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今はされど遠く 2

「お前たちだけでも、逃げろ。これじゃ……足手まといになる」


 思った以上に掠れた声が唇の端から漏れ出ていく。これは本当に駄目だ。痛みばかりが脳天を突いて、体の上半分が動かせない。


「馬鹿を言わないで下さい、この捨て身殿下! 貴方を置いていくわけないでしょう⁉︎ ほら、逃げますよ!」


 ヨハンはイヴァンの左側に回り込んで肩を支えるようにした。黒い狼の横顔は頑なで、取りつく島もなかった。


「おい、よせ。彼らを、置いては……いけない」


「その彼らに逃げろって言われたんでしょうが。いいからちょっとは黙ってくれ!」


 ヨハンはいつもの敬語をかなぐり捨てて吠えた。できうる限りの速さで足を動かしているようで、イヴァンは付いて行くのが精一杯だ。組んだ肩を解くこともできず、ただされるがままに森の中を進んでいると、だんだん思考回路がぼやけてくる。


「貴方は昔から王子としての自覚が足りていない! 私は貴方の盾だというのに、その盾を庇ってどうする⁉︎」


「お前、その話……確か怒ってただろ、テオに。剣と盾なんて、お前がやれって」


「あいつが死んだから、私がその役目を引き受けてやったんだろう! 知らないのか⁉︎」


「はは……知るか。聞いてないぞ、そんなの」


 さっきは黙れと言っていたのに、ヨハンはあえて話しかけているようだった。そうして走っているうちに、いつしか空には月が登り、星が輝く時間がやってくる。


 辿り着いたのは荒れ果てた空き地だった。どうやら街の外れにあるようで、遠くに人間の喧騒が聞こえる。ヨハンはイヴァンの肩をようやく開放すると、そこにあった大木の陰に隠すようにして座らせた。


「イヴァン、狼の姿になってください」


「……ああ」


 イヴァンは言われた通り狼の姿になった。人狼の姿のままで人間に見つかれば、面倒なことになるのは想像に難くない。


「行方を悟らせないために、服は処分してきます。薬を手に入れてくるので待っていて下さい」


 ヨハンは人の姿に変身しながら早口で述べ、あっという間に闇の中へ消えていった。

 友人の去った空き地には、昼間の猛暑が嘘のような涼やかな風が吹いている。イヴァンは目を閉じて考えに沈み込んでいった。


 臣下たちは無事だろうか。うまく倒すなり、散り散りにでも逃げのびていたら良いのだが。

 この難局を乗り越えて即位したとしても、その時の自分は何を思うだろうか。今まで通り人間の国との同盟を目指し、脇目も振らずに駆けることができるのだろうか。


 なあ、テオ。お前は今も見守ってくれているのか……?


 軽い足音が暗闇に発したのはその時のことだった。


 明らかにヨハンではない。警戒心のかけらも感じさせない足音は、どんどんこちらへと近付いてくる。イヴァンは頭を上げてその足音の主を待ち構えた。


 そうして姿を現したのは、一人の人間の少女だった。


 少女はイヴァンを見るなり驚きに足を止めたようだった。狼の目は視力が悪く判然としないが、だいたい十歳くらいだろうか。長い髪をお下げに結って、ワンピース姿に薬草籠を背負っている。


「狼さん。あなた、怪我をしてるの……?」


 驚くべきことに、少女は一歩を踏み出してきた。

 何を考えているんだこの娘は。野生の狼に人間が出くわしたら、怪我じゃすまないというのに。

 イヴァンは警戒をみなぎらせ、追い払う意味を込めて腹の底から唸り声を上げた。


「怖がらないで。私はあなたの手当てをしたいだけよ。お願い、絶対に酷いことはしないから。ほら、お水と薬草よ。ちょうど持っていて良かったわ」


 しかしその少女はめげなかった。唸りを上げる狼にまた一歩近づいて、薬草と革の水筒まで見せてくる。

 まさか本当に手当てをする気なのか。イヴァンは虚を突かれて、つい唸り声を収めてしまった。


「これが何なのかわかるの? あなた、賢いのね。偉いわ」


 少女は図々しくも金の毛並みの頭を撫でてきたばかりか、イヴァンに向けて偉いなどと言い放って見せた。この程度で少々気分を害したあたり、この王子もまだまだ成長途中なのである。


