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追憶と慟哭と 1

 雨が降っている。悲しみも喜びも、全てを押し包むような柔らかい雨だ。

 湿った音に導かれるようにして目を開けた。途端にひんやりとした冷気が全身を撫で、エルネスタは身震いをする。


 見覚えのない場所だった。木の壁と床は所々補修跡があって、隙間風が室内を通り抜けていく。冷たい床へと直に転がされており、嗅がされた薬のせいか喉の奥がツンとした。どうやら後ろ手に縄で両手を縛られているようで、長時間下に敷いていた右肩がズキズキと痛む。


 窓から見えるのは雨ざらしになった住宅街。時間帯が日の傾きかけた頃であるということくらいしか判断がつかない。


「目が覚めたか。王妃様」


 唐突に背後から明瞭な声が上がって、エルネスタは体を硬くした。後ろ手に縛られている状況では直ぐに起き上がることは難しく、寝返りを打って声の主を視界に入れる。

 そこには三人の人狼がいた。両脇に控える二人には、折に触れて見た覚えがある。


「ヴェロニカに、カウツキー卿……?」


 思ったより声が出ず、エルネスタは盛大に咳き込んだ。危機的な状況であることは間違いないのだが、逆に冷静になった頭が気に留めたのは中央の男だった。彼の赤銅色の毛並みは、目眩がするほど馴染み深い。


「へえ。あんた、人狼族が怖くないってのはホントなんだな」


 その赤銅色の人狼は面白そうに言うと、立ち上がってこちらに近づいてきた。彼はありふれた濃緑色のチョハを着ていたが、身に纏う存在感は並ではない。


「勇敢な王妃様。連れ去られた感想はどうだい」


 真紅の瞳が酷薄な光を宿す。男はしゃがみこむと、エルネスタの肩を掴んで無理やり引き起こした。


「あなたの、名前は?」


 言われたことを無視して問えば、人狼は切れ長の瞳をすっと目を細めた。


「冷静だな。誘拐犯の名前を知ってどうすんだ」


「あなたによく似た毛色の子を知っているわ。だから、なんとなく聞いてみたくなって」


 掠れた声でようやくそれだけ言うと、また咳が出てきたので目を瞑って耐える。治まった頃に聞こえてきたのは、短く名乗る冷たい声だった。


「レートだ」


 夏という意味の名に聞き覚えはない。彼の顔に見出した少女の面影を一旦は消し去りつつ、エルネスタは問いを重ねた。


「レートさん。何の目的があってこんなことを?」


 当然ながらこの状況を脱しなければならない。その為には情報収集と、なるべく監視の目を緩める事が必要だ。しかし荒事に慣れていない頭は、逸る気持ちを抑えきれずに勝手に口を回してしまう。


「要求は? わざわざ王城から王妃をさらうなんて、お金を目当てにするには危険が大きすぎる」


 おそらくはカウツキーが手引きして実行犯を招き入れ、ヴェロニカが王妃を誘い出す役目を担っていたのだ。仕立て屋に扮していたのは仲間の一人。正しい時間に本物の仕立て屋がやってきて、城内は混乱したに違いない。


 あともう一つ考えられることがあるとするならば、彼らを結びつけるものの正体くらいか。


「もしかしてあなたたちは、人間との融和政策を批判する……同盟反対派の、活動家? カウツキー卿がいるんだもの、それくらいしか思いつかない」


 三人の人狼たちが同時に息を呑むのが伝わってきた。言い当ててしまったことを察して口を噤んでいると、ヴェロニカが瞳を憎悪に燃やし、胸ぐらを掴み上げてきた。


「黙っていろ、人間……! ペラペラとよく喋るその口、アタシが噛み切ってやろうか⁉︎」


 鋭い牙が眼前に迫る。エルネスタは気丈にも目を開けて、その光景を睨み上げた。


「やめろ、ヴェロニカ!」


 鋭い声が飛んだ瞬間、ヴェロニカはエルネスタを解放した。浮いていた膝が床にぶつかって痛みを訴え、せっかく治まっていた咳が再びの主張を始める。


「でも、レート!」


「俺たちは人間が嫌いだが、その女に個人的な恨みがあるわけじゃねえ。それを忘れりゃただの薄汚い犯罪者集団だ。わかるだろ」


 ヴェロニカは怒りを押し殺すようにして舌打ちをし、元いた場所へと戻っていった。レートの統率力は驚くべきもので、その存在感は伊達ではなかったらしい。

 今の衝突に震える肩を必死で押さえつけながら、エルネスタは赤い瞳を正面から見返した。


「聡明な王妃様、あんたは交渉材料だ。身柄と引き換えにブラルとの同盟を破棄させる。俺たちの望みはそれだけだ」


 それは想定内の答えではあったが、実際に聞くと体を二分するような衝撃があった。

 そうまでして人間を嫌う人狼族がいた。わかっていた事だったのに、改めて現実に直面すると、胸がじくじくとした痛みを放つ。


「……正当な手段で訴えるべきよ。こんなことをして、あなたたちが無事で済むとは思えない。カウツキー卿だって、築き上げた信用を失ってしまうのに」


 その身を犠牲にしてまで人との関わりを拒む彼らに、一体どんな大義があるというのか。

 シェンカには議会があって、議員ならば議題を呈することができるのだ。カウツキーは議員であり、その過程を踏んで届かなかったのなら、それは民意として認めるべきということに他ならない。


