薬師の提案
その日、エルネスタは自室で眠りについた。目覚めはそれなりに自然で、可もなく不可もなくというところだった。
鳥の囀りの中で伸びをしてから、両頬を叩いて気合いを入れる。
「……よしっ!」
まずは洗面所へと向かう。顔を洗って部屋に戻り、クローゼットから適当な衣装を出して身に纏う。
うん、いい調子だ。まるで北極星の手伝いをして過ごしていた頃のように体が軽いし、頭が冴えているような気がする。これならばきっと、全ての気持ちをなかったことにして、身代わりを勤め上げることができる。
たとえ「あのこと」をイヴァンに確認して、本当だったと確証が得られても、きっと平常心でいられる筈だ。
胸のボタンを締め終わったところでノックの音が響く。
おずおずと姿を現した少女の姿を捉えて、エルネスタは囁くように名前を呼んだ。
「ダシャ、良かった……!」
駆け寄って小さな手を取ると、ダシャは幼さを残した顔をぐしゃりと歪めた。
「王妃様、私……私、今日はお暇を頂きに参りました」
ダシャはエルネスタの両手を握りしめたまま、膝につくほどに頭を下げる。
この少女がどれほど苦しんだのかは、震える肩を見ていれば察しがついた。
彼女の元には一晩であまりにも多くの真実が転がり込んできたのだ。青天の霹靂とでも言うべき事態に、家族はさぞ動転したに違いない。
「本当に、申し訳ございませんでした。家族の責は私の責です。法が兄を処さないのであれば……私が兄を斬ります」
「えっ」
下を向いたままのダシャから聞こえてきた不穏な台詞に、エルネスタは間抜けな声を上げてしまった。
「ダシャ? あの、聞き間違いかしら。何だか物騒な事を言わなかった?」
「………」
「何か言おうか! ねえ、ダシャ! わかったから、私は気にしていないから……! とにかく顔をあげましょう⁉︎」
ダシャは促されてようやく顔を上げてくれた。エルネスタはひとまず息をついたが、彼女の瞳は強い意志を宿していて、先程の儚さは見る影もない。
「ご厚情に感謝申し上げます。私のような者に王妃様は過分なお心遣いを下さいました。兄の蛮行は、恐れ多くも王妃様にお仕えしたこの私が、責任を持って断罪して見せましょう」
この時のダシャは例えるなら女戦士とでも言うべき風格を見に纏っていた。
エルネスタは顔を引きつらせつつ、人狼族の女性が持つ強さを知った。こんな珍妙な展開で知りたくはなかったけれど。
「ちょっとまってね⁉︎ そんな事はやめましょう! 誰も望んでないし、せっかく事態がまとまったのにわざわざ惨劇を引き起こさなくていいのよ!」
「いいえ、やらせてください! よりにもよって王妃様を拐かすだなんて……! 死でしか購えるものでは」
「はいちょっと失礼しますよ」
突如としてめんどくさそうな声が割り込んできたと思ったら、分厚い本の角が赤銅色の頭を直撃した。エルネスタは口を開けてその光景を見つめ、本の主へと視線を滑らせる。
そこにはヨハンがいて、開いた扉から手を伸ばしていた。慌てて彼を招き入れると、泰然とした態度で頭を下げられてしまう。
「朝から王妃様のお部屋にお通し頂くご無礼、お許しください。やかましい声が聞こえましたのでつい」
「いえ、それは構わないのだけど……ダシャ、大丈夫?」
おずおずと声をかけてみるものの、ダシャは頭を抱えて蹲っていた。しかしすぐに顔を上げると、今しがたの暴挙の犯人をきっと睨み据える。
「何をなさいます、宰相閣下!」
「頭を冷やしてあげたんでしょう。子供が生意気を言うんじゃありません」
エルネスタはおやと思った。この二人が喋っているのは初めて目にするが、何だか仲が良さそうである。幼馴染の家族だからそれなりに面識があるということか。
「まだ面会にも行っていないのでしょう。許せなくとも殴るだけに留めておきなさい。命を奪うなら、命で贖う覚悟を持たなければならないのですよ」
「ですから、私はその覚悟を持って……!」
「はあ。兄妹揃って馬鹿ですねぇ」
「なっ……!」
ため息混じりの言い草にダシャが絶句した。エルネスタも若い女子に向かってそれはないんじゃないかと思ったが、宰相閣下の常識では特に気にするようなことでもないらしい。
「いいですか。そんな事をすれば、あなたのご両親は同時に子供を二人も失うことになるのですよ」
「あ……」
ダシャの目が衝撃に揺れた。心優しい少女にとって、今の言葉が痛恨の一撃になった事は間違いない。
「ザヴェスキー卿もお気の毒に。二つ並んだ墓標の前で、何を思われるのでしょうね」
「う……うう……!」
「一人残された下の兄上は? 優しい彼の事ですから、きっと一生気に病むのでしょう」
