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ひずみの発露

 その日は朝からエンゲバーグが訪ねてきた。

 エルネスタが自室へと招き入れると、彼は相も変わらずラグの上に正座する。しかし珍しくも落ち着かない様子で、前置きもなく話を切り出してきた。


「落ち着いてお聞きください。イゾルテ殿の病状が回復したとの報せが入りました」


「え……」


 突然の吉報に、エルネスタはため息のような声を出した。馬鹿みたいに呆けたままでいると、エンゲバーグが嬉しそうに畳み掛けてくる。


「今朝方、伝書鳩にて報告が届いたのです。最新の研究により完治する病との診断が降り、実際に処方薬が劇的に効いているとのこと」


「本当に、治ったの。もう、大丈夫なの……?」


「ええ。派遣された薬師によれば、もう心配はございません」


 信頼する共謀者の心からの笑みを見ていたら、両目から熱いものが込み上げてきた。エルネスタは両手で顔を覆って、ひきつれたような嗚咽を漏らす。


「良かった……ありがとうございます、伯爵。あり、がとう……!」


 それ以上は言葉にならず、ただ安堵だけに導かれるまま泣き続けた。その間、エンゲバーグはただ側に付いて居てくれたのだった。




 そのまま午前の講義と昼食を終えたエルネスタは、どこか呆けた頭のまま廊下を歩いていた。

 何だか上手く行きすぎて怖い。これで最大の懸案事項もなくなって、後はこの役目を全うするのみとなったのだ。


 残りの期間はあと三週間足らず。期日がくればたとえエルメンガルトが見つからなくとも、この地を去ることになる。


 ーー頑張らなくちゃ。


 気合を入れなおすために拳を握りしめる。そう、近頃になって感じる迷いに気を取られている場合ではない。

 エルネスタにイゾルテのことを教えれば、やる気をなくして怠け出す可能性もあったのだ。それなのにエンゲバーグはすぐさま報せをくれたのだから、その信頼に応えなければならない。


 今まで以上に精一杯努めよう。決意を新たに次の講義へと歩みを進めていると、後ろから声をかけられた。


 振り返るとそこには見覚えのある顔があった。同じ年頃の女中は確かヴェロニカという名で、普段はあまり接点がないものの、建国祭の時によく働いていたのが印象に残っている。


「どうしたの? ヴェロニカ」


 名前を呼ぶと、彼女は一瞬戸惑ったような顔をした。


「まあ。王妃様に名前を覚えていただけたなんて、光栄ですわ」


「さすがに全員はまだまだ覚えていないけどね」


 ヴェロニカは明るい笑みを浮かべて、言伝を預かっております、と続けた。


「誰から?」


「ルージェナ様からですわ。何でも仕立て屋が参ったので、ご足労頂きたいと」


 確かに今日は仕立て屋がやってくる予定だが、時間は三時と聞いていたはずだ。エルネスタがその旨を告げると、ヴェロニカは申し訳なさそうに頭を下げる。


「実は午後一番の講義を担当されていたリンドフスキー様が急病とのことで、代わりに仕立て屋をお呼びする時間を早めたのだそうです。お伝えするのが遅くなったことをお詫び申し上げます、と伺っておりますわ」


「そうだったのね。すぐに行くわ」


 エルネスタは朗らかに頷いた。

 イヴァンから身辺に用心するようにと言われてはいた。しかしここで警戒心が持てるほど、エルネスタは争いごとに慣れていなかった。ヴェロニカの話には矛盾などなく、とても自然で堂々とした態度だったことも、裏を見抜けない原因となった。


 ヴェロニカの案内で一つの部屋の前に辿り着いたところで、彼女はエルネスタの背後へと視線を飛ばした。そこには人狼の姿を取った護衛がいて、鋭い視線を女中へと向けている。


「戦士様、ここからはご遠慮頂けますか? 採寸など、いろいろとする事がございますので」


「わかった。では、部屋の中を改める」


 衛兵が扉を開けたので、エルネスタも中の様子を窺うことができた。そこにはトルソーやこの間買い求めた織物が置かれていて、すぐ側に親切そうな女性が笑顔で立っている。

 しかし彼はそれで満足することなく、設えられた棚の中までじっくり検分して、ようやく部屋の外へと戻ってきた。彼らの真面目な仕事ぶりには、いつも頭が下がる思いだ。


「怪しいところはないようです。私はここにおりますゆえ、王妃様におかれましてはごゆっくりお過ごしください」


「ありがとう。どうか楽にしていてね」


「もったいなきお言葉! 我々の仕事は王妃様の護衛ですから、お気になさいませんよう!」


 直立不動で礼を取る歳若い衛兵に、恐縮しつつも笑みを返したら、何故か目をそらされてしまった。馴れ馴れしかっただろうか。


 そうして、エルネスタはようやくその部屋へと入ることになった。室内で待ち構えていた女性が歩み寄ってきたので、挨拶をしようと口を開く。


 予想外のことが起きたのはまさしくその瞬間だった。


 背後で扉の閉まる音がしたのを合図に、女性が手を伸ばしてくる。その掌にはハンカチが当てられていて、エルネスタはあっと言う間に口を塞がれてしまった。

 嗅いだことのない甘ったるい香りが顔中を支配する。無意識のうちに腕は抵抗を試みて、目の前の女性を突き飛ばそうとしたが一歩遅かった。


 甘い香りに思考回路が侵されていく。エルネスタは何が起こったのか理解することさえできないまま、霞む視界に意識を手放した。





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