かの国王との出逢い 2
シェンカの王都は山間部に位置しており、この季節はブラルよりも随分か過ごしやすい。とはいえ丈長の衣装を纏っていればそれなりに暑く感じるものだが、今のエルネスタは緊張するあまりに汗をかく方法すら忘れてしまっていた。
集中だ。今こそ持ち前の度胸が試される時なのだから、しっかり務め上げなければならない。
エルネスタは再度気合を入れて、胸を張って前を見据える。
重厚なレリーフが施された扉が開け放たれた先は、おとぎ話で目にするような大広間だった。
城の一番重要であろう場所にふさわしく、天井は吹き抜けになっており、異国情緒あふれる細工が全面にほどこされている。
大勢の貴族がその下に待ち構えており、彼らはこの国の文化に従って絨毯に直接腰を据えていた。エルネスタが現れるや皆一様に静まり返るのだから、場の緊張も極限に達しようというものだ。
値踏みする視線が全身を刺し貫くのを感じて手に汗が滲む。
唯一の味方であるエンゲバーグは今は後ろを付いてくるだけで、何かヘマをやらかしても彼の助けは期待できない。
エルネスタは静々と歩いた。残念ながらできるだけ優雅に見えるようにと気遣う余裕はなく、それは広間の最奥でゆったりと胡座をかく一人の男のせいだった。
男はチョハと呼ばれる丈長の衣装と革のブーツを身に纏っていた。
色は英雄のみに纏うことが許される黒で、繊細な金の刺繍が施されており、決して派手ではないのに彼の存在感を増幅させるようだ。胸には弾帯があしらわれ、腰には短刀が吊り下げられたその姿は、古くは狩猟民族として栄えた人狼族の長に相応しい。
窓から差し込む日光を受けて輝くのは金色の髪。前髪の下には意志の強そうな藍色の瞳があって、己の花嫁になる女をしかと見据えている。歳はたしか二十八。すっと通った鼻筋に、程よい厚みのある唇は真一文字を描く。
この美しい男こそが、この国の国王であるイヴァン・レオポルト・ウルバーシェクである事は、一目見た時から判っていた。
目を奪われているうちにいつのまにか王の前に到着してしまった。幸いにも体は勝手に動いて、シェンカ式の礼を取る。
「楽に」
声をかけられたので顔を上げると、国王もまた立ち上がってこちらを見下ろしていた。
随分と背が高く、厚みのある戦士らしい身体付きをしている。その堂々たる立ち姿には気圧されずにはいられなかったが、エルネスタは後ずさりをしないよう踏ん張ることに成功した。
「お初にお目にかかります、陛下。私はエルメンガルト・ヘラ・バルゼンにございます。今後ともどうぞお側にあることをお許しくださいますようお願い申し上げます」
「遠いところまでようこそ、姫君。貴女には苦労をかけることと思うが、今後ともよろしくお願いする」
なんとか言い切った安堵感は、事務的としか言いようのない返答にかき消された。
男らしい美貌は何の感情も語ることはなく、差し出された手は手袋に包まれて温度を感じない。形式だけの握手が済むと広間に拍手が巻き起こって、最初の難関を切り抜けたらしい事をエルネスタに伝えた。
しかしそれでも、胸の内に渦巻く不安は大きさを増していく。
こんなにも立派な一国の主を騙すという罪悪感。
そして何よりも、彼と近しい関係にならなければならないという、その使命の難しさを感じずにはいられない。
何でも見透かしてしまいそうな、深い色をした美しい瞳。まるで夜空のような。
ーー誰かに、似てる?