「あら、偉いなんて失礼な言い方だったわね。狼さんは、とっても勇敢で賢い生き物だもの」


 今度は首のあたりを撫でられてしまう。親以外に撫でられるなんて初めての経験だが、悪くない気分だ。


「何てふわふわなのかしら……狼さん、あなたはきっと群の王様なのね」


 まだ王様ではないけどだいたい当たっている。空恐ろしくなっていると、少女は水筒の蓋を取ってイヴァンに見せてきた。


「まずは洗うわ。痛いと思うけど……」


 傷口に水がかかって、せっかく治まっていた痛みがぶり返した。素知らぬふりでやり過ごしたが、少女が励ましてくれるので妙に力が入る。


 少女は赤色を洗い流すと、次に籠から薬草を取り出しては次々と貼り付けていく。それは市場に出せば言い値がつくような代物で、イヴァンは無表情を装いつつも驚いていた。


 価値も知らない子供なのだろうが、なぜここまでできるのだ。

 手当てをしている間にも目の前の狼に襲われるかもしれない。そんな想像をしないはずがないのに、その手つきに恐れは見当たらない。


 少女は最後にハンカチを取り出した。それで傷口を縛り、ついに手当ては完了する。

 さっそく薬草が効力を発揮し始めているようで、傷は随分と状態を良くしていた。


「はい、終わり。頑張ったわね」


 わからない。この娘は一体なんなのだ。危険を冒してまで狼を助けるだなんて、ブラルの宮殿で見てきた貴族とは何もかもが違いすぎる。


「もしかして、痛くて動けないの? だったら、一緒にいてあげる!」


 少女は的外れなことを言ってイヴァンのそばに座り込むと、優しい手つきで背中を撫で始めた。

 そうではない、ヨハンを待っているから動く気がないのだ。そう言いたかったが狼の姿では喋れないし、そもそも人狼族だと明かすわけにもいかない。


「見て。今日は星がとっても綺麗だから、きっと痛いのも忘れられるわ」


 大人びた調子で語る少女が天を仰いだので、イヴァンもつられるようにして顔を上げた。そこでようやく、今日という夜に満天の星空が広がっていることを知ったのだ。


「知ってる? あの一番光ってる星が、ベガっていうの。夏の夜空で一番明るい星で、全部の星で比べても三番目に明るいのよ」


 少女の声は朗々としていて、星が好きなのだろうと伝わってきた。

 星など今まで一度も気にしたことがなかったイヴァンは、不思議な程に心地いい語りに耳を傾ける。


「ベガはこと座の一部よ。こと座っていうのはオルフェウスの琴なんだって。そのすぐ隣の天の川の中にデネブ、その向こうにアルタイル。三つ繋いで、夏の大三角形っていうの。……ふふっ! 私、詳しいでしょ? 私のお母さんね、昔は宮殿で天文学の先生をしていたんだって。だから私にも教えてくれるの」


 知識としては聞いたことのある話だが、不思議と彼女が語ると面白く感じた。

 少女は誇らしげに胸を張っている。きっとその母親を心から慕っているのだろう。


「私、星って大好き。きらきらして綺麗で、不思議で、いくらだって眺めていられるわ。あなたもそう思わない?」


 好きか嫌いか考えたことすらなかった。しかしいくらでも眺めていられるという、その言葉だけはすっと胸に入り込んでくる。


「苦しい時は、星を数えるの。数え切れないほどの星に比べたら、自分の悩みなんてちっぽけなものに思えるもの」


 そう言った彼女の声には一抹の寂寥が滲んでいた。能天気そうに見えるこの少女にも、何かしら抱える物があるのだろうか。

 妙にそれが何なのか気にかかった。しかし問いただせるわけでもなく、少女の声だけが静寂を乱す空間に、ゆっくりとした時が流れていく。


 結局のところイヴァンを助けたのは、何の力も持たないはずの人間の少女だった。


 人間も人狼族も変わらない。己の利ばかりを追い求める者と、他者を慈しみ助けようとする者がいる。

 そう、心を持つ者であるならば、属する共同体で一括りにして語るべきではない。国も種族も、一個人の性格を決定する要因の全てにはなり得ないからだ。


 そんなことは同胞を見ているだけで解っていたはずだった。長い戦に身を浸しているうちに、いつのまにか忘れ果てていたらしい。


 その事実を思い出せただけで十分だ。濁った頭が明確な意思を取り戻し、体中に活力が湧いてくる。

 それならばいつかは手を取り合える。どれだけ時間がかかっても、どれ程の苦難に見舞われても、俺は選んだ道を歩み続けることができるだろう。


「……もう行くの?」


 イヴァンは迷いなく立ち上がった。やわらかな手のひらに頭を擦り付けて礼の代わりにする。狼が動かない限りは家に帰らないであろう少女のため、痛む前足で一歩を踏み出した。


 ーー君に会えてよかった。


「ばいばい、狼さん! 無茶をしちゃだめよ!」


 背後から声をかけられたので、イヴァンは振り返って少女の姿を視界に収めた。

 その時を最後に、彼女に会うことは二度と叶わなかったのである。


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