狼とボール投げ 1
次の朝はやけに目覚めが良かった。
未だ薄暗い中で意識を覚醒させたエルネスタは、隣に眠る端正な面立ちを視界に収めてそっと微笑む。
こうしてまじまじと寝顔を見つめるのは初めてだ。近寄りがたい程端麗な顔も、こうして眠っていると子供のようにあどけなく見える。
起きるのを待っていたいと思ったが、それは図々しい願いだと首を振った。昨日はたまたま同時に目を覚ましただけだ。イヴァンだって、そんなことをされたら嫌に決まっている。
エルネスタは疲れているのであろう王の眠りを妨げないように、そっと寝台から起き上がった。
良い朝だ。色々と気になることはあるけれど、ジタバタしても仕方がない。こんな日は朝食まで散歩でもしてみよう。
自室に戻って身支度を整え、迷いのない足取りで廊下に出る。そのまま当てもなく歩き始めると、すぐに宰相閣下と行き会うことになった。
「おはようございます、スレザーク卿。随分お早いんですね」
「おはようございます。王妃様こそ、このような早朝からどうなさったのです」
ヨハンは相変わらず隙のない身なりをしていて、眼鏡の奥の瞳を光らせている。その鋭さはいつもより増していたのだが、エルネスタが見分けられる事でもなかった。
「たまたま早く目が覚めてしまったの。散歩に行こうと思うのだけど、どこかおすすめの場所はない?」
何も気構えなく尋ねたのだが、ヨハンはさっと顔を強張らせた。
「それはいけません。陛下より王妃様の警護を強化するよう仰せつかっております」
「警護を?」
そんな話は初めて聞いた。何かあったのかと考えようとして、一つの可能性に思い至る。
それは警護ではなく、監視なのではないかと。
エルネスタはすっと血の気の引くような思いがしたが、意外にも質問の答えはあっさりと返ってきた。
「近頃、何やら不穏な動きがあるのです。何者かはわかりませんので、とにかく用心するべきでしょう」
知らない間にそんな事態になっていたとは。昨日は誰かと酒盛りをして遅くなったのかと思っていたが、会議が長引いたということもあったのかもしれない。
「わかったわ、それなら散歩なんてしていては駄目ね。教えてくれてありがとう」
「お待ち下さい、王妃様」
踵を返そうとしたところで呼び止められてしまった。
何だろうと首を傾げていると、ヨハンは廊下に面した中庭にちらと視線を移して見せた。
「中庭くらいなら大丈夫でしょう。陛下はあまり行動を制限するなとも仰られましたので」
「陛下が、そんな事を?」
「ええ。たまには息抜きでもなさっては如何です」
昨日は十分息抜きになったので何だか申し訳ない。エルネスタが躊躇していると、廊下の向こうから近付いてくる影があった。
「ミコラ!」
名を呼ばれた狼は、嬉しそうに走ってエルネスタの前で四つ足を止めた。彼はアークリグの裾を噛んで引っ張り始めたのだが、それを見咎めたのはヨハンだった。
「ミコラ、女性の装いに噛み付くとは何事ですか」
するとミコラーシュはぱっと口を開いてエルネスタを解放した。
ヨハンの眼差しは意外なほど優しい。もしかすると彼はこの狼を可愛がっているのかもしれない。
「おはよう、ミコラ」
挨拶に対して鳴き声を返したミコラーシュは、次にはそろそろと歩き出す。数歩進んだところでこちらを振り返る動作を見ていると、脳裏に閃くものがあった。
「もしかして、ついてこいって言ってるの?」
「そのようですね」
そしてヨハンがあっさりと頷くのだから、信じられないほどの感動が胸に湧き上がってくる。
動物が道案内をしてくれるだなんて、それこそ童話みたいだ。
「参りましょうか。私も同行致しますので」
「そんな、スレザーク卿はお忙しいのでしょう」
「私の事はどうぞお気になさらず。さあ」
そうして狼の先導で歩いた先は件の中庭だった。警護についてもヨハンに気苦労をかけずに済みそうだったので、エルネスタはほっと胸を撫で下ろす。
緑と夏の花々が満たした空間を銀色の毛並みが横切ったかと思うと、またすぐに戻って何かを差し出してきた。
「どうしたのミコラ。あら、これは……」
受け取ってみると、それは羊革でできたボールだった。
