスタは今、不自然な動作にならないよう気を付けながら、塗り薬や包帯の余りを片付けている。


 これは現実なのだろうか。


 既視感の正体に気付いたのは昨日のことだ。尋ねたいと思いつつも飲み込んだ問いの答えを得て、胸の中で徐々に実感が形作られていく。


「その時気付いたことがもう一つあってな。俺は本当は、人間を知りたかったんだ」


「知りたかった……?」


「ああ。俺の同胞は化物などではないと解って欲しかった。友だと思っていた子供に手を振り払われたあの日から、心のどこかでもう一度人と対等に話がしたいと思っていた。だがそれは俺個人の理想で、政治の場に持ち出すわけにはいかない。たまたま方向性が一致したから、表に出てこないように押し留めるのには苦労した。いつのまにかそれに慣れきって、君に会うまではそう思っていたことも忘れていたがな」


 静かに微笑むイヴァンに、エルネスタは黙して頷くことしかできなかった。

 そうだ、このひとは優しい上にとても強いひと。幾度となく人間に裏切られながら、それでも人との対話を望む。それなのに自分の感情を封じ込めて、国と民のことばかりを考えて。


「結局、その娘に礼を言うことはできなかった。八年ぶりの訪問のとき、ヴァイスベルクに立ち寄って探してはみたんだが、数少ない手掛かりでは見つからなくてな」


 イヴァンは静かに言ったが、その目は後悔に揺れているように見えた。彼ほどの律儀者なら、礼を言えなかったことは、きっと大きなわだかまりとなっていることだろう。


「そういえばその時のハンカチがとってある。決意が鈍ったら眺めようと思って……結局、娘を探した時以外は取り出さなかった」


「見てみたいわ」


 エルネスタは焦燥感を表に出さないように細心の注意を払って言った。それでも様子がおかしいことは伝わったようで、イヴァンは訝しげに首を傾げている。


「そのハンカチ、見てみたいの。私でよければ探してくるから」


 まっすぐに藍色の瞳を見つめて言うと、彼はすぐに頷いてくれた。


「そうだな。チェストの一番下の引き出しに入っている筈だ。探してくれるか」


 エルネスタは頷くだけに留めて立ち上がった。鼓動が主張を強くして、耳鳴りすら聞こえてくるようだ。右手と右足を同時に出してしまってもおかしくないくらいに緊張している。


 チェストは壁際にあった。エルネスタは震える手で一番下の引き出しを開く。

 そこには細々としたものが納められていて、その様相は思っていたよりも適当だった。室内は片付いているものの、彼はどうやら細かいことは気にしない性格らしい。


 そしてその品物たちの奥、繊細な木彫が施された小箱を発見する。もうこの中以外に心当たりはなく、まさかと思いながら蓋を開ける。


 そうして、エルネスタは八年ぶりにお気に入りのハンカチとの再会を果たした。

 藍色が所々黒く汚れている。しかし星の刺繍の下手さ加減はどうみても自分の手でしかなく、目の当たりにした事実に視界が歪む。


 イヴァンが以前言っていたことが思い出された。恩人と呼べる人がいること。その者に苦しい時は星を数えるのだと教わったこと。


 だめだ、泣いてはいけない。早くこのハンカチを持って、イヴァンの元に戻らなければ。

 エルネスタは歯を食いしばって衝動に耐え、木箱ごとイヴァンに渡した。彼はやわらかい笑みを浮かべて受け取ると、中身を取り出して広げて見せた。


「ああ……懐かしいな」


 温かな声が胸を突く。

 十分だ、とエルネスタは思った。


 幼い頃の些細な行動が、この優しすぎる国王陛下を支えるに至っていた。今の自分にはできないことを、かつての自分が行なっていたのだ。


 イヴァンは人間の少女の親切を胸に、人と関わることを諦めないでいてくれた。苦しい道を歩んで傷だらけになりながらも、後ろを振り向かずに進み続けてくれた。

 時には見上げた星空へと苦しみを溶かしながら。


 ーー神さま、ありがとう。私には十分すぎるほどの幸せです。


 何も伝わらなくてもいい。ほんの少しでも彼の助けになれたのなら、咎人であるエルネスタには過分なほどの僥倖だ。


「貴方が無事でよかった。とても、素敵な話ね」







 ***



 絵を描くために必要なものは、一番は集中力だと思う。

 目の前の草花の色を感じて、それを表現するための絵の具を選び取る。混ぜる。思うまま画面に乗せる。絵の中では何もかもが自由で、だからこそ女は絵を愛していた。


 うまく集中できると何も聞こえなくなる。周囲の会話も、遠巻きな視線も、油の匂いも、そして自分の心の葛藤すらも。全てが過ぎ去った思い出のように遠い存在になった瞬間が、一番いい状態だ。


 まさに今がその時。無心で筆を動かす女の視界には、麗らかな農村の風景と、自らのキャンバスしか映っていない。


「エルメンガルト様ですね?」


 久方ぶりに名前を呼ばれた。

 集中の沼から浮上するのに幾ばくかの時間を要した。エルメンガルトはようやく状況に思い至って、その整った顔に優美な笑みを浮かべる。


「やあ。見つかってしまったか」


 振り返ると、そこには見覚えのある男がいた。今は甲冑を纏っていないので誰かと思ったが、間違いなく近衛騎士の一人だ。


「残念だ。せっかくいい調子だったのに」


 招かれざる客が来たからには、この場所には二度と戻れない。記憶で描くつもりなどないからこの絵は未完で終わることになるだろう。


 出奔した姫君がお縄になるという重大な場面の割に、エルメンガルトは泰然とした様子で絵の具を片付け始める。近衛騎士は呆気に取られているようで、戸惑うような視線を向けて来た。


「さて、行こうか。皇帝陛下と皇后陛下はお元気かな?」


 エルメンガルトは荷物を担いで立ち上がった。それは深層の姫君を名乗るには、あまりにも画家として馴染んだ姿だった。






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