狼とボール投げ 2
真剣な眼差しに射抜かれて心臓が跳ねる。エルネスタは動揺を悟られないよう気をつけなければならなかった。
「大丈夫よ。イヴァンは帰ってきてすぐに寝てしまったから」
嘘は言っていないが、本当のことも言っていないという微妙な返しをしてしまった。
先ほどの会話から察するに、イヴァンはヨハンと飲んでいたのだろう。どうやらその内容すら忘れているようなので、このまましらを切るのが上策だ。
エルネスタは罪悪感に胸を痛めつつ、この話題を避けようと言葉を重ねる。
「もしかして、覚えていないの?」
「……どうやって帰ってきたのかも覚えていない」
心の底からの安堵は、もしかすると顔に出てしまっていたかもしれない。
あの時正体を問い質されたのは確かなので、忘れているならその方が良い。
イヴァンは身代わりの可能性に気が付いているのだろうか。それとも全く関係のないただのうわ言か。
エルネスタは何故だか以前よりも強く、知られたくないと思った。何よりもイヴァンにだけは、こんなひどい嘘をつく自分を知られたくない。
「イヴァンも酔っ払ったりするのね」
「一応弁明しておくと、こんな事は初めてなんだ。……ああくそ、情けない」
イヴァンは悪態をついて、腹立たしげに後頭部をかいた。悪戯の見つかった子供のような仕草に、エルネスタはちょっとだけ可愛いと思ってしまった。
「自分で寝台にたどり着いてそのまま寝ていたわ。私もその後すぐに眠ったし」
「そうか。なら良いが……」
イヴァンはまだ気にしているようだったが、強引にこの話題を断ち切ることにした。ボロを出すこともそうだが、口を噤むことへの罪悪感で押し潰されそうだった。
それに、国王陛下を煩わせたことについてもきちんと謝りたかったから。
「あの、実は今までミコラと遊んでいたんです。本当にごめんなさい、能天気なことをしてしまって」
しかし彼の瞳は優しく、少しも責めていない事が伝わってくるものだった。
「気にしなくていい。楽しかったか」
「……ええ、とっても!」
本当に優しいひとだ。政略結婚の妻相手でもこの甘さなのだから、彼に愛される女性はきっと幸せだろう。
想像したら胸がじくじくとした痛みを訴えたが、エルネスタはいつものように気のせいだと断じることにした。
「あ、そうだわ。イヴァンもどうかしら」
駄目だろうと思いつつ誘いを口にすると、案の上イヴァンは無表情で静止してしまう。長いようでごく短い時間の後に飛び出した返事は、やけに力強いものだった。
「遊ばない。そろそろ戻るぞ!」
イヴァンは踵を返して立ち去って行く。肩を怒らせて、踏み荒らすような荒々しい足取りで。
「流石に調子に乗りすぎたわね。行きましょうか、ミコラ」
苦笑して歩き出したエルネスタの横で、狼があくび混じりの鳴き声を上げた。
翻訳するとこう述べていたのだが、エルネスタが知る術はない。
[あいつ自分が狼になるって勘違いしたんだぜ。しかも一瞬迷ってた。エリーに撫でてもらえるなら良いかもって思ったんだろ、あのむっつり]
*
部屋に戻るとダシャが一人分の朝食を用意していた。
そろそろ誰かと食事をとりたいと思っていたエルネスタは、そうと解らぬように肩を落とした。
「ダシャはもう食べたのよね?」
「あ……あの、申し訳ございません。私は実家からの通いなので、家で食べてしまうんです」
残念そうに眉を下げる専属侍女に、エルネスタは慌てて首を振った。
「良いのよ、当たり前だわ。ダシャはご実家から通ってくれていたのね」
「はい、そうなんです。行儀見習いの女子はお城に住まわせて頂いている者も多いのですが、私は幸い城下に実家がありますので」
また知らない常識が飛び出してきた。住み込みの者とそうでない者が居るのは考えてみれば当たり前だし、そういえばクデラ夫妻も通いだと言っていた気がする。
「ダシャのご実家って?」
未だに彼女のフルネームを知らないことに、エルネスタはようやく気が付いた。この国では当主以外あまり姓を名乗らないので、そういったことが起こりがちなのだ。
「はい! 私の家は、ザヴェスキーと言います。ダシャ・レンカ・ザヴェスキーです!」
エルネスタはぴたりと動きを止めた。聞き覚えのある姓だ。そう確か、イヴァンの友人のーー。