「ううう……」
ヨハンの指摘は的確だった。ダシャはすっかり戦意を喪失して、床に手をついてしまった。
「わかったらさっさと仕事をなさい。今日は何の当番ですか」
「王妃様の朝のお支度と、ご昼食のご用意と、洗濯、寝る前のお支度です……」
「よろしい。身内の罪を贖いたいのなら、せいぜい働きでもって果たしなさい」
ヨハンは最後に鼻で笑うと、王妃に辞する旨を告げて退室して行った。ダシャが四つん這いの姿勢のまま動かないのを確認して、思い切って外に出てみることにする。
「スレザーク卿!」
文官にしては広い背中を呼び止めると、彼はすぐに振り返って眼鏡の奥の瞳を細めて見せた。
「何でしょうか王妃様」
「ダシャのこと、ありがとうございます。ちゃんとお礼をと思って」
するとヨハンは毒気を抜かれたような顔をした。それは一瞬のことだったが、彼が見せた表情の中では一番無防備なもの。
「……有能な侍女に辞められては差し障りが出ますから。それだけのことです」
吐き捨てるような言葉の割に、彼の厳しい目つきはいつもより緩んでいた。どうやらこの男も大概わかりにくい性格をしているらしい。
エルネスタは微笑んで頷いた。ヨハンはそれを見たか見ないかのうちに、踵を返していたのだった。
大変な事件の翌日とあって、エルネスタは一日すべて休みということになってしまった。
体はすっかり元気なので何だか申し訳ない。朝からエンゲバーグが無事を確認しにきたり、事件発生時に護衛を務めていた青年が謝りに来たり、事件の聞き取りを行なったりして過ごしたものの、昼を前にして完全に暇を持て余す事態となった。
そこでエルネスタは意を決してイヴァンの部屋を訪れることにした。うるさいかと思って遠慮していたのだが、傷の具合はやはり気になる。
ノックをして扉を開けると、イヴァンは寝台に上体を起こして本を読んでいるところだった。思ったよりも元気そうなその様子に、エルネスタは安堵のため息を吐く。
「起きていたのね。本は読んでもいいの?」
「何も言われていないからいいんじゃないか。仕事を取り上げられてしまったから、やる事がない」
「当たり前よ……」
人狼族はどうやらみんなこんな感じで、怪我なんて唾をつけておけば治ると思っている節がある。
エルネスタが扉の前で躊躇していると、イヴァンは不思議そうに目を細めて側の椅子を示した。
「座ったらどうだ」
「あ……は、はい!」
これくらいのことで、どうしようもないほど喜ぶ自分がいる。
エルネスタは小走りで寝台に近寄って、繊細な造りの箱椅子に腰かけた。平常心を心の中で唱えながら。
「体調はどう?」
「問題ない。もう運動もできそうなくらいなんだがな」
「そう、良かった。けど運動なんてまだまだ駄目よ」
「わかっているさ。君が気に病まないように、大人しくしている」
エルネスタは閉口して、赤くなった顔を俯けた。
感謝を告げるだけであんなに照れるくせに、さらっとこういう事を言ってくるからたちが悪い。こちらは表面上だけでも普通に過ごす事に神経を振り減らしているというのに。
そのまま沈黙してしまいそうになったとき、救世主はやってきた。
「こんにちは、陛下。……おや、王妃様がおいでになっていたとは失礼致しました」
姿を現したのはヤロミールだった。彼は好々爺然とした顔に笑みを浮かべ、出直そうと扉に手をかけている。
「待ってください、ヤロミール先生。私のことは気にしないで」
エルネスタは慌てて箱椅子から飛び去ったので、イヴァンが不満げに顔をしかめている事には気付かなかった。
「診察に来てくださったんでしょう。どうぞ、お願いします」
「これはお気遣い頂きありがとうございます。……まあ、陛下の表情は気にならなくもないですが、診せて頂きましょうか」
ヤロミールは恐縮しつつも箱椅子に腰かけた。すぐに怪我人の包帯を解き始めたので、エルネスタは何気ない仕草を装って目をそらす。
診察はすぐに終わって、薬師は革の鞄から替えの包帯と薬を取り出した。随分とどっさりした量のそれは、どうやら二週間分の処方らしい。
「朝晩包帯を替えることと、薬をお飲みになること。そしてできうる限り安静にしていること、これらを守っていただければ、順調に回復なさるでしょう」
「わかった、気をつける」
「さて、ではもう一度包帯を巻きますよ」
ヤロミールは包帯を手に取った。しかし彼はそこでしばし考えるようにすると、座ったままくるりと回転してエルネスタを見上げた。
「そうです。王妃様にやって頂きましょう」
エルネスタは突然の無茶振りに動きを止めた。




