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今はされど遠く 1

 薬師の無茶な提案には、イヴァンも思わず動きを停止してしまった。


「そうですそうです、こういうのは奥方の仕事と相場が決まっておりますからな。私が奪ってはいけませんでした」


 確かにこの国にはそういう風潮があるが、わざわざ国王夫妻に当てはめるものではない。使用人が揃っているし、何より生粋の姫君にそんな事を頼むのはおかしい。


 ヤロミールは返事を待たずに道具を片付け始めている。完全に固まっている王妃の脇をすり抜けた老薬師は、最後にいい笑顔でこう言った。


「陛下も喜ばれますぞ。では、私はこれにて」


 ーーこのおせっかいじじいめ。


 イヴァンは心の中で毒づいた。

 音を立てて扉が閉まると同時、気まずさを押して口を開く。


「エリー、ああは言っていたが無理しなくていい。誰か呼んでーー」


「いいえ、やるわ。やらせていただきます」


「……は?」


 イヴァンは珍しくも呆けたような声を出してしまった。

 驚いているうちにエルメンガルトはつかつかと歩み寄ってきて、真剣な表情で薬を手に取っている。


「いや、ちょっと待て! 傷口を見なきゃならないんだぞ。君には無理だ」


「それくらい平気。血で卒倒するような可愛げは持ち合わせていないの」


 深緑の瞳に迷いはなかったが、イヴァンは自分でも意外なほどに動揺していた。

 この一日で嗅ぎ慣れてしまった消毒薬の匂いに、彼女の果実のような香りが混ざって清涼感をもたらしている。交わることのない眼差しは長い睫毛に縁取られていて、引き結ばれた唇はやけに艶やかに見えた。


「奥さんの仕事なんでしょう? 私にやらせてください」


 手慣れた動きで薬の蓋を開けながら、彼女はポツリと言った。


 その言葉によってもたらされた表しようのない幸福感に、言い募ろうとしていた口が動かなくなる。

 エルメンガルトは義務感からそう言っただけだ。気の利いたことの一つも言えない夫のことなど何とも思っていないし、事実彼女の言動はいつも無防備。それこそ意趣返しに口付けをしたくなるくらいには意識されていない。


 だからこそ、この降って湧いたような幸運を享受したいと思ってしまうのだ。

 イヴァンは観念してエルメンガルトの好きにさせることにした。彼女がやりたいと言ってくれるのなら、それに甘えてもバチは当たらないだろう。


「わかった。頼む」


 しかし彼女は頷いて夫の体に視線を移した瞬間、不自然なほどに表情を凍りつかせた。

 何だろうかと考えて、すぐに納得する。


 この体には無数の傷跡がある。真新しい赤よりなお存在を主張するそれらは、うら若き女性に見せていいほど生易しいものではない。


「すまない、忘れていた。やっぱり無理をする事は」

「その傷、どうしたの……?」


 イヴァンの声など聞こえていないかのように、呆然としたまま彼女は言った。

 それは予想外の驚きと発見を前にした者の表情だったのだが、イヴァンが察知できる程のものでは無かった。訝しみつつも視線の先を辿り、自身が持つ最も大きい傷跡に行き着いて再度納得する。


「これは、まだ先王陛下が生きていた頃に負ったものだ。八年も前になるか」


 その殆どは九年前の戦で得たものだが、右の二の腕から胸にかけてなぞるように残ったこの傷は違う。

 これはとある事件で負った傷。恩人との出会いを果たすきっかけとなった、今となっては得難い負傷の跡だ。


「その話……聞きたい。嫌じゃなければ、だけど」


 エルメンガルトは恐々と言った。

 彼女が望むなら話すことに何のためらいもない。多少血なまぐさい内容ではあるが、戦の話を聞いてくれた人だ。きっと大丈夫だろう。


「それなら、作業のついでにでも聞いてもらおうか。面白くもない話かもしれないが」


 イヴァンはそっと目を閉じた。あの時のことは今でも鮮明に覚えている。



 *



 八年前の夏のある日、イヴァンはブラル帝国からの帰途についていた。

 当時はまだ王子の立場だったイヴァンは、同盟を模索する父王の最後の命で、初めて他国の皇帝を訪問したのだ。


 結果は散々に終わった。彼らは人狼族を畏怖し、同時に嫌悪していた。半ば追い立てられるようにして宮殿を後にした一行は、やりきれない思いを抱えたまま国境を越えることになった。


