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怪我と恋心

 城に帰ると蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。


 王妃が拐われたのだからそれも当然だ。玄関に辿り着いた途端にまずはルージェナが飛び出してきて、埃だらけになったエルネスタを抱きしめてくれた。報せを聞きつけた臣下たちが続々と集まってきたので、王城の玄関ホールは騒乱のるつぼと化してしまう。


「ルージェナ、王妃の手当を。手首を怪我している」


「まあ、何てこと……! すぐに手当致しますわ!」


 国王の指示を受けたルージェナは顔を真っ青にしたが、エルネスタは頷き返すことができずに傍のイヴァンを見上げた。自分のかすり傷などどうでもよくて、彼の怪我の手当てをするまではどうにも落ち着かない。


「大丈夫だから行ってくるといい。なかなかに酷い有り様だ」


 苦笑まじりに言われて思わず顔に手を当てる。確かにアークリグは見るからに汚れているし、これはどう考えても王妃失格の様相だ。こんなに不衛生では、怪我の手当てに参加することすら許されないだろう。


「ルージェナ、お願いできますか……」


「勿論です。さあ、どうぞこちらへ」


 赤くなった顔を俯けたまま侍女長に連れられて歩き出す。

 数歩進んだところで振り返ると、イヴァンは既に背を向けていた。エルネスタは侍従や衛兵が慌てて彼の背中を追いかけるのを確認してから、またルージェナの後ろに付いて歩き始めるのだった。




 入浴が終わっても今日に関しては寝支度をせず、手早く普段着を纏ったエルネスタは国王の自室を訪れた。

 ちょうど扉のところで薬師のヤロミールとすれ違う。彼の言によればイヴァンの容体は全く心配無いものの、二週間は安静にしておくようにとのことだった。


 懇切丁寧な礼を述べると、ヤロミールは微笑みを浮かべてその場を去っていく。部屋の中には寝台で上体を起こしたイヴァンと、その側で仁王立ちになったヨハンがいた。


「エリー、良かった。元気そうだな」


 イヴァンの自室を訪れるのは初めてなのだが、エルネスタはその事実にも思い当たらずにほっと息を吐いた。

 良かったというのはこちらの台詞だ。これだけの怪我をしておいて、人の心配などしている場合では無いというのに。


 ヨハンも同じことを思ったのか、黒の柳眉を釣り上げた彼は「ええ、ええ。良かったですねぇ」と嫌味ったらしく言ってのけた。


「お二人ともご無事で何よりですとも。しかしたったお一人で敵陣に乗り込んでしまわれるとは、流石の私も予想外でしたよ、ええ」


 どうやら大事な話の最中だったらしい。エルネスタは恐縮して身を縮めたが、入室を許可された手前出ていくのも不自然なのでそのまま聞いていることにする。


「一人ではない。シルヴェストルも一緒だった」


 イヴァンは宰相と目を合わせないまましれっと言った。主君の態度に眼鏡の奥の瞳を細めたヨハンは、滔々と説教を垂れ流し続けている。


「ふざけないでくださいこの捨て身国王。師匠から既に「一人で先に行ってしまわれた」との証言は取っているんですよ。よくもまあ、あの包囲の中を突っ込んでいったものですね。信じられない無謀さですよ、勇敢ではなく蛮勇です、蛮勇」


「蛮勇も時には必要だ。テオを相手取るならこれくらいで丁度いい」


「貴方は私の堪忍袋の緒をブチ切るのが趣味なんですか? だいたいあの馬鹿とやりあったら無事で済まない事くらいわかってたはずでしょう。作戦に則っていただけたら、無傷で生け捕りにできる予定だったんですよ。貴方も、あいつも!」


「わかった、わかったからヨハン、少し静かにしてくれないか。傷に響く」


 やれやれと言わんばかりのイヴァンに、ヨハンは顔全体を血の色に塗り上げる。エルネスタは彼の頭の上から湯気が吹き出す様を見たような気がした。


「だから言ってるんでしょうが! 貴方いつかおっ死にますよ! ああもう……王妃様からも何か言ってやって下さい!」


 急に水を向けられたエルネスタは、完全に気配を消したつもりだったので慌ててしまった。

 ヨハンは威嚇でも始めんばかりに息を荒くしていたが、国王の方は臣下が気の毒になるほど無表情だ。


「……ええと、怪我はしてほしくないわ。心配だもの」


「ほーら王妃様もこう仰ってますよ。どうですかご気分は。周囲に心配をかけまくることを、この機会に考え直したらどうなんです?」


 まさしく鬼の首をとったという形相の宰相に、イヴァンは遂に無表情を崩した。それはさながら悪事が見つかった子供のような顔だった。


「なんだ、二人で結託して。反省していると言っているだろう」


「ようやく効きましたね、面倒くさい。結局私がいくら言っても意味ないんですから。それでは王妃様、後は頼みましたよ。明日には貴方様からもお話をお伺いしますが、今日のところはお休みください。では」