「テオドルさん……?」
無遠慮にその名前を口に出してしまったのだが、ダシャは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「王妃様、兄をご存知なんですか?」
「やっぱり……! お兄さん、なのね?」
つい一昨日聞いたばかりの、とても悲しく印象的なあの話を忘れるはずもない。エルネスタは驚きのままその事実を受け止めたが、言われてみれば腑に落ちることがあった。
二人に共通する髪の色。イヴァンが言っていたことによれば、「ダシャはあいつとそっくり」らしい。
「はい。自慢の兄です」
ダシャは優しい光を宿した目を細めた。きっと兄との思い出を見つめているのだろう。
「兄は私がまだ赤ん坊だった頃に戦に行ってしまったので、記憶は残っていないのですけどね。兄の死の一報が届いた時も、私はまだ死というものを漠然としか理解していなくて……遺体も帰って来ず、陛下が直々に遺品をお届け下さった時に、ようやく実感が湧いて」
ダシャは穏やかな笑みを浮かべていた。幼くともきっと涙したことだろう。どれほどの時をかけて、これほどまでに強く乗り越えていったのか。
彼女が底抜けに優しく公平であることを深く思い知る。ダシャは人との戦で敬愛する兄を喪いながらも、人間であるエルネスタにこうして分け隔てなく接してくれていたのだ。
「私は六歳だったので、当時のことはあまり覚えていないのですが。陛下は表面上はいつも通りでも、実際は酷く気落ちなさっていたと聞いたことがあります」
イヴァンはあの時、随分あっさりとした口調で当時を語っていた。
苦しくないはずがないのに。エルネスタにも親友と呼べる存在はいるが、彼女らが自分を庇って命を落としたりしたら、どれ程の絶望を抱くことだろう。
「家族全員陛下には心から感謝しているんです。私は使命を果たした兄を誇りに思っています。……すみません、暗い話になってしまいましたね」
「そんなことないわ。大事な話を聞かせてくれてありがとう」
ダシャは恐縮しつつも微笑んでくれた。こうやって彼女と話を出来るようになったことが、エルネスタにはとても嬉しかった。
「でも、そうですか。陛下が兄のことをお話しになったのですね。きっと王妃様を信頼しておられるのでしょう」
ダシャの笑顔はいつも以上に朗らかだ。少女の喜びようを裏切るのは心苦しかったが、エルネスタはのろのろと首を振る。
「そんなこと……」
「いいえ、あります! 人狼の戦士はそう簡単に弱みを見せませんから。お二人の仲が宜しいので、私はとっても嬉しいんですよ」
専属侍女のまっすぐな瞳から純粋な親愛の情を感じて、エルネスタは胸を締め付けられるような思いがした。
今ダシャが見ているのは本物の夫婦ではない。三週間後に人知れず消え去れば、二度とは戻らない幻影だというのに。
「それは……陛下が、優しいだけで」
「そんなにご謙遜なさらなくても。王妃様はもっと図々しくて丁度いいくらいです。陛下のことをお慕いしておられる王妃様は、とてもお可愛らしいです」
その瞬間、エルネスタは頭の中を真っ白にした。
全く予想外の方向から鉄砲で撃たれたような気分だった。今までそんな事は考えたこともなかったから、応か否かの判断すらままならない。
ーー好き。私が、イヴァンのことを?
エルネスタはすぐにここを出て行く身であり、嘘をついて彼を騙す最低最悪の人間だ。好きになっていいはずがないし、そもそもイヴァンは雲の上の存在だったはず。王様で、格好良くて、不器用だけど優しくて、本来の自分なら会うことすら叶わなかったひと。
そうに決まっている……はずだ。
「ダシャ、それは……!」
声に出して否定したいと咄嗟に思った。けれど国王夫妻の仲の良さを信じる少女にそれを言うわけにもいかず、エルネスタは真っ赤になって口をつぐむ。
その様子をどう思ったのか、ダシャは笑みを更に深めると、自分の胸をどんと叩いて見せた。
「大丈夫です、何も心配はございません! あと、陛下より夕食はご一緒にお召し上がりになると仰せつかっております。よろしゅうございましたね王妃様!」
何が大丈夫なのか全くわからなかったが、とりあえず夕飯が一人ではない事だけは確定したらしい。