「どうやらそれを投げろと言っているようですね」
「そうなの……⁉︎」
そろそろ本格的に夢の中にいるようだ。八年前に狼を手当てしたことも奇跡みたいだと思ったのに、まさか一緒に遊べるだなんて。
ミコラーシュは元気よく吠えて見せた。何となく犬に見えてきた気もするが、そんな事はどうでもいい。
「投げてもいいかしら、スレザーク卿」
「王妃様のお望み通りに」
一応確認を取ってみたら、ヨハンは淡々と頷き返してくれた。彼が許したということは、シェンカの王家では女がボールを投げるのはおかしなことではないらしい。
エルネスタは指を鳴らしたい気分だった。何せ隣家の犬を手懐けて五年の手練れなのだ。
「よし、いくわよミコラ!」
エルネスタが振りかぶると同時、ミコラーシュは猛烈な勢いで駆け出した。
「そぉ……れっ!」
それは中々に美しい投擲だった。
ボールが朝焼けに弧を描いて飛んで行く。ヨハンもまたその様を驚きの眼差しで見つめ、最終的には銀色の狼が見事にキャッチをしたのを目の当たりにする事になった。
「わあ! ミコラ、凄い凄い!」
ミコラーシュは駆ける勢いを殺さないまま戻ってきた。誇らしげにボールを咥えた彼を、エルネスタは目一杯撫でてやる。
「偉いわミコラ! よしよし、上手上手!」
相変わらずふわふわの毛並みだ。顔を埋めて一緒に転げ回りたいくらいだが、流石にそれはまずいと踏みとどまる。
「もう一回! そぉれっ!」
またしても華麗にキャッチして戻ってくる狼。ヨハンが「……犬」と呟いたのを、エルネスタははっきりと聞き留めてしまった。
そう感じるのは無理もないけれど、ミコラーシュに言うのは禁句だと思う。ものすごく怒るような気がする。確実に。
「ミコラ〜! いいこ、いいこね」
とりあえず可愛い事には違いないので、エルネスタは自身の不謹慎な例えを追い出した。
そうしてわしゃわしゃと銀色の毛並みを撫で回していたら、白い腹まで見せられたので、遠慮なく触らせてもらう。
控えめに言って最高の感触だ。本当に可愛い。ああ、人目も憚らずに抱きつきたい……。
「エリー!」
唐突に名前を呼ばれたことで、幸いにも欲望は霧散していった。振り向くと、そこには中庭を横切るイヴァンの姿があった。
昨日と同じグレーのチョハを纏ったまま、物凄い速さで走ってくる。呆気にとられているうちに目の前までやってきた彼は、エルネスタの肩を掴むや否や、珍しくも大声を出した。
「無事だな⁉︎」
「え? うん、はい。大丈夫よ」
勢いに押されるままに何度も頷くと、イヴァンは良かったと言って深々と溜息をついた。
忙しい彼を朝から走らせるとは、とんでもないことをしてしまった。思うより状況は深刻だったようだ。
「ごめんなさい……」
「いや、いい。俺が勝手に焦っただけだ」
イヴァンはそこでぎくりと体を固めた。彼の視線の先には宰相閣下と狼がいて、目を皿のようにしてこちらの様子を伺っている。
「……ヨハン。いたのか」
「おりましたとも。ここまで王妃様を護衛したのは私ですので」
ヨハンが気楽に返すのを見て、エルネスタはやけに嬉しく思った。どうやら彼らは想像していたよりも仲が良いらしい。
「そうか、礼を言う。もう仕事に戻っていい」
「承知しました」
ヨハンは無表情で頷いて踵を返したが、何故かイヴァンがその後ろ姿を呼び止める。
「ヨハン。俺は昨日、お前たちに何か言ったか」
「特に何も。昔話をしたくらいです」
ヨハンは今までで一番の笑みを浮かべた。それは旧知から見れば含みのあるものでしかなかったのだが、エルネスタには朝の光のように爽やかに見えた。
「そうそう、あとできちんとお着替え下さいね。臣下に示しがつきませんので」
ヨハンは今度こそ去って行った。
どうやら鋭い宰相閣下には、昨日と同じ服を着ているのがばればれだったらしい。よく見ると金の髪は乱れていたし、チェストの上の短剣も置き去りにしたようなので、もしかすると起きてすぐに来てくれたのかもしれない。
足音が聞こえなくなるのを待って、イヴァンは気まずそうに切り出してきた。
「……エリーにも、聞いておきたいのだが。俺は昨夜、何か無礼を働いただろうか」