 どうして解り合えないのだろう。イヴァンはあんなにも苦しんで悩んで、民のためだけに行動しているのに。


「王妃様、私はそんなものはいらないのですよ」


 エルネスタの怒りにも似た疑問は、がらんどうを感じさせる声に遮断された。カウツキーは底のない瞳でこちらをまっすぐに見つめている。


「私の息子は、先王様の時代に使者として赴いた国にて殺されました。その首は腐るまで晒され、故郷に帰ってきたのは送りつけられた指一本だけでした」


 細く息を飲む音が暗闇に響いた。エルネスタの脳裏に彼からの仕打ちが思い出され、同時にその全てが色褪せていく。顔から血の気が引いて、耳鳴りが頭痛を呼び込んできた。


 そんな。そんな酷いことがーー。


「この計画を実行した連中は、皆似たような境遇です。平民も貴族も関係なく一個の目的のために動き、その結果自らの命が失われようと……誉れとして受け入れる。そんな、ある意味狂った集団なのです。あなたが何を言おうと、無意味ですよ」


 それだけ言って、カウツキーは外へと出て行った。ヴェロニカも後に続き、広くなった室内にはたった二人だけが残される。


「……私は、情けない」


 ぽつりと落とした思いに対して、レートは何も言わなかった。その反応が話の続きを促す意味を持たないとわかっていて、エルネスタは言葉を続ける。


「私には力も、知識もない。あなた達が抱えるものをまるでわかっていなかった。いろんな考え方があるのは仕方がなくて、少しずつわかってもらえたらいいって」


 エルネスタはどうしようもなく無力だった。出生の特異さ以外はただの庶民で、大事な人を亡くすことなく成長したような、ただのありふれた娘だった。

 それでも無知は罪だ。今更どれほど悔やんでも、考えることすらせず生きてきた事実は覆しようがない。


「そんな……そんなことがあったのなら、憎んで当然だわ。私がカウツキー卿でも、同じことをしていたかもしれない」


 ただの身代わりでは、この国のためにできることなど知れている。政治に口を挟んだり、余計な仕事を買って出ては、身代わりを終えた後に差し障りが出てしまうからだ。


 エルメンガルトならどうしただろうか。不満を持つ者達に辛抱強く語りかけ、理解を得ようと努力したのではないだろうか。

 自分だってそうしたかった。できることなら、持てる全てを使ってイヴァンを支えたかった。


「この国が持つ苦しみを理解したい。けど私にそんなことを言われたって、意味がないのね。私にできることならなんでもしようって、決意してここへ来た筈だったのに。実際はできることなんて一つもなくて、何の役にも立てないまま、ただあなた達に罪を犯させる原因になってしまった……」


 目の奥が焼けるように痛んで、エルネスタは息を止めてしばしの時間をやり過ごした。レートは相変わらず何も言わず、悲壮な思いの吐露を聞いているようだった。


「あんた随分謙虚な上、健気なんだな。そういうところが好きなのかね、あいつは」


 不意に苦笑を含んだような声が発して、エルネスタは俯いていた顔を上げた。レートが纏う空気の苛烈さは変わりがなかったが、その目は揺れる炎を宿しているように見えた。


「一昨日だったか、あんたがイヴァンと歩いているのを見たよ。楽しそうだったな……あんたもそうだけど、あいつが自然な笑顔を浮かべてんだもんな。俺は嬉しかったけど、同じだけ悲しかった。あんたが人狼族であってくれたなら、この二人を引き裂かずに済むのにってさ」


 その語り口調は、親しい者を語る時のそれでしかない。出会い頭に抱いた疑惑が確信に変わっていくのを感じながら、エルネスタはその血の滲むような声を聞いていた。


「けどもう道は別れた。あいつを支えると誓ったあの時の俺は、九年前の夏に死んじまった。あんたがどれほど真摯に訴えようと、俺の決意は変わらない。人間との関わりを断ったこの国の姿を見届けるか、この命が尽きるか……どちらかの未来が訪れるまで、俺は行動し続けるだろう」


 レートは音も無く立ち上がった。野生の獣を感じさせるしなやかな身のこなしで、エルネスタの首筋を拘束する。

 ガラスが割れる衝撃波が全身を包んだのは、その直後のことだった。


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