 先ほど通り過ぎたのはヴァイスベルクという街で、そこまでは人間の姿をしていたイヴァンたちも、今は人狼の姿を取っている。長旅には荷物も背負えるこの姿が一番で、たまに走れば馬車などよりよほど早いのだ。

 十人程度の精鋭で動く一行はあっという間に森を進み、いつしか山道に差しかかろうとしていた。


 ブラルの夏は暑く、蝉の鳴き声と共に人狼たちの体力をジリジリと削る。誰もが微かな苛立ちを抱えた道中は、楽しいものとは言い難かった。


「はあ……腹が立ちますね。あの間抜けども、たいした頭もないくせにこの私に舌戦を挑むとは。話が通じるのはエンゲバーグとかいう、気の毒にもシェンカ大使に任命されたあの男くらいですよ。まったく」


 ヨハンがいらいらと呟くが、その声にいつもの切れ味はない。

 全員がまざまざと見せつけられたのだ。ブラルとの同盟を結ぶということが、どれほどの難題なのかを。


「満月の夜に変身が解けなくなるなんておぞましい、まるで呪いだ……ですって? 奴らの残念な頭に呪いがかかっているんじゃないですか」


「よせ、ヨハン。ここで言ってもどうにもならない」


「殿下は腹が立たないんですか!」


「俺が口に出すことはない。臣の前だ」


 静かに告げると、ヨハンはぐっと押し黙る。これは道中で何度も繰り返されたやり取りだった。

 リュートラビアとの戦が終結して以降、イヴァンの頑なさは増しつつある。


 いずれはシェンカを導くのだという自覚と、床に伏した父を支えたいとの思い。そして此度の戦で足元に積み上がった数々の骸が、痛みを伴う程の戒めとなっていたのだ。


 しかし苦しい戦の思い出に加えての此度の苦境は、まだ二十の若者に陰を落とすには十分に過ぎた。

 暗い思考は長旅のせいで絡まり、渦を巻いて頭の真ん中に鎮座している。鬱々とした気分を断ち切るように目を伏せたその時、イヴァンは木の葉が擦れる音をその耳に捉えた。


 反射的に体が動く。隣を歩くヨハンを突き飛ばした瞬間、右の二の腕から胸にかけて強烈な熱が走った。


「イヴァン!」


 友が己の名を叫ぶのが聞こえた。

 イヴァンはそれにも構わず腰の剣を引き抜くと、襲撃者めがけて一閃する。手応えだけで浅いことが判り、もう一度振ろうとするのに腕が動かない。


「殿下!」


「くそっ、何者だ!」


 臣下たちが一斉に色めきだち、唯一の王子を守ろうと抜刀する。イヴァンを斬ったのは人狼の男で、すぐさま臣下らによって斬り伏せられていた。


 ーーああ、やってしまった。


 こんなものは王位継承者がしていいことではない。それを知っていて咄嗟に感情で動いてしまうなど、もっとやりようがあったはずなのに。


 重大局面でこんな判断ミスをして、父になんと申し開きをすればいい。これではヨハンにも迷惑をかけてしまう。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、全身を鎧で固めた人狼たちが木々の間から出現する。その数は十五程度といったところだが、イヴァンという戦力を欠いた今は危機的な状況であることは間違いない。


「俺たちは同盟反対派の戦士! イヴァン・レオポルト・ウルバーシェク殿下。そのお命頂戴する!」


 鬨の声を上げて飛びかかってくる反逆者たちを前に、イヴァンは乾いた笑いすら浮かべていた。

 同盟反対派と呼ばれる者たちの存在はもちろん知っている。しかし実際に命まで狙われてみると、彼らの本気を理解せざるを得ない。


 かつてラドスラフ王は人との関わりについて「可能かどうかではなく、やらねばならない」のだと言った。しかし、果たして本当にそうなのだろうか。


 人間はやはり我々を対等な立場として認識していないのだ。だから同盟などに興味はないし、理不尽な理由で攻撃を仕掛け、何よりも大事なはずの命を踏みにじる。

 こうして人狼族からも疎まれて、この苦難の先に一体何がある。たった一人腰掛けた玉座で何ができる。


 人と解りあうことなど、本当は世界中の誰も望んでいないんじゃないのか……?


「イヴァン、しっかりしてください!」


 親友のビンタによって、イヴァンは正気を取り戻した。どうやら剣を杖にした状態で、少しの時間意識を飛ばしていたらしい。


 周囲は激戦の様相を呈していた。胸の傷はどうやらかなりの重症のようで、経験したことがないほどの痛みを訴えている。腕は動かないし、だらだらと流れていく血が止まる気配はない。


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