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何を望むや

 久々に訪れた書庫は、相変わらずの静寂でもってイヴァンを迎えた。


 城内二階の角に設えられたこの部屋は、城に勤める者なら誰でも利用することができる公的図書館だ。

 立ち並ぶ本棚に収められた膨大な数の蔵書を、天窓からの昼の陽光が照らし、彷徨う埃を浮かび上がらせている。繊細な刺繍を施したクッションや、飴色の文机も十分な数が用意されていたが、今この時に限っては利用する者もなく、どこか寂しそうに見えた。


 迷いのない足取りで歩き、一つの本棚の前で足を止めた。周辺諸国について書かれた本の中からブラル関係の物を片っ端から手に取って、すぐ側の文机に積み上げる。


 これは意味のあることではない。エルメンガルトについては既に出来うる限りの手を尽くしている。

 探す答えが本に載っているはずもないのにここへ来たのは、自分で動かなければ気が済まなかったから。


 かの帝国の歴史を記した本を繰る。知った事しか書かれておらず、ため息を吐きたくなる。

 ブラル帝国の歴史は学問の歴史だ。学問と技術において世界で最も高い水準を誇り、ゆえに他国を圧倒している。既に現帝室のバルゼン家の治世となって200年の時が過ぎ去っているため、政治の面では停滞気味。


 しかも残念ながら、今代の皇帝は有能とは言い難い。シェンカとの同盟はこちらにとってなかなかの好条件で、裏を返せばかの皇帝の外交力の無さが一因となっているのだ。


 ーーあの男は、果たして娘を大事にしていたのだろうか。


 考えるだにもやもやとしたものを感じてしまう。

 皇子が二人いるという恵まれた継承状況。そんな中で、あの利己的な男が皇女を慈しむだろうか。


 エルメンガルトの正体はわからない。彼女は朗らかで聡明、立ち振る舞いには気品があり、常に努力を怠らない。姫君然として見えるようでいて、帝室の一員として育まれたにしてはあまりにも度胸があり過ぎる。


 もしやエルメンガルト本人ではないのか。それとも親を反面教師として育っただけの変わり者の姫君?

 イヴァンはふと手を止めた。いつしか歴史についての本は読み去り、風俗習慣について書かれた本を開いている。


『ブラルにおいて、結婚とは家同士の繋がりが最も重要とされる。よって恋愛結婚はほとんど存在せず、それは身分の貴賎問わず同じことである。結婚の際は、女側が一時金を用意して相手の家に納めることが重要だ。つまり身分差のある婚姻は成立しにくい。』


