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この想いは

 すでに雨は上がっていて、日の沈んだ路地裏は湿り気を帯びていた。


 どうやらここはラシュトフカの街はずれらしい。道中には拘束された反対派たちが転がされていて、その中にはカウツキーやヴェロニカの姿もあった。彼らは後ろ手に拘束されており、行き交う戦士たちの間で茫洋とした瞳を虚空に向けている。


 彼らにかける言葉が出てくることはなく、エルネスタは運ばれるがままでいた。戦士たちは国王夫妻の姿に驚いた顔をしたものの、指示を仰ぐだけで何も言わなかったし、イヴァンもそれに答えることしかしなかった。


 騒然とした長屋の一帯を抜け、しばらくは人気の無い道を無言で進む。ようやく事態を把握した頭が目まぐるしく動き始め、エルネスタはあっと叫び声をあげた。


「イヴァン、怪我! たくさん怪我してたわよね⁉︎」


「問題ない。それよりも君のことだ」


 あんなに怪我を負っていたのに、抱き上げられたまま押し問答をしている場合ではない。エルネスタはとにかく降ろすように頼もうとしたのだが、イヴァンが動く方が早かった。


 すぐそこにあったベンチに座らされたかと思ったら、今度は両手で顔を挟まれて、ぐいと持ち上げられる。

 片膝をついた彼とは目の高さが同じになっていた。民家の細々とした灯りに照らされて、藍色の視線が険しく突き刺ささる。そんなにも怒らせてしまったのかと身がすくむが、頬を撫で首に触れる手つきはことの外事務的で丁寧だった。


「……何を、してるの?」


「本当に怪我が無いか確かめているんだ。ここなら少しは明るいからな」


 イヴァンは真剣な眼差しでエルネスタを見つめている。

 男性に遠慮なく体を触られるだなんて、反射的に振り払ってもいいような事態だ。しかし嫌悪感など一滴も湧いてはこず、恥ずかしいのと同時に面食らったような気分になる。


「どこか痛むところはないか」


「ええと、無いと思うけど……」


「今はまだ気が張っているから、怪我があったとしても痛みが出てこないんだ。後で気が付いてからでは遅い」


 イヴァンは暴力を受けていないことなどわかっているはずだ。それなのにここまで気にしてくれるのは、やはり大事な政略結婚の妻だからなのだろう。


「ありがとう。助けに来てくれて」


 エルネスタは消え入りそうな笑みを浮かべた。喜んではいけないとわかっていても、このひとが自ら来てくれたことが嬉しかった。

 しかし礼を言われた相手は、何やら納得いかなそうな視線を向けてくる。


「随分と余裕だな。こっちがどれほど焦ったか知りもしないで」


「ごめんなさい。心配かけたわよね」


「ああ。心臓が止まるかと思った」


 藍色の視線は既に逸らされて、珍しく冗談を口にする彼の表情を見ることは叶わなかった。

 今度は腕を取られて肘を伸縮させられる。二の腕を下から掴む感触がくすぐったくて、エルネスタは思わず笑い声を上げた。


「ひゃっ、くすぐった……!」


「じっとしていろ。すぐにすむ」


 身を捩るエルネスタにも構わず、診察は粛々と続く。

 しかし手のひらを取られたところで、イヴァンは唐突に動きを止めた。


 彼の視線の先、袖から覗く自らの手首。そこにぐるりと腕輪のようにまとわりつく擦り傷を見つけ、エルネスタは微かな声を上げる。

 全然気がつかなかった。きつく縛り上げられた訳では無いのだが、どうやらそのままの体勢で動きすぎたらしい。


「……縛られたせいだな」


 掌を掴む男の手が力を増す。傷を凝視する藍色が苛烈な輝きを宿し、形のいい唇から吐き出される声は地を這うように低い。


「あの馬鹿、やはりもう少し刻んでおけば良かった。この折れそうな手首を荒縄で縛るだと? 正気とは思えない……!」


 もはや声が低すぎて何を言っているのか聞き取れなかった。

 しかし彼をこのまま怒らせるのはまずい気がする。エルネスタは本能に従って手を引っこ抜くと、猛然と顔の前で左右に振った。


「全然、平気よ! こんなの怪我のうちにも入らないし、跡になっているだけだから」


「そんなに動かすな! 悪化したらどうする!」


 今度は真正面から怒られてしまった。

 けれどまったく恐ろしくは感じられず、むしろ安堵すら得てしまうのはどうしてなのだろう。


「大丈夫。ほら、全然、痛くなんか……」


 なんの前触れもなくそれは起こった。

 ぽろりと溢れ出した雫が頬を伝う。突然のことに戸惑うエルネスタは、思わず口を噤んで目の縁に触れた。

 涙が流れ落ちるのと比例するように、目の前の端正な面立ちが驚愕に彩られていく。


「ご、ごめんなさい……だいじょ、うぶ。すぐ、止めるっ、から……!」


 エルネスタは今更のように、怖かったのだと自覚した。いくら王妃らしく気丈に振る舞っても、所詮はただの小娘でしかない。


「ごめん、なさ……! 呆れ、ないで」


 なんて情けない。エルメンガルトの身代わりならば、いつでも毅然としているのが正解のはずなのに。

 エルネスタは俯いて、必死になって目元を擦った。だから戸惑うように伸ばされた手が肩に触れる直前で止まり、やがて引っ込んで行ったことなど、知るはずもなかった。


「……怖かったのか」


 その問いを認めるわけにはいかなくて、エルネスタは俯いたまま息を飲んだ。しかし少しの間を置いて聞こえてきた声は、哀切に掠れていた。


「それは、攫われたことが? それとも……俺のことがか」


 今日、イヴァンの人狼の姿を初めて目にした。そのことを指しているのだと気付いて、エルネスタは色を無くす。

 彼は満月の夜、エルネスタの前に姿を現さなかった。ダシャも言っていたではないか。「陛下は人以外の姿をお見せにならない」のだと。


「それならはっきり言ってくれて構わない。今後君の前では絶対に人以外の姿を晒さないと約束しよう」


「違うわ! 怖かったのは……攫われた、ことで」


 金色の人狼が満月の照らす部屋に独り佇む姿を想像して、エルネスタは衝動的に顔を上げた。みっともなく泣き腫らした顔を晒そうと、自らの弱さを露呈する結果になろうと、どうでもよかった。


