追憶と慟哭と 2
窓を叩き割って飛び込んで来た影が何なのか、エルネスタはすぐには認識することができなかった。
ガラスの破片が宙を舞い、一人の戦士の姿を煌めかせては落ちていく。雨の雫が吹き込んで窓際を濡らし、はためくカーテンが荒天を示す。
見覚えのある黒いチョハ。しかしそれを纏うのは、金色の毛並みをなびかせた人狼。その男は幅の広い剣を抜き放っていて、その刀身よりも鋭い視線を室内へと走らせていた。
「イヴァン……」
目を合わせるなり、震える唇が勝手に彼の名を紡いだ。
見間違えるはずもない。どんな姿でも、どんな状況にあっても、その眼差しの光が失われることはない。
一瞬だけ狼の顔を安堵したように緩めたイヴァンは、しかし状況を把握するや否や、豪雨を吹き飛ばすような怒りを示して見せた。
「久しぶりだな。テオドル」
その瞳はもうエルネスタを映しておらず、九年ぶりに再会したかつての友人だけを見つめている。レートーーもといテオドルは苦笑気味に立ち上がったので、エルネスタもまた強引に引き上げられてしまった。
「よう、イヴァン。外の見張りはどうした? それなりの数を置いといたはずなんだがな」
「倒した。それ以外に答えがあると思うか」
「そうかい。相変わらず化けもんだな、お前は」
緊迫した彼らの会話を聞きながら、エルネスタはこの状況とは関係のない既視感に苦しんでいた。
見覚えがある。その金色の毛並、精悍な顔立ち。しかしそれらが指し示す事実を、今は問い質す時ではない。
よく耳をすませてみると、外からは微かに指示を飛ばすような声が聞こえてくる。どうやらイヴァンは少数でここへとやってきて、ものの見事に制圧してしまったらしい。
「それにしてもあんまり驚いてねえな、お前。俺が生きてるなんて知らなかったんだろ」
「ああ。大通りで視線を感じたあの日から、城下に密偵を潜らせて探っていた。それでようやくお前の生存を知ったのがついさっきだ」
イヴァンは燃える視線でテオドルを射抜いた。そこに悲しみが見え隠れしていることに、エルネスタは気が付いてしまった。
「聞こう。なぜ生きていることを黙っていた。なぜ同盟反対派の首領として活動している。よりにもよって、なぜ、お前が……!」
掠れた声は慟哭そのものだった。
エルネスタが感じた悲しみなど比べ物にならない程に、彼が底のない苦しみを得ているのは明白だった。
「……そうだな、覚えてるか。戦争も終わりがけの頃、恋人を紹介するって約束したことを」
テオドルが昔を懐かしむように目を細める。細い首に巻きついた丸太のような腕は緩むことはなく、エルネスタはそのままの姿勢で彼の話を聞くことになった。
「お前と別れた後、俺は瀕死の重傷を負って倒れていたところを、狼の群れに助けられた。目を覚まさないまま二週間が過ぎて、気付いた時にはシェンカ軍は帰還した後だった。お前らが無事なのか気になったけど、戦の結果は近くの村に行ったらすぐに教えてもらえてさ。そしたら、同じだけ気にかかるのはヴィオラのことだった」
ヴィオラという名前が彼の恋人を示しているのは、わざわざ問うまでもないことだった。
イヴァンの鋭い眼差しが緩む気配すらないことを確認すると、テオドルは話を続ける。
「ボロボロの体であいつの村へと走った。酷かったよ。リュートラビアの連中に荒らされて、そこら中に死体が転がってるような有様でさ」
エルネスタはまたしても息を飲んだ。彼の話の結末がわかってしまったから。
「戦に駆り出されて、村には戦える男はほとんど残っていなかったからな。いくら人狼族でも、女子供じゃ圧倒的な数の力には敵わない。俺はヴィオラの家に入って……地獄を見た。ヴィオラは血の海の中で死んでいた。あいつの母親に折り重なるようにして」
その時、テオドルが抱いた絶望はどれほどのものだったのだろうか。
エルネスタは想像しようとして、それが不可能であることを思い知った。
「……まあ、それだけならよくある話だ。深い憎しみは抱いても、親兄弟や仕えるべき主君を裏切ってまで、別の道を歩もうとはしなかったかもしれない。けどな、そこにはヴェロニカがいたんだよ。死んだ犬みたいな顔をして、姉と母親の腐った死体の側でうずくまってた」
そこで、先程のヴェロニカの様子が思い出された。エルネスタに掴みかかり、激しい憎しみをぶつけてきた、彼女の表情を。