 何だそのめちゃくちゃな慣例は。

 イヴァンは目を点にした。そんな事でよく夫婦の絆が保つものだ。女だけに金を用意させるなど、シェンカだったら提案しただけでこてんぱんにのされてしまうだろう。


『結婚の際は結婚指輪を用意する。華美過ぎないものを夫婦で一つずつ設える。結婚後は左手の薬指に嵌め、理由がなければ外さない。この指輪に憧れを抱く女子は多い。』


「何だと⁉︎」


 今度こそ声が出てしまったのだが、書物がもたらした衝撃に気を取られるイヴァンは気付かない。

 そんな風習があったとは知らなかった。人狼族は結婚に際して物を送り合うということはしないから、考えた事すらなかった。


 ーーもしかすると、いや、彼女もきっと、憧れていたのではないだろうか。俺はそんなことも知らずに……。


「陛下! 大変でございます!」


 取り留めのない思考は、血相を変えて書庫に飛び込んできたルージェナによって中断された。

 冷静な彼女がここまで取り乱すとはただ事ではない。イヴァンは全ての懸案事項を頭の片隅に押しやって、厳しい表情で立ち上がった。


「何事だ」


「王妃様が……! 王妃様が、いらっしゃらないのです!」


 その報告を聞いた瞬間、イヴァンは一瞬頭を真っ白にしてしまった。

 それは常に国王として自らを律してきたこの数年において、初めてと言っていい出来事だった。


「……状況報告を」


 わずかな間の後に辛うじて絞り出すと、ようやく思考回路も機能し始める。イヴァンは歩きながら話を聞くために、ルージェナを伴って書庫を後にした。


「護衛が目を離した間にいなくなってしまわれたようです」


「なぜ目を離す。俺は無能を雇い入れたつもりはないぞ」


「採寸の間ですわ、陛下。曲者が仕立て屋に扮していたらしく、それに気付かなかったと」


「いつの話だ」


「つい先程です。ちょうど通りがかった私が事態を知り、すぐに陛下に報告を差し上げました」


 イヴァンは侍女長への気遣いなど欠片も無い歩調で歩きながら、顎に手を当てて考える。

 どういうことだ。何者かが王妃の誘拐を実行したのか? 目的が考えられるとすれば、此度のブラルとの同盟に不満を持つ者たちによる反乱か。


 しかしリスクが大きすぎる。国王軍の精強さを知らぬ者などこの国には居ない。つまり、可能性として最も高いのは。


「自ら、出て行ったのか……?」


 口にしてみると予想以上に苦く感じられて、イヴァンは奥歯を噛んだ。

 思い出されるのは幼少の頃、人間の子供との虚しい出来事。敵兵たちの呪いの言葉。赴いた国での蔑みの視線。


 そうだ、人は人狼族を簡単には受け入れない。姿の違う生き物など蛮族でしかなく、見知らぬものへの恐怖心は全ての決断に影響を及ぼす。


 彼女もそうだったのではないか。初めから解り合えるはずがないと断じたのは、他ならぬ自分じゃないか。あの美しい姫君は、ただ自らのあるべき場所へと、戻って行っただけで。


「陛下はそう思われるのですね」


 斜め後ろから発した声は冷え切っていた。イヴァンはのろのろと振り返ると、凍てついた眼差しを寄せる侍女長と顔を合わせることになった。


「貴方様が仰せなのですから、そうなのでしょう」


 ルージェナをここまで怒らせたのは何年振りだっただろうか。若い頃は傾国の美貌とまで言わしめた彼女は、最大値まで怒ると口数が少なくなって凄みが増す。

 イヴァンは怯えたりはしないが、それでも彼女の怒りの原因を考えるには至った。


「私からの報告は以上でございます」


「ああ。ルージェナも王妃が心配なら、執務室へ来るといい」


 どうしても足の速さで劣る侍女長を残して、イヴァンは走り出した。執務室へ向かう道すがら様々なことを考える。


 攫われたのなら一刻も早く助け出す。これは揺るがない。

 しかし、もし彼女が自らここを出て行ったのなら、俺はどうするべきなのだろう。

 王としては必ず見つけ出し連れ戻さなければならない。だが個人としては、もう見逃してやるべきなのではないかとも思う。


 何者なのかもわからない人。もしかしたらここにいるべきではない人。そんなに嫌なら、苦しいのなら、自由にさせてやるべきなのだ。その方が彼女には似合っている。


 ーー王であるならば、理想だけで物事を選び取るべきではない。


 父の教えが頭を締め付ける。その考えに共感して生きてきた歳月が、自らの感情を消し去ろうと躍起になっている。

 そうだ、国を治めるものとしてこんなに相応しくないことはない。しかしその理性的な甘さすら、胸の奥深いところで主張する何かが否定する。


 これは何だ。離れたくない、などと。


 イヴァンは乱れた思考を元に戻そうと、走りながら手首で頭を小突いた。ついに執務室に到着して、無言のまま扉を開け放つ。


 そこには既にヨハンとシルヴェストルが待ち構えていた。イヴァンは宰相の手元に羊皮紙の束があることを視認して、どうやらこれは単純な事態ではない事を悟るのだった。


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