かの国王との出会い 1
エルネスタは今、アークリグというシェンカ伝統の衣装を纏い、固く閉ざされた扉の前にいた。
色は薄紅色で、素人でも上質と判るサテンで作られている。ウエストを境に裾が広がり、スリットの入った袖が飜る様は、まるで春の女神のようだ。
髪はいつものお下げとは違ってハーフアップにされ、後れ毛を前にも垂らしている。ブラルの文化とはまた違った雰囲気の装いは、若い娘ならば高揚せずにはいられないような情緒と煌めきに満ちていた。
そう、着ているのが自分でなければ。
エルネスタはため息をつきそうだった。何もかもが突貫工事で仕上げられた作り物の姫君は、きっと見るからに貧相な印象を与えるだろう。同じ顔でもエルメンガルトならば品格を漂わせているに違いない。
この扉の先にいる件の国王陛下とやらは一体どんなひとなのだろうか。こんなのが相手ではさぞがっかりするだろうが、最早覚悟を決めるより他はない。
従者が重厚な扉を押し開く。そのわずかな時間、エルネスタは自らの成すべきことを反芻することにした。
*
親しい友人や街の人、そして家族とも散々別れを惜しんだエルネスタは、今はエンゲバーグと共に馬車に揺られていた。
期限は三ヶ月。その内の六週間は往復分の移動に消え去るから、エルメンガルトとして振る舞うのは実質半分の期間のみ。
そんな短い間でもお世話になる人には礼を尽くしたい。そんな思いで、エルネスタは目の前の紳士に向けておずおずと笑いかけた。
「これからよろしくお願いしますね。その、エンゲバーグ伯爵、と呼んでも?」
距離感を図りつつ話しかけると、エンゲバーグは困ったように微笑んでくれた。
「構いません。ただ、できればもっと楽に話して頂きたいのです。エルメンガルト様は臣下に敬語はお使いになりませんので」
「そんな! む、無理です、そんなこと!」
貴族とは平民からすれば顔を見ることすらおこがましい存在なのだ。それなのにいきなり楽に話せと言われても難しいものがある。
「どうかお願い致します。この計画は、露見すればその場で終わりの危ういもの。貴女様の立ち回り一つで危険を回避できるのです」
エンゲバーグは人の居ない場でもこの態度を崩す気は無いらしい。貴族として皇族に絶対の忠誠を誓っているのだろうが、エルネスタはただの庶民だというのに。
「わかり、ました。……努力します。できる限りは」
「そうしていただけると助かります」
「ええと、エンゲバーグ伯爵は、エルメンガルト様をよくご存知なんですーーなの?」
無理やり敬語喋りを正したエルネスタだったが、エンゲバーグは苦笑しただけで何も言わなかった。
鋭いところのある人だけれど、基本的には優しい心根の持ち主なのだろう。
「よく知っておりますとも。私はエルメンガルト様の歴史の講師を務めさせて頂いておりましたから」
「そうだったんで……そうだったの。それなら、エルメンガルト様について教えてもらえないかしら。戻ってこられた時に、あまりに性格や行動が違うと怪しまれると思うから」
できることなら怪しまれないまま役目を終えたい。やるからにはきちんと務めを果たすべきとの考えは、エルネスタからすれば当然のこと。
「エルネスタ様、あのお方を真似ようなどとは思わなくても結構ですよ」
それなのに何故だかすげなく断られてしまった。口調だけ寄せればいいだなんて、随分と雑な身代わりだ。
「どうして?」
「不可能だからです。エルメンガルト様の独特の話し方、考え方、行動理念……どれも一般的な感覚を持った者では理解し得ません」
なんだかものすごい言われようである。今更のように実の姉への興味を抱いたエルネスタは、同時に底知れない不安を感じて顔を引きつらせた。
「ええと、それは、どういうこと」
「あの方は天才肌なのです。悪い意味で」
それに対してエンゲバーグは淡々としたものだった。彼の表情と声音には、明らかな諦めが滲んでいる。
「ですが、一つ言えるとすれば、とても毅然としたお方です。いつも堂々としておられ、慌てるご様子は拝見したこともございません」
「それは凄いことだわ。私、何があっても慌てないでいるなんて、無理だと思うのだけど」
唯一得た特徴も到底真似できないようなものだったので、エルネスタは肩を落とした。エンゲバーグもそれはわかっていたようで、あっさりと肯首してくれる。
「エルネスタ様は常識的なお人柄をお持ちのようですから、そのままお過ごしいただければよろしいでしょう。エルメンガルト様がお戻りの後には、慣れて素が出てきたんだなとでも思わせれば良いのです」
「何というか、それって色々と大丈夫なの?」
「仕方ありません。こんな計画を実行するなど正気の沙汰ではありませんから、可能性すら考えないであろう心理をうまく利用しましょう」