 ヨハンはずり落ちた眼鏡の位置を上げながらも嫌味を吐いて、弾丸のような速さで部屋を出て行った。昨日も早朝から出仕していたし、彼の忙しさは半端なものではないようだ。


 そうして二人きりになった途端、エルネスタは気まずさを感じて沈黙した。静かな部屋にいると先程自覚した自らの気持ちが呼び起こされてしまう。


「あの……二週間は安静だって聞いたわ。そんなに大怪我だったなんて」


 イヴァンは一時は人間一人を抱えて歩いていたし、夜の闇の中に黒の衣装とあっては怪我の程度もよく見えない。それ故に彼の言葉を信じて大したことはないと思ってしまったのだが、実際に下された診断は想像以上に重かった。


「私、何でもするから言って。欲しいものはない? 貰ってくるからーー」


「待った。とりあえずは座れ」


 寝台の側の箱椅子を目線で示され、エルネスタは大人しくそこに腰かける。イヴァンの声は宥めるような響きを宿していた。


「まず、何でもするなどと軽々しく口にするなと言ったはずだ。その結果俺に何をされたのか忘れたのか」


「う……!」


「あと、無事でよかった。巻き込んで済まなかったな」


 静かに落とされた言葉には、隠しきれない程の安堵が滲んでいた。


 このせせらぎのような表情を見ていると、エルネスタは胸が詰まって何も言えなくなってしまう。

 本当はもっと言いたいことがあったのに。私なんかを助けにきては駄目だとか、国王が自ら来るなんておかしいとか。


「巻き込まれただなんて、思ってないわ」


 身代わりの王妃など、国王が身を呈してまで助けるべき存在ではない。それなのに彼はあの長屋にやって来て、結果として大怪我を負ってしまった。


「もう、あんなことはしないで……」


 ようやくそれだけ言って、エルネスタは俯いた。

 醜い後悔と罪悪感が浮かんだ顔を、イヴァンにだけは見られたくなかった。彼の清廉な眼差しに映されること自体が耐え難かった。


「エリー」


 名前を呼ばれるのと同時、頬を温かい掌が包む。エルネスタは反射的に顔を上げて、彼が伸ばした右手に自分の左手を重ねた。


「動かしては駄目」


「君はさっきからそればっかりだな」


 イヴァンは苦笑して見せたが、手を引っ込めようとはしなかった。だからエルネスタは硬い手の甲を掴んだまま、藍色の瞳を見つめることになってしまう。


「この怪我は君のせいではない。必要だったんだ。馬鹿だと笑ってくれたらそれでいい。……君は、いじらしいな。あまりにも」


 重ねた手が動いたのは突然の事だった。関係はあっさりと反転して、今度は大きく厚みのある手が華奢なそれを捕らえる。


 エルネスタはそのまま手を引かれて、気付いた時にはイヴァンの白いシャツの胸に閉じ込められていた。消毒薬の匂いと、薄い生地越しでも感じる包帯の感触。これでは傷に負担をかけてしまうと血の気が引くが、身をよじってもますます腕の力が増すばかりだった。


「や、やめて……離して」


「何でもすると言ったのは君だ。怪我が心配だと思うなら、大人しくしていればいい」


 いつになく強引な台詞なのに、背を撫でる手の動きは切ないほどに優しかった。イヴァンの示す力強さはエルネスタを慰めるためだけのもので、それを理解した頭が甘い痺れを訴える。


 詰まる所、エルネスタはただの恋する乙女だった。

 どれほど自分を律しても、この腕の中にいると幸せに押しつぶされそうになる。どれほど忘れなければと思っても、その戒めは些細なことで力をなくしてしまう。


 けれど、それも今日だけにする。

 明日からは今まで通り、ただの身代わりに戻るのだ。

 いつもの笑顔で、いつもの勉強をして、精一杯の務めを果たす。


 そして期日を迎えた暁には、そっとこの城を抜け出して、雲のように消え去ってみせよう。


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