「イヴァンなんて怖くない! 私は、貴方が優しいことを知ってる。貴方は誠実で、真面目で律儀で、誰よりも重いものを背負いこんで歩いてる、不器用なひとよ」


 どうしてこのひとは、他者のことばかり。

 私はこんなにも利己的で、身勝手だというのに。


「貴方のほうがよっぽど酷い怪我をしているくせに。傷ついている、くせに。もっと自分のことを大事にしてよ……」


 体の怪我だけを指して言ってはいないことに、彼は気がついただろうか。

 目の表面を膜が覆っていて、イヴァンの表情を読み取ることができない。しかし彼が絶句していることだけは伝わってきて、言い過ぎたのかもしれないと後悔に襲われた。


 せめてこれ以上情けない姿を見せるわけにはいかない。エルネスタは濡れた頬を拭おうとしたのだが、上げかけた手をやんわりと抑えられてしまった。


「……そうだな。こんな目にあって、平気なはずがなかったんだ。悪いことを言った」


 ぼやけた視界の向こう、イヴァンは藍色の瞳を細めていた。

 伸びてきた硬い指が目の縁を拭ってくれるから、エルネスタは反射的に目を閉じる。


「俺は君を泣かせてばかりだな。どうして、君みたいな人が側に居てくれるんだろう。俺は善行など何一つ積んではいないというのに」


 よくわからないことを言う彼の声は、どこか遠く聞こえた。

 どういう意味か問おうとしたところで、温もりをもたらしてくれた手がそっと離れていく。


「エリー。君がいなくなったと聞いた時、俺は逃げたのではないかと思った」


 目を開いた先に、冗談を言っている気配など微塵も感じさせない眼差しと出会って、エルネスタは息を詰めた。


「いや、逃げたなどという表現は相応しくないな。ただ初めから無理だったのだと、あるべき場所に戻ろうとしただけのことなのだと。 そう、思ったんだ」


 淡々と告げる言葉は、若き国王が抱く長い失望を表すものだった。

 人との関わりは国にとって必要だと判断しただけのことで、イヴァン自身は人間のことなど信用していないのだ。


 知ったはずの事実を突きつけられただけで、なぜかひどく胸が苦しい。

 しかしその苦しみも、次の言葉がもたらした痛みによってかき消されることになる。


「愚かな俺を許してほしい。俺はこれから先、絶対に君を信じる」


 エルネスタは知らずのうちに目を見開いていた。

 幾度となく自覚した罪が、その瞬間に形を変えて襲いかかり、押しつぶされそうになる。


 違う。私のことを、信じたりしないで。


 喉まで出かかった訴えを飲み込んだら、焼けた鉄のような味がした。なぜならこの時、エルネスタはついに思い知ってしまったから。


 ーーああ、私は。このひとのことが、好きなんだわ。


 なんて愚かなんだろう。いつものように気のせいだと言い聞かせて、消し去ってしまえれば良かったのに。気付いた瞬間に終わった恋だなんて笑い話にもなりはしない。


 この誓いは本来まだ見ぬ姉が受けるはずのもの。このまっすぐな信頼は、罪人が得ていいものではない。

 エルネスタは裏切っているのだから。はじめから嘘だけで塗り固められた存在なのだから……。


「……さあ、もう帰ろう。 手首の傷、早く手当てしなくてはな」


 瞬きすらしないエルネスタに何を思ったのか、イヴァンは苦笑を一つだけ落として先に立ち上がった。

 差し伸べられた手にぼんやりとしたまま引き起こされて、ゆっくりとした歩調で歩き出す。


 雨上がりの外気はしっとりと冷えて、涙で荒れた肌を押し包んでいる。残照の余韻を無くして夜に包まれた街は、どこかうら寂しく見えた。



 ***



 イヴァンは隣を歩く妻の姿を横目で見つめていた。夜の暗さが無遠慮な視線を隠してくれるから、その儚げな輪郭をどれほど眺めても許されるのが有り難かった。



 テオドルの裏切りを知っても、大きな動揺がなかった理由には気が付いている。国のため、友のため、失われた命の為に前に進むと決めていたのに、いつしかその顔ぶれの中には妻の姿があった。


 人間と人狼族の架け橋であろうと、自らを奮い立たせるようにしてきた人。彼女が取ったいくつもの行動が、どれほど同胞を、そして己を勇気付けてきたことか。


 かと思えば、年相応の女性らしい顔を覗かせる。その仕草や温かな瞳、あるいは表情一つに、言い表せないほど胸がざわめくのは何故か。


 ーーああ、そうか。見ず知らずの感情、これこそが。


 俺は君が愛おしい。この身を切るような想いに、どうして今まで気が付かなかったのだろう。その透明な涙を止めたいと願ったのは、今日が初めてではなかったのに。


 君は一体誰だ。どうして俺の前に現れた。苦しげな顔ばかりをさせてしまう、俺のような男の前に。


 イヴァンは知らずのうちに拳を握りしめていた。彼女が何者か分からないという事実に、今更のように焦燥が募る。

 どうするべきなのか見当すらつかない。考えても考えても決断を下せないのは、イヴァンにとっては初めてのことだった。





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