夕食を共に
夕食の時間になって案内されたのは、王族専用の食堂だった。
宴会の催される大広間とは違ってこぢんまりとしたその部屋は、もちろんエルネスタの常識から考えれば信じられないほど広いのだが、絨毯やカーテンは深い色をしていて、一息つけるような落ち着いた空間が形造られている。
しかし先客の姿を見るなり、エルネスタの心臓は破裂するのではないかと思うほどに跳ねた。
「来たか」
「……お待たせして、ごめんなさい」
イヴァンは首を横に振ってから対面に座すよう示す。エルネスタはぎくしゃくとした動作にならないよう気を付けながら、何とか絨毯の上に腰を据えることに成功した。
既に食事の用意は整えられていて、絨毯の上には色とりどりの料理が並んでいた。湯気を立てるそれらは見るからに美味しそうだったし、実際に頬が落ちるような味わいであることを知っている。
ただし残念ながら、エルネスタは料理に喜んでいられるような心境ではなかった。
『陛下のことをお慕いしておられる王妃様は、とてもお可愛らしいです』
先程ダシャが放った言葉が、脳内を駆け巡っている。
そんなはずはない。許されるはずがない。必死に違うと考えようとしても、それ以外に否定材料が思い浮かばず、エルネスタは混迷する思考に絡みとられていった。
「あ、あのっ! イヴァンと食事を取るのは、これが初めてね!」
焦るあまりに嫌味のようなことを言ってしまい、血の上った頭からすっと熱が引いていく。しかしイヴァンは気分を害した風もなく、むしろ自嘲気味に微笑んで見せた。
「少し前までは、君は人狼族と……俺とは食事をとりたくないだろうと思っていたんだ。ブラルを訪問した時も、君は顔を見せなかったからな」
初めて聞く事実に眼を見張る。エンゲバーグから聞く王女の人柄は、あまり何かに怯えるような人物には感じられなかったのだが。
「それは、ごめんなさい。私」
「いい、気にするな。君に罪はない」
謝ろうとしたら遮られてしまった。しかし心優しいこの人狼陛下が、未来の妻の仕打ちに何も思わなかったはずがない。エルネスタがでもと言い募ろうとすると、返ってきたのは仕方がないなと言わんばかりの微笑みだった。
「この件に関して、俺は君に許しを与えるような立場ではない。国単位で歩み寄ろうとしておきながら、個人では怖気付いて二の足を踏んだ。夫としての責任を果たすなら、もっと話さなければならなかったのに」
それは仕方のないことなのではないのか。恐らく、イヴァンはずっと自分を犠牲にしてきた。それ故に自らの私生活について、顧みることができなくなっていたのだと思う。
「怖気付いて二の足を踏んだ」だなんて、自分を貶めるようなことは口にして欲しくない。それがたとえ妻への気遣いからくる言葉だったとしても。
「それなら、おあいこということにしない? 挨拶しなかった私も悪いもの。だからおあいこで、この話はおしまい。ね」
勢いで言ってしまってから、エルネスタは自身の図々しさを呪った。
おあいこだなんてどの口が言うのだろう。自らの罪はどれほどの祈りを捧げても許されるものではないというのに。
「おあいこか。可愛いことを言う」
エルネスタは今度は真っ赤になってしまった。
ダシャとの会話からこっち、感情の振れ幅が大きすぎて動悸がひどい。そろそろ口から心臓が飛び出してきてもおかしくないような有様だ。
とにかくいったん落ち着こう。可愛いというのは、子供みたいな言い回しをしてしまったせいで、からかわれたのだ。きっとそれ以上でもそれ以下でもない。
「寛大な奥方に感謝して、そろそろ食べようか。冷めてしまう」
「え、ええ。いただきましょう」
とにかく話が終わって助かった。
エルネスタはやたらと力の入った手で取り皿をとった。落とさなかった事にホッとしつつ、まずはイヴァンに声をかける。
「何か取りましょうか?」
「気を使わなくていい。そちらに近いものが食べたい時は頼むかもしれないし、君も言ってくれれば取ってやろう」
「えっ⁉︎ そんな、イヴァンに取ってもらうわけにはいかないわ」