最後の台詞は自分達が正気でないと言っているようなものだったが、エルネスタはそこには触れないことにした。
何故ならエンゲバーグの目が疲れ切っていたからだ。どうやら彼はなかなかの苦労人らしい。
「エンゲバーグ伯爵は、ずっとシェンカに居てくれるの?」
「ええ、エルメンガルト様と交代なさるまでは居る予定です。皇帝陛下よりの書状もまずは私預かりとなります。仕事は案外多いのですよ」
「それは、その。大変なんですね」
エンゲバーグは何でもないことのように言ったが、その瞳はどこか遠くを見ているようだった。
「ちなみに、エルメンガルト様を探す者達とは伝書鳩で連絡を取っています。伝達率は八割を超えますので、最も早い連絡手段として重宝しています」
「すごい! 訓練するのが大変だったでしょうね」
「はは……ここまで活躍するとは思いませんでしたがね……」
やっぱり彼の笑顔にはどこか力がない。
この大使が苦労人かつ努力家であることに確信を抱きつつ、エルネスタは頷くに留めた。
「それなら、シェンカの国王陛下について教えて。必要なことは全部知っておきたいの」
「ふむ、エルネスタ様は勤勉ですな。感心です」
勤勉というよりはただの好奇心が少しと、情報を得ることで失敗を極力無くしたいだけなのだが、エンゲバーグは満足顔だ。
「恐ろしい人狼王。冷酷にして無慈悲、心など持ち合わせず必要とあらば臣下をも切り捨てる。在位八年にして著しく国を発展させながらも、同胞を他国の戦に駆り出す血も涙もない男。また並び立つ者の無い程の剣の腕前を備え、戦場では悪鬼の如しと恐れられた戦の天才。貴女が聞いたことがあるのはこのくらいでしょう」
エルネスタは頷いて肯定の意を伝えた。シェンカの冷酷無比な人狼王については、ブラル帝国でもよく知られている。
しかしそれが真実であれ虚実であれ、依頼を断る理由にはなり得ない。だからこそ今まで確認しなかったのだ。
「それで、あなたの見解は?」
「最大の功績は、傭兵として各地に散っていた人狼の戦士を国王軍として組織した事かと。数ヶ国との同盟を結んだ事といい、恐ろしいほどの政治手腕と言えましょう。数回お目にかかる機会を得ましたが、冷静で強靭な意志を持ったお方という印象です」
エンゲバーグは淡々と語ったが、結局それ以上の話はできないと締めくくった。人柄を知るほど打ち解けてはいないし、勝手な憶測で語ることはできないのだと。
それは確かに彼の言う通りだ。エルネスタとて会いもしない相手の人柄を噂だけで決めつけるつもりはない。
「エルネスタ様。イヴァン陛下とはそれなりに仲良くなられませ」
「それなりに?」
「ええ。この婚姻は両国の同盟を堅固にする為の重要なもの。歩み寄る姿勢を見せねば、どんなケチをつけられるかわかりません」
人狼族の国シェンカとブラル帝国の関わりはまだまだ浅い。圧倒的な身体能力を持ち、狼の姿に変身する彼らには、人から見れば畏怖の感情を持つのも無理からぬことだったからだ。
「ケチをつけられるだなんて、そんな心持ちで接するのは良くないわ」
エルネスタは人狼族に対する偏見を持ち合わせてはいない。国境の町では彼らともそれなりに交流があり、自分たちとなんら変わりのない、思いやりのある種族であることは良く知っているつもりだ。
「確かに、信頼関係を築く上では良くありません。しかし貴女様の仕事はエルメンガルト様の身代わりなのです」
もっともな指摘を受けてエルネスタは閉口した。
確かにそうだ。あまり仲良くなりすぎると、身代わりが露見する危険が増すことは間違いない。
「人狼族と人間との隔たりを甘くみてはなりません。つい九年前まで、シェンカは隣国リュートラビアと戦争状態にあったのです。人狼族の中には人間と見るやかつての戦の惨状を思い出し、憎悪を表す者も多い」
その戦についてエルネスタは良く知らない。隣国同士が争っていたとはいっても、地理的には遠い彼方の出来事なのだ。
エンゲバーグは人狼族との関係の悪さを包み隠さず教えてくれる。有難い事ではあるが、かの国での日々を想像すると、エルネスタの心は沈んでいった。
「できうる限り穏便に、しかし心の内を悟られることの無いよう付かず離れずの距離を保ちなさい。適度に良好な関係を築くのです。それが貴女に課せられた使命、なのですから」
それはあまりにも高難易度な要求だった。それをエンゲバーグも良くわかっているのだろう、彼は申し訳なさそうに目を逸らし、そのまま窓の外へと視線を逃した。
こちらにとって都合がいいだけの仲の良さが、果たして実現できるのだろうか。
言い知れぬ不安を抱えたエルネスタもまた、揺れる視線を流れる景色へと向けたのだった。