何の脈絡もなくそう思ってしまって、エルネスタは自らの思考を慌てて閉ざした。
意味のない事を考えている場合ではない。今はただ、失敗がないようにこの場を辞さなければ。
エルネスタは微笑んだが、イヴァンは驚くほど何の反応も返してはくれなかった。それは「冷酷な人狼王」という評判に似つかわしい、冷たくも堂々とした態度だった。
謁見は本当に挨拶だけで終わり、エルネスタはあっさりと大広間を脱出することができた。
「エルメンガルト様、ご立派でございましたな」
「……エンゲバーグ伯爵、ありがとう」
エンゲバーグが労いの言葉をかけてくれたが、聞き慣れない呼び名に一瞬反応が遅れる。
シェンカの王城に辿り着いたのはつい先程のこと。その瞬間から彼はエルネスタをエルメンガルトと呼ぶようになったのだが、こちらはそう簡単に慣れるものでもない。
周囲の者は特に気にも留めないほどの小さな間ではあったが、こんな調子では先が思いやられる。
「結婚式は明日ですからな。今日はごゆっくりなさいませ」
「ええ、そうします。エンゲバーグ伯爵もね」
こういう時、本当の姫君はなんと言うのだろうか。「ご苦労だったわね、下がりなさい」とかそんなところだろうか。
だとしたらエルネスタにはとても難しい振る舞いだ。エンゲバーグのような目上の者相手に、そんな横柄な態度が取れるはずがない。
エンゲバーグは微かに苦笑を漏らしたものの、当然ながら何も言うことはなかった。
エルネスタは今日から王妃の間で生活することになっている。紺のお仕着せを纏った二人の侍女の案内を受けて大人しく付いていくと、辿り着いたのは美しく整えられた部屋だった。
臙脂色と木目調で統一された室内は、まず第一に落ち着く事を前提に設えられているように見えた。
この部屋もまたこちらの文化圏の要素をふんだんに盛り込んでいて、暖炉のすぐそばには華やかな意匠の絨毯が敷かれ、すぐ上にクッションが三つばかり置いてある。カーテンはタッセル付きのロープで括り、寝台の側には刺繍入りの衝立が置かれ、家具調度品に施された彫刻は繊細で美しい。
そのどれもが乙女心をくすぐるもので、エルネスタは立場も忘れて感動してしまった。
「素敵な部屋……」
エルネスタにとっては実家の自室の十倍もあるこの部屋は勿体無いばかりだけれど、きっと世の中の姫君ならば何のためらいもなく気に入るに違いない。
「エルメンガルト様、改めてご挨拶を。私は侍女長のルージェナでございます。今後貴女様の身の回りの一切を、責任を持って整えさせていただきますので、どうぞお見知り置きくださいませ」
最初に名乗ったのは大広間から先頭切って案内してくれた貴婦人。
おそらくは五十代と思しき侍女長は、冴え冴えとした美貌の持ち主だった。白髪まじりの髪をきつく結い上げ、厳しそうな目つきをして、唇を真一文字に引きむすんでいる。
「だ、ダシャと申します!」
勢いよく頭を下げたのは十五歳ほどと思しき少女。赤銅色の髪を結い上げた侍女は、小柄な体を緊張に固めていた。案の定ルージェナがそれを見咎めて、おほんと大きく咳払いをする。
「ダシャ、その落ち着きのなさはなんです」
「はっ、はいぃ……! し、失礼いたしました、エルメンガルト様! 私が、本日より御身のお世話を仰せつかっております。不束者ですが、どうか寛大なお心でお許しくださいますよう、お願い申し上げます……!」
ものすごく畏まって頭を下げられてしまい、エルネスタは心の中で恐縮した。
このダシャもまた、王妃付きになるのだからさぞ歴史ある名家の令嬢なのだ。本来エルネスタのような平民には見えることさえあり得ない相手だというのに。
「ダシャ、大丈夫よ。私は怒ったりしていないから」
ダシャが恐る恐る顔を上げるのを待って、エルネスタは二人に向かって微笑んで見せる。
「エルメンガルト・ヘラ・バルゼンです。二人とも、これからよろしくお願いしますね」
事前の打ち合わせ通りに挨拶したつもりだったのだが、侍女達の反応はどうしてか鈍かった。
彼女らの間に漂うのは戸惑いだろうか。初対面という状況以上に分厚い壁があるような気がして、エルネスタもまた困惑を覚える。
人狼族と人との間には、思っていたよりも深い溝があるのかもしれない。確信にも似た予感を抱きつつ、出来うる限り優雅に微笑むのだった。