エルネスタは仰天して首を横に振った。
こちらの食事はいくつかの大皿を用意して、好きに取って食べるというスタイルだ。エルネスタが慣れ親しんでいるのは一食分を器によそい、人数分同じものを用意してから食べ始める方法なので、勝手が全くわからない。少なくとも、ブラルでは男性に指図して取ってもらうだなんてありえないことだ。
「構わない。宴でもない限り、ここには給仕なんていないからな。食事はお互い気にせず好きに食べるのが一番美味い」
つくづく質実剛健な民族だと実感する。彼らの行動は全てが理にかなっていて、無駄がなく自然だ。慣れるのには時間がかかるけれど、とても好ましい考え方だと思う。
今はせっかくの食事を楽しもう。おずおずと頷いたエルネスタは、ひとまず自分の皿に料理を盛ることにした。
まず取ったのは、香味野菜とチーズの和え物だ。野菜の辛味とチーズのまろやかさが癖になる味わいは、この三週間ですっかり気に入ってしまった。
しかし美味しく頂いていたら、イヴァンが何やら物言いたげにこちらを眺めている。エルネスタは首を傾げて彼を見返した。
「どうかした?」
「いや、好きに食べろと言った手前言いにくいんだが……ハチャプリに挟まないのか?」
イヴァンは自分の近くにあった皿を寄越してきた。その上には平べったい形をしたパンが乗せられていて、エルネスタは初めてそれがハチャプリという名であることを知った。
「挟むものなの?」
「そうした食べ方が定番ではあるな」
「そうなのね! それはやってみなくちゃ」
このハチャプリはもっちりとした食感がとても美味なのだ。エルネスタは礼を言って一枚手に取ると、香味野菜の和え物を挟んで噛り付く。
「お、美味しい……! 合うわ!」
表現が下手すぎることはこの際許して頂きたい。美味しいものに出会った時、人は言語機能を失うものだ。
「他には? 他には、私が知らなそうなことはない?」
はしゃいで尋ねると、イヴァンはなぜか呆け気味で、ああと頷いた。
「そうだな……このツケマリソースは、肉でも野菜でも何でも合う。試したことは?」
ツケマリというのはプルーンの一種であり、この国の国民食の一つである。よく出てくるソースがツケマリで作られていたこと自体初耳だったので、エルネスタは目を好奇心に輝かせた。
「そのソースは野菜につけて食べてたわ」
「なら、肉にもかけてみろ。これはハシュラマだ」
差し出された大皿の上ではボイルした肉が湯気を立てていた。やや味の薄い料理だと思っていたのだが、そういうわけだったのか。
イヴァンが食べているのと同じように、エルネスタもその肉を皿にとって、ツケマリソースをかけてみた。
口の中に入れた途端に広がる旨味。油の抜けた肉に、酸味のあるソースが絶妙に絡み合っている。
「お、美味しいっ……!」
味とともに感動を噛みしめていると、不意に料理の向こうの空気が微かに揺れた。視線を上げたエルネスタは、全身の動きを止めるような驚きに見舞われる。
何故なら、イヴァンが見たこともない程に柔らかく笑っていたから。
「随分と美味そうに食べるんだな」
今までの微笑や苦笑とは全く違う。夏の風のようなその笑顔は心からのものであり、エルネスタに向けられていることは明らかだった。
頬に熱が上っていく。何故だか変なことを言ってしまいそうで、慌ててそっぽを向いた。
「イヴァンも、もっと食べて」
「ああそうだな、頂こう」
エルネスタは無性に胸がざわめいて、彼の目を見ることができなくなってしまった。イヴァンは浮かんだ笑顔もそのままに、ハチャプリを食べ始めている。
「ほら、ロビオに、ティティラもお勧めだ。どんどん食べろ」
豆料理と鶏肉料理を同時に差し出されて、エルネスタは赤くなった顔を誤魔化すように口に運んだ。気恥ずかしさだけではない何かが全身を支配して、脈がうるさくて仕方がない。
「美味いか?」
「……美味しいです」
エルネスタは笑みを深める美貌を直視できないまま、この後の時間も過ごすことになった。