「何してんだって聞いたら、一人だけ床下に隠れて助かった、その時に聞いた声が忘れられないって言うんだ。……あいつは、何を聞いたと思う?」
逆に問いかけてきたテオドルの表情は、全てを覆い尽くしたような無表情だった。その瞳の底暗さに、深い虚無が彼を満たしていることが見て取れる程に。
「兵士の一人がこう言ったらしい。残念、人狼族でなきゃ犯してやったのに……ってな」
エルネスタは目の前が真っ赤になるのを感じた。
それを聞いた時の憤りを、憎しみを、嘆きを、テオドルもまた取り戻したようだった。首にかかった腕に力が入り、エルネスタは息を詰める。
「なあ、人狼族と人間、どっちが野蛮なんだろうな。奴らは心を持たないクズで、同じ人間以外は全て獣だと信じて疑わない。俺にはそう見えるんだが、一体どっちが狂ってんのかね」
物理的な苦しさよりも、今聞いた話のせいで心が訴える痛みの方が余程酷かった。
それは、そんなのは悪魔の所業だ。人狼族を対等な存在として全く見ていない。どうしてそんなことが言える? どうしてそんなことができる? 心を宿す者ならば、絶対に行うはずのない残酷な行為だ。
「エリー……」
己の名を呼ぶイヴァンの姿が霞む。目の端から熱い雫がこぼれ落ちて、赤銅色の毛並みを濡らしていった。
どうして。人と人狼族を隔てるものは、こんなにも分厚い。
人間の中にも人狼族に対して怯えない者と、同等の存在とすら認識しない者がいる。人狼族の中にもこうして反乱を企てる者と、徐々に歩み寄ろうとしてくれる者がいて、それはかつての人間の行いによって生まれてしまった齟齬なのだ。
悲しい。悲しくて悲しくて仕方がない。どうしてこんなにも食い違ってしまうのだろう。どうしてこんなにも、私は。
「泣いてくれるのか、王妃様。あんた、優しいんだな」
不意に穏やかな声が降ってきて、エルネスタは顔を上げた。そこには清々したような赤銅色の笑顔があって、その表情が伝えるものを読み取れずに目を瞬く。
「悪いことをしちまった。あんたはイヴァンとお似合いだぜ。せいぜい仲良くやんな」
その時、轟音とともに背後の扉が破られた。エルネスタはその原因を確認できないまま、空洞になった扉の先へと突き飛ばされてしまう。
「王妃様、ご無事ですか!」
「クデラ将軍……⁉︎」
これもまた人狼の姿をしたシルヴェストルによって、エルネスタはあっさりと抱きとめられた。
相対する人狼二人が手にした剣を振るったのは、それと時を同じくしてのことだった。
高らかな金属音が鳴り響き、剣撃の風圧が降り積もった埃を撒き散らす。鍔迫り合う男達の輪郭が薄暗い室内に浮かび上がって、エルネスタは悲鳴を必死で押さえ込んだ。
「相変わらず馬鹿は治っていないらしいな。人質を手放す誘拐犯がどこにいる」
「へっ、将軍閣下が来たんじゃ無駄骨だろうがよ。引き際をわきまえたって言え、堅物が!」
今度は金属同士が擦れ合う音が発して、二人は同時に背後へと飛び去った。どうやらお互いに引きの一撃を叩き込んでいたらしく、イヴァンは左肩に、テオドルは腹に、血の赤を噴出させる。
真っ青になるエルネスタの眼前で、人知を超えた剣技が次々と繰り出された。激しい衝突音が響くたび、二人の体は傷を増やしていく。何もできないままその戦いを見守っていると、後ろに組んだ両手に触れる温もりがあった。
「王妃様、荒縄を切りますゆえ、動かれませぬよう」
シルヴェストルが腰の短刀を取り出して、鮮やかな手捌きで拘束を解いた。数時間ぶりに自由を得た開放感もそこそこに、エルネスタは英雄の肩へと掴みかかる。
「クデラ将軍、あの二人を止めて! お願いします……!」
エルネスタが割って入っても何にもならないことは明白だった。切り刻まれる未来しかそこにはない。
灰色の毛並みの将軍閣下は、王妃の懇願に心動かされた様子ではあった。しかし彼は首を横に振ると、狼の顔に苦笑を浮かべて見せる。
「無理ですな。私が間に入れば、どちらかが死ぬことになります」
「そんなっ⁉︎」
あんまりな未来予想図に、エルネスタは顔色を更に白くした。しかし将軍閣下は大丈夫だと呑気に笑う。
「心配せずともそろそろ終わりましょう。私の予想では、おそらく ……」
一際高らかな音が鳴って、熾烈な攻防は終わりを告